227 悪魔の導き
偽りの微笑みすら消えた、なんの色もない顔は――冷たいだとか、温かいだとか、それどころの話ではなく。
そこには虚無だけしかなかった。
ぽっかりと開いた底の見えない穴を覗き込むような不安感を抱かせる、無の形。
色味を失った空っぽのそれは、間違っても十二歳そこらの少女が作っていいようなものでは決してなく。
ナインは悟る。
たった今、彼女の内部では――何かただならぬ一線が断ち切られてしまったのだと。
「そう……貴女は最後までも、どこまでも、そんな貴女なのね」
ぽつりと小さく発せられた言葉。その穏やかな声が、逆に彼女の怒りを如実に表している――否。
それは怒りなどという生易しいものではなく。
純なるまでの本気の殺意だった。
「シリカ様っ! どうか、どうかお気を確かに!」
「――テレス」
塗り固められた殺意の無表情が、少しだけ元の少女らしい顔つきに戻った。訴えかける己が臣下に目を向けたシリカはくすりと笑ってみせた。
「慌てなくていいのよ、テレス。私は自分を正気だとは思ってないけれど、決して狂っているとも思わない。私は私のやりたいようにやっているだけなの。あなたも応援してくれるでしょう?」
「シリカ様。あなたは今、取り返しのつかないことをなさろうとしている。それも一時の感情によってです。どうか冷静になって、一度その手をお放しになってください」
「取り返しのつかないこと? 面白いことを言うのね――それを言うならこの計画を実行した段階で、とっくに私は戻れないところにまで来ているのよ。今更命のひとつやふたつを手にかけなかったところで、何が変わるの? 変わらない――いいえ、変わってはいけないのよ。変わるのはあくまで私を取り巻くものたち全てであって、私自身は変わっちゃダメなの。私は私のままで、自由になるの! お分かりかしら、お母様。血に支配されている体たらくで覚醒者などと呼ぶのは片腹が痛い。私こそが! エヴァンシス家の真なる覚醒者! 天摩神の血を完璧に掌握した本当の『末裔』なのよ! これまでの紛い物たちのように、与えられた庭で満足するような愚物になんて、なってたまるものですか!」
「シ、シリカ様……、」
どう説得すればいいかなどもはやまるでわからないテレスティアが言葉に詰まっていると、この場に居合わせるもう一人の隊長が静かに進み出た。
「――おやめください、シリカ様」
「あら、アルドーニ……その剣はなに?」
「すぐにも教皇様を解放していただきたい。そうでなければ……私はあなたを、斬らねばならなくなる」
「くす、くすくす」
ころころと笑うシリカは本気で楽しそうにしている。アルドーニの武装は剣。話し合いの場ということで専用装備の大戦斧こそ置いてきているものの、彼は剣の扱いも苦手としていない。通常の警備隊員が使用するものより幾分か大きい剣をシリカに向けて構えるアルドーニは非常に厳しい形相をしている。大男が厳めしく武器を構えるその姿は傍から見ていても相当なプレッシャーを抱かずにはいられないが、刃を向けられている当の本人は毛ほども重圧など感じていないようだ。
「いいの? だって私は次期教皇。天秤の羽根一番の剣であるところのあなたが、そんな私に武器を向けて……あまつさえ、切り捨てようだなんて」
「殺しはしませぬ。しかし、言うことを聞いて下さらなければ、手足の一本程度は貰い受けるつもりです。いつかあなた様が教皇の座につこうとも、現在の教皇は――私がお仕えしているのはシルリア様なのですから」
「見事な忠節だわ。さすがは警備隊長。こんな組織で成り上がっただけのことはある堂に入った狂いっぷりよね――うふふ」
「…………」
小馬鹿にするようなシリカに応えようとはせず、アルドーニは黙して構えるのみだ。彼も本気だ。告げた言葉に嘘はなく、シリカがシルリアを殺そうとするならば本気で彼女の腕や脚を斬り落とすつもりでいるのだろう。
――あるいは「殺さない」と告げたことこそが嘘である可能性も、あるのかもしれないが。
「いいわ。じゃあ、勝負しましょうか」
「……なんですと?」
「だから、勝負。私がこの女を殺すのが速いか、あなたが私を斬るほうが速いか。もっと正確に言えば、私が握った首を折るのが先か、あなたがその位置から私へ剣を届かせるほうが先か――うん、いい勝負になりそうよね? 私たち対等な条件ですものね」
クス、クスクスクスクスクスクス。
少女は嗤う――悪辣に嘲笑する。
アルドーニは思わず歯噛みする。彼とてそれが間に合うはずもないことなどわかっている。わかったうえでシリカを止めようとしているのだ。しかし現実問題、少し手に力を入れればそれで目的を達する彼女と駆けて踏み込んで斬る、というアクションが必要な自分とではまったくもって勝負になどならない。止められるはずがない――だが、それでも彼はやらねばならぬ。無理を通さなければ、教皇が死ぬのだ。
「準備はいいわね? さあ、よーい――スター」
ト、と言いかけた彼女の背後で瓦礫が弾けた。
勢いよく姿を現したのはクレイドール。彼女は自身の耐久性を活かして埋もれた山から脱出しようとはせず身を隠し、その下を掘り進むようにして移動していたのだ。ハイパーセンサーによって拾った音で位置情報と状況を把握し、こうしてベストと思えるタイミングで飛び出した。
眼前の三名にしか注意を払っていなかったシリカにとってその存在は、完全なる予想外。
奇襲は成功、彼女が振り向くよりも先にクレイドールの拳が繰り出される――はずだった。
「なにっ――」
黒い靄にシリカがシルリアともども包まれ、瞬間的にその場から消失した。
と思えば、別の場所へ出現した――転移だ。そうナインが理解した時には、状況は大きく動いていた。
「よくやってくれたわ、悪魔さん」
クレイドールの拳は何もない空間を殴りつけ、代わりにアルドーニの背後へ姿を現したしたシリカは、素早くその手を動かした。
それを視界に捉えたナインもまた動く。考えるよりも先に手を伸ばす。
「があっ……!」
ぶしゅり、と血が飛び散る。
背中からアルドーニの心臓部へ、深々と左手を突き刺すシリカ――その瞬間、アルドーニへ意識を向けているシリカの手からナインがシルリアを奪還し、元の位置まで素早く下がる。これでどうにか教皇の命は助かった……だがその代償として。
「くそったれ……、シルリアさんだけで精一杯だった!」
「アルドーニ隊長! な、なんてことを――シリカ様!!」
二人の絶叫など気にもとめず、空いた片方の手を見ながら左手にべっとりとついた血を舐めとったシリカは「あはっ」と破顔する。
「残念、取られちゃった。でもやっぱり悪魔さんに手伝ってもらったのは正解だったわね――あなたがいなければ、いくら私が覚醒者だからといってこんな真似はできなかったでしょう。感謝しているわ。悪魔さんこそが私を進むべき道へと導いてくれた指導者よ」
「あはっは! 悪魔に導かれた人間の末路は破滅と相場が決まっているけど、君はそうならないことを祈ってるよシリカ。いや、マジでさ。君の行く末には割と本気で期待しているし、感謝しているのはボクだって同じなんだからね――」
ずずず、とシリカの影から立ち上る黒い蒸気のようなものが彼女の全身に纏わりつき、次第にその濃さを増していく。やがてそれは人型を取った。小さな子供だ。ナインと背丈も変わらないような、褐色の肌と灰色の短い髪を持つ、少女とも少年とも取れる、黒い服を身に纏った可愛らしい子供。
――これが、上位悪魔。
マネスとはまるで違う、人間らしく――それでいてどこかしら決定的に違う何かを持つその蠱惑的な雰囲気に、ナインは目を見開いた。隣ではテレスティアも、少し離れた位置ではクレイドールも身構えている。二人にもこの異様さは伝わっているらしい。
人の持つ生来の本能か、一見なんの脅威も持たぬような幼い子供へ過剰なまでに警戒する三人へ、悪魔はふと目を向けて。
シリカのそれによく似た、清々しいまでの笑顔を作ってみせた。
「あはっ! 初めましてだね諸君――ボクはシリカの影から皆のことをよく、よくよく見ていたけど、君たちにとってはこれが初対面なんだからきちんと挨拶をしておこうかな。ほら、ボクってば礼儀正しい悪魔だからね――ここで名乗らなかったらボクの名がシリカ以外誰にも知られないままで終わってしまいそうだっていう焦りもあるんだけどね? シリカったら頼んでもぜーんぜん本名で呼んでくれないもんだからさ。とまあそういうわけなので、ここらで自己紹介をば!」
シリカに引っ付くその子供は、にこやかに胸に手を当てながら言った。
「ボクの素敵な名前はオルトデミフェゴールイリゴーディアバドンだ! 略されるのは嫌いだから、呼ぶときは気軽に『オルトデミフェゴールイリゴーディアバドン』ってちゃんとフルネームで呼んでね! 悪魔さんことボクとの約束だよ? もしも破ったら……まあ、それはその時のお楽しみってことにしておこうかな?」