249 シルリア・エヴァンシスの独白・下
死せることこそが娘への最後にして最大の手向けである、と。
彼女はそう言った。
「短命のエヴァンシス家における代替わりとは即ち先代の死を意味するものと称しても過言ではありません。受け継ぎ、役目を終えた者は、ただ消え去るのみ。時折起こる『親殺し』もこのサイクルに由来するものです」
親は娘へ当主の座を速やかに譲渡することこそが使命となるが、親と子の才能差や子の人数、更に時代時代の都合によりそれが必ずしもスムーズに行われるとは限らず、しばしば利権争いにも似た相続の問題も起こった。それ故に不必要と判断された親が自らの子によって殺されることもさして珍しいことではなかった――エヴァンシス家の落命の理由は大概が病や事故による偶然の死であるが、中には殺害されて強引にその生を終わらされた者も少なからず存在するのだ。
「私の母が祖母に対し早めの引導を渡したのも同じような理由からでしょう。私の成長に祖母は不必要と……いえ、いっそ悪影響だと判断した。私は祖母を好いてはいませんでしたし、彼女もまた自分と娘の才能を受け継がなかった孫娘を嫌っていた――憎んですらいた。私はエヴァンシス家の者として教育を施されていましたが、それでも幼い身に受ける身内からの悪意というものは些か手厳しいものがありました。その時期は己が非才さに悩まされていた頃でもありましたから、余計に祖母のことが怖かった。私を呪い殺さんばかりの瞳で見てくる寝たきりの彼女こそが、幼い私にとっては最たる恐怖でしたわ」
娘の委縮を感じ取ったシルリアの母は、迷うことなく実母の殺害を実行した。
彼女が何をしたか当時のシルリアには当然知らされなかったが、それでも非情な決断が下されたことは子供ながらに理解できていた。
「そんな母を恐れもしましたが敬いもしました。その悍ましき行為が間違いなく私のためにされたことだと実感したからです。継承者の成長を阻害する要因を排除したと言えばそれまでですが、その時の母から感じたものは決してそれだけではなかった。厳しい人でしたが、彼女には確かに愛情があった――私ですらも、それを感じることができるほどに」
しかしそこで、シルリアは力なく首を振った。何かに気付いたように疲れた顔を歪ませながら、自身の言葉を否定する。
「いえ、違いますね。この言い方は正答ではない。正しく言うなら、非才な私だからこそ人並みの愛情というものを感じる機会があった。おそらくそういうことなのでしょう」
天摩神の末裔としては凡人以下であると自認する彼女は、それを中々認めることができなかった幼少期において、だからこそ母の愛情を受け取る機会に度々恵まれたのだと言う。
翻って、シリカの場合はどうか。
「初めの内は母を参考にした子育てを行いました。教育内容はともかく、娘への接し方に関して上手く模倣できたかと言われれば自信がありません。何故なら私は母ではなく、シリカもまた私ではないからです。別の親子。世代が変わるというのはそういうことで、何もかもを先代のようにとはいかないものですから。特に私はシリカの才に大いなる可能性を見出してもいた。いかに教皇として瑕疵なき成長を遂げさせるかに主題を置いていた母から私への教育とは異なり、いかにエヴァンシス家当主として早く成長させるかに注力した私からシリカへの教育とは、どうしても次第に内容が乖離していくことを避けられませんでした――第一の過ちはそこだったのでしょう」
非才故に脆く、幼いうちには母の庇護の下で日々安心感を得ていたシルリア。
それとは逆に、才覚に恵まれた――恵まれ過ぎたシリカは物心がつく前からその非凡さを存分に発揮し、母からの助力や周囲の者たちの支えというものも必要最低限に絞られてしまった。
才あるが故に愛に満たされなかった少女。
「それでも私なりにシリカへ愛情を示してきたつもりです。しかしそこに、次代と時代を象徴する『覚醒者』に向けた期待が含まれていなかったなどとは、口が裂けても言えない。娘に対するそれよりも、優れた才能そのものを愛でるような愛し方になってしまったこと――それこそが第二の過ちでした」
なまじ優秀なばかりに無茶な教育、過度な詰め込みにも順応してみせたシリカは、精神的な成熟を待たずしてそれが普通なのだと刷り込まれた状態になった。
血の力を育てることも、教皇としての責務を覚えることも、やらされるのが当然でやることが当たり前。そしてやれてしまうことも当たり前。
幼少よりそういった理解の仕方をしたシリカはそのせいで反抗など一切しなかった。そもそも反感すらも抱かなかった。歪んだままで成長し、歳を重ねたことで単なる知力とは別の分野で物を考える力を得て、そしてある日唐突に気付くことになる。
自分がどれだけ優れているか――どれだけ『特別』であるかを。
「第三の過ちは、シリカの心の悲鳴を聞き逃してしまったこと。ひたすらに彼女を育て上げることにしか意識が向かず、なんであろうと口ごたえすることなく期待に応え続ける我が子の心情を慮ることを忘れていた。それも自ら進んで忘却し、積極的に放棄していた。これは必要なことなのだと己に言い聞かせるようにして教育を進めていった――祖母の代に手に入れた七聖具。秘中の秘と教えられた聖杯すらもシリカに使用することへ、私は少しの躊躇も抱かなかった……」
その時シリカは既に動き出していた。我が身がいかに『エヴァンシス』であるかを正しく自認した彼女は、自分がどれほど抑圧された状態でいるかを知ってしまったのだ。
向き場はあれど発散のさせようがない少女の歪な情動は、やがて最悪な形で露呈することになる。
「シリカが聖杯を持ち出したことは、二ヵ月前の儀式の結果から察していました。そんなことをするからには覚醒の目途がついているのだろうと、私はそう信じた。彼女が初めて私に隠し事をするということに少なからずショックを受けましたが、『覚醒者』に至るということは得てしてそういうものです。母の手を離れ、娘が羽ばたくこと。その礎になれるのならこれ以上に本望なことはない――そう、たとえシリカが私を殺めることでこの立場を奪おうと企んだとしても、それを笑って許せる程度には。娘の意思に潔く殉じられる程度には、私なりの覚悟をしているつもりでした」
だから悪魔憑きの情報がテレスティアよりもたらされ、同時にその正体がシリカである可能性が著しく高いと結論付けたシルリアは、そこから娘を庇い立てすることに全力を捧げた。覚醒者の現出はその力の規模により往々にして少なくない血が流れるものだ。シリカもまたエヴァンシス家の血の本能に則って行動しているのだろうと、そう疑わなかった彼女だが――しかして事の本質はそこにはなかった。
シリカはとっくに覚醒者として目覚めていた。されどその圧倒的才覚で以ってして誰にもそのことを悟らせず、静かに機を窺っていたのだ。
シルリアが思い描くのとは大きく異なる羽ばたき方をするために――あるいはそれは。
シリカ本人が当初描いていた夢物語ともかけ離れたものであったのではないか。
「エヴァンシス家の根底にして歯車に過ぎない、私たちという存在。誰であっても血の意思に従ってきた私や母、その前の幾重もの世代たちを、シリカは軽々と飛び越えていった――超越していた。血の意思を自らの意思の下に置き、本当の意味で天摩神の力を行使できるようになっていた。思わぬ誤算でしたわ。まさかあの子がここまでだとは、さすがに想定すらもできなかった。まさか、まさか、まさか――歴代の当主が恐怖し、それでも受け入れざるを得なかったエヴァンシスの運命を。真っ向から否定し叩き伏せるような者がこの血より生まれ出でるなどと――いったい誰に予想がつきましょう?」
エヴァンシスの女。
己が母よりそう評された彼女だからこそ、尚のこと見抜けなかったのかもしれない。
早々に諦めてきた自分以前の当主たちと違って、シリカは常に苦しみ続けてきたことに――運命というものに並々ならぬ『怒り』を抱いていたことに。
「シリカに無理をさせていることは、承知していたのです。この育て方は誤りであると、過ちであると、私はきっとどこかで気付いていた。それでも変えられなかった。変われなかった。変わりたいとも、変わるべきだとも、思えなかった。所詮は私もエヴァンシスの血に支配された女。ただそれだけの歯車でしかない……なればこそ、運命の破壊者たるシリカの手によって壊されるべきだった。今でも、嘘偽りなく、私はそう思っているのです……ねえ、ナイン様。あなたはどうかしら?」
本来であれば自分は、シリカという運命の破壊者によってこの喉を縊られ、殺されていただろうと。
それが為されなかったのは偏に、怪物少女というもう一人の破壊者が偶々その場に居合わせたからだ。
「助かったことを、喜ぶべきかどうか。命の恩人である貴女様を前にしてこんなことは言うべきではないでしょうけれど――それでもこう考えてしまうのです。シリカ・アトリエス・エヴァンシスがこの世に誕生したからには。これまでの旧き世代は――初代アトリエスより私まで続いた『過去の系譜』は。もうとっくに、その役目を終えてしまったのではないかと」
初めからナインの返答など期待していなかったのだろう。そこまで語り終えたシルリアは、もはや何も言うべきことはないとばかりに口を閉ざして。
まるで長い眠りにつくかのように、ゆっくりとその瞼を下ろした――。
死んでませんよ、とりとり