228 壊すことは愉しいこと
「せ、聖杯の――大悪魔。これがそうだというのか……」
横にいるテレスティアから感じ取れる困惑はナインにとってもよくわかるものだった――他ならぬ自分自身も似たような戸惑いを抱いているからだ。
悪魔とは存在自体が傍迷惑な生き物であり、遊び半分で人間を殺す者や、操って社会を混乱に陥れる者など、真祖の吸血鬼などと同じく人類にとっての天敵として数えられるべき邪悪な種族だ。
その中でも現代において一際有名なのが、かつて聖杯に封印された大悪魔である。
大戦時代の終結に伴って混迷期に便乗するようにして大陸のあちこちで騒動を起こしたという、恐るべき悪魔の中の悪魔。
語られ過ぎて一種の寝物語のようになってしまったことで現代の人々にとっては現実感が大いに薄れてきているきらいもあるものの、しかし物語上の大悪魔は得てしてとても悍ましい風貌で語られるのが常であって、その点には誰しもが疑問の余地など持っていないはず。
マネスが生物をごちゃまぜにしたような生理的嫌悪感を生じさせる見た目をしていたように、それよりも上位種かつ悪意に満ちた大悪魔であれば人型に近づくという上位悪魔の常識を超え、より奇怪かつグロテスクな外見をしていることだろうと推測されていた――ところが。
実際にナインらの前に現れたのはどこからどう見てもただの子供でしかない。
灰色の髪や褐色の肌は特徴的ではあっても強く目を引くこともない。その明るい笑顔、無邪気な所作、こまっしゃくれた態度も、どこにでもいるような背伸びしているだけの子供にしか見えない――いかにも悪魔然とした姿を思い描いていた者からすればこれは意外どころの話ではない。その口から語られる言葉の真偽を疑いたくなるほどである。
だがいかに外見が子供らしかろうと、ソレが放つ人外らしい気配。
隠そうともしていない『闇の魔力』は本物だ。
聖属性の魔力を操るテレスティアなどは、朧げに気配を感じるしかできないナインやクレイドールなどよりもよっぽどその子供の異常性を読み取っていた。
(こいつか……こいつがシリカ様を誑かしたのか……!!)
きっと睨みつけるテレスティア。その双眸は先のアルドーニ以上に険しいものだ。そんな目を向けられた悪魔はされど、その敵意がむしろ心地いいと言わんばかりに「くふふ」と笑った。
「わあ、見るからにおかんむりだぁ。こわいこわい。ねえシリカ、君一番の忠臣くんがボクを虐める気でいるらしいんだ――誤解でもしているんだろうねえ。君からもなにか言ってやって? ほら、ボクがどれだけ献身的で君のために役立ってきた良い悪魔かってことをさ、ちゃんと説明してやってほしいんだ」
「そうね。私のほうから言わなきゃテレスティアは納得しないでしょうしね……」
心得たとひとつ頷いたシリカは、腰元に抱き着く悪魔の頭を撫でながらテレスティアへ注意するような口調で言った。
「誤解しないでほしいの、テレスティア。あなたはきっと、私が悪魔さんにいいように操られているとでも考えているのでしょうけど――それは違うわ。真相はむしろ反対なのよ。悪魔さんは従順なまでに私の願いを聞き入れてくれた。確かに私の弱い心をほんのちょっとだけ矯正してもらいはしたけれど、それだって自分から望んだことなんだから」
矯正。
それはおかしくなったものを正常な状態に戻すこと。
シリカは言う――歪んだのではなく、歪みを正してもらったのだと。
「抑圧された私という自己を、元の形に直してくれたのよ。本来こうあるべきだったという私の精神性を取り戻させてくれた……思えば、誰にも打ち明けられない私の弱さ。それを共有できる友達を欲したのが聖杯を求めた始まりだったわ。代替わりや望んでもいない婚姻がイヤで、必死に血の覚醒を隠してきた私だけど、それも限界が近いと分かり始めて……そこでこの心は、きっと壊れてしまったの。いえ、元々壊れていたものが、砕け散って灰になったとでも言うべきなのかもしれない」
さらりと灰色の髪を梳く。悪魔はくすぐったそうにした。
テレスティアを、そしてナインとクレイドールを視界に収めながらも、シリカはどこか遠くを見つめるような瞳をしている。
「悪魔さんと契約してからは、ぐっと心が楽になったわ。生まれて初めて自分らしく生きている気がした――なんでも相談できるというのは、とてもいいものね。私の大それた希望も、悪魔さんは否定せずに、むしろ大いに肯定してくれたわ。そして手伝ってくれた。悪魔さんの力はどれも素晴らしく有用だった。模造品を生み出す力も、人を悪魔に変える力も、転移もそう。おかげで私は信徒たちの監視も抜けて街に行けたし、座談会が始まってからも異教徒のもとへ飛ぶことができた」
そこでシリカの目の焦点は対面する一同へと向けられた。
「あなたたちにもお礼を言わないとね。兇手から守ってくれている間に、私は悠々と本殿へ転移して他宗教の連中の息の根を止めて回ることができた。至福会の死と毒殺未遂の件で今までにないほど警備は厳重だったけれど、客室の中にまで目を光らせてはいないのだから同じことよ。悪魔さんの転移はとても静かで、気付かれにくい。しかもシルリアがわざわざ私の動きやすいようにと警備隊員の注意を迎賓館にまで向けさせたものだから、それはますます容易いことだったわ」
ナインの腕の中でぐったりと意識を失っている己が母を動物でも眺めるような目でちらりと一瞥しながら、シリカはその口角を上げた。
「実に見事だとは思わない? 表向きは娘の安否を憂いて、裏では娘の犯行を手助けして。十使徒が打ち立てたという私を餌とする浅はかな策すらも自然と活用してみせて。――それでいてこの女には、欠片足りとも肉親の情なんてなかった! 私に裏切られたその時も、自分が死のうというその時も、こいつの頭の中にはエヴァンシスと天秤の羽根の存続。ただそれだけしかなかった! 私を、私のことを、私のことなんて――一度だって! 見てくれてはいなかったのよ!」
思いを吐き出す。
それはきっと十二年間で積もりに積もった彼女の苦慮の集合体なのだろう。
激情が溢れ出し、彼女の言葉はまだ止まらない。
「母の愛があると思っていた。娘として愛してくれていると思っていた。……なんて愚かだったのかしら。こいつにそんな人らしい感情があるはずがなかったのよ! きっとそれに薄々気付いていた、なのに気付かないふりをしていた。愛があると思い込んでいた――それでも信じていたかった! だから初めは、助ける気でいたのに。死なない程度の毒で茶番劇を起こすだけに留めてやったのに。宗教会を潰して、こいつには体調不良で隠遁でもしてもらおうと計画していたのに。だけど、私を止めようとする者が現れて。止めるべきはずのこの女は私を唆そうとしていると知った時……何もかもがどうでもよくなった。こんなものを欲しがっていたんじゃないと、そこでようやく目が覚めた――入れ物なんて、今の私にはいらないのよ。教皇も、天秤の羽根も、そしてアムアシナムも。こんな窮屈な籠なんて、私にはいらない!」
少女の全身に力が込められる。シリカが何をしようとしているかは明白だ。先と同じく感情任せに魔力を放出しようとしているのだろう。たとえ礼服に身を包んでいようとさすがに二度目はシルリアにとって致命的なものになるだろう――慌ててナインが守護幕を発動させようとするよりも先に、動いた者がいた。
テレスティアだ。
彼女はシリカへと近づき、何をするかと思えば――地に両手を着き、頭を下げたではないか。
「お許しください、シリカ様! あなたの悲鳴に気付かなかった私を――いえ! 許されずともけっこう、ただ! 裁くのならどうか私を! 私であればいかように痛めつけてもらっても構いません、ですからどうか……もうおやめになってください!」
土下座の姿勢で懇願する彼女に、シリカは一瞬きょとんとした表情を見せた。
「やめる……?」
「はい。怒り任せの暴力など、とてもあなたに似つかわしくない」
「私に似合うものって、なにかしら――それは人形でいること? 籠の中の鳥でいること? システムの一部として、誰とも知らぬ男に抱かれ、子供を産んで、その子もまた人形に育てること? ――私が私として生きられない世界に、自分からまた戻れと、あなたはそう言っているの?」
「そ、れは――」
「ねえテレス、ねえねえテレス――どうか私の幸せを願ってちょうだいテレス。あなただけはせめてそれを願ってくれなくちゃ、とても寂しいわ。そうでないと私の十二年間が、本当になんの価値もないものになってしまう」
「そんな、そんなことは……、」
眉尻を下げて悲痛な顔をするテレスティア。それを見てくすりと笑ったシリカは、しゃがみ込んでその頬へ手を当てた。彼女を安心させるように優しく指を動かし、子供に聞かせるような声音で囁く。
「安心して。私、今はとっても清々しい気分なの。楽しいのよ。何かを壊すって、いいものだわ。それが自分にとって不必要だったり、邪魔なものなら、尚更ね。そういう物がぶっ壊れる音っていうのはとてもいい響きなの――うっとりするくらいに気持ちのいい音色がする。一番邪魔な物も、もうすぐ消える。ここから私は羽ばたくのよ」
「シリカ、様」
「ねえ、テレス。よかったら、あなたもついてくる?」
「え……?」
「あなただけは、ずっと私の味方でいてくれたでしょう。この本心には決して気付いてくれなかったけれど、あなたの純粋な優しさはこれまでの間、とても私を助けてくれたわ。テレスがいなければ私はとっくにただの人形として、自分の人生を諦めてしまっていたでしょう。物言わぬ人形になっていたことでしょう……。感謝しているのよ。本当にあなたには感謝している。だから、ね」
――壊す愉しみを、あなたにも教えてあげるわ。
そしてそこに、眩いばかりの光が灯った。




