225 おかしいのはだれ?
同意の声。
頷く仕草。
小さな笑み。
それぞれが口を開く。
席につくものは熱く語り、壁際に立つ使用人たちは静かに目を伏せて背景に徹す。
中心にいるのは教皇で、彼女に召し抱えられる大人たちが手を叩き賛美する。
教皇から最も遠い位置に座る部外者とその従者は、ここに居場所など初めからなかったのかもしれない。
まるで映像を介してみる景色のように教祖の血統とその信徒たちの談合を眺めながら、ナインは他人事のようにそう思った。
そう思わずにはいられないほど、彼らの話す内容は彼女にとって、とても理解しがたいものがあった。
「教皇様の仰られることはすべて正しい」
――なんだ。
「天秤の羽根の存続こそを第一とすることに否やはないのだ」
――なんなんだ。
「これはアムアシナムのためでもある。宗教会が瓦解したからには、責任は私たちが一身に背負わねばならない」
――こいつらは何を言っている。
「都市を率いるにたる組織はもはや我らだけ。他所からの手が伸びる前にアムアシナムの全市民を天秤の羽根信徒とすべきである」
――いったい、何を言ってやがる?
「宗教会にも数えられないような木っ端組織だけならどうとでもなる。オルメッラたちの死はいつまでも隠し通せるものではないが、統合の間だけなら黙すこともできよう」
――俺は今、何を聞かされているんだ?
「残党らがまとまれば少々厄介だが、なに。頭同士が結託しても団結しきれていなかったのだからその頭が丸ごと落ちたとなれば、もはや連中など烏合の衆でしかない」
――さっきからこいつらの話している言葉は、
「御すべきだな。奴らは道筋を失った仔羊も同然。あらぬほうへ進む前に、私たちが正しき道を示してやるのだ。アムアシナムを真の意味で支配下に置くことができれば、万理平定省が嗅ぎ付けたところで体制は変えられない」
――本当に、俺が話す言葉と同じものなのか……?
「十使徒の意見は概ね出揃いましたね――そう、警備隊も私たちに決定に従うということでいいのね? ではテレスティアはどうかしら。あなたはただ一人のシリカ専属護衛。教皇の座が移ればそのまま、あなたが教皇付きの護衛となる。極めて責任重大な立場だわ。そんなあなたの意見も是非、ナイン様に聞かせてあげてくれないかしら」
ぐるぐると、くるくると――まるで視界が回るように、気が遠くなりそうな、頭が変になりそうな、不安定でひどく不快な感覚のなかで、シルリアがテレスティアになにかを言った。そうするとテレスティアは、シルリアの言われるがまま、命じられるまま動く人形のようにこちらを向いて、こんなことを言ってきた。
「私も教皇様の決定に従う――否。この言い方は正確ではない。教皇様の決定に賛成だ。ナイン殿、どうかわかってほしい。君には私たちのやろうとしていうことが欺瞞的に思えるだろう。利己的とも、独善的とも思えるだろう――しかし信じてくれ。この場にいる者は誰一人として、己が欲望のために動いてはいないのだ。すべてはそう、天秤の羽根とアムアシナム。そして次代を担うシリカ様の統治下に『完全なる統一』を求むるがため。元々アムアシナムはエヴァンシス家の土地だった。今が歪んでいるのだ。時代と戦争によって歪んだこの街を元に戻す機会が巡って来たのだと思えば、私たちの取る行動はひとつ。確かにナイン殿の懸念ももっともであり、倫理に触れる部分があることも知ったうえで――それでも私たちは、宗教会の壊滅を利用させてもらう。断じて言わせていただくが、これは決して私利私欲に基づくものではない」
シリカ様へより良い統治の時代を担ってもらうための下地作りを行う必要があるのだ、と。
迷いなくテレスティアはそう言った。
理解してくれナイン殿、と。
頼むような口調で、されど有無を言わさぬ、反対も反目も反論も許さぬ確固たる態度で、少女にそう言ったのだ。
ぐるりぐるり――ナインの視界は更に回る。思考も空回りする。親近感を抱いていた相手が見た目だけそのままに別人へすり替わってしまったような気がして、訳が分からなくなる。
自分がなんのためにここにいるのか、それすらも曖昧にぼやけてしまうようだった。
たくさんの人間が犠牲になっていることも、聖杯の行方も、悪魔憑きの正体も――何もかもを忘れ去って、ただここから逃げ出したいと思う。
不気味だった。
目の前にいる誰しもが、本当に人間なのかと疑ってしまうほどに不気味で、底知れなくて、言いようのない恐怖を感じる。
それくらいこの部屋は、この場所は、この土地は、怖いくらいの異様で異常な空気に包まれている。
――いや、すべてが異常だというのなら、そう感じる自分こそがまともではないのかもしれない。教皇たちこそが普通で、それを疑う自分のほうが、ひょっとするとイカれているのではないか――
「!」
己自身のことすら信じられなくなりかけたその時、ナインの肩に手が置かれた。案じるような触れ方をしたその手は、背後にいるクレイドールのものだ。硬いはずの体ながら日常では少女らしい柔らかさを見せる彼女の手の平から伝わる温もりは、体温の高いクータなどと比べればとても控え目なものだったが――その小さな熱が、ナインの意識を浮上させた。
急速に現実感を取り戻したナインはそっとクレイドールの手の上から自身の手を被せた。
もう心配いらない。
そういう合図だ。
「…………ふぅー」
何も言わず下がったクレイドールへ心中で感謝を述べながら、ナインは息を深く吸って、吐き出す。
そうだ――折りしもオットーから言われたように、ここは冷静になるべき場面だ。惑わされてはいけない。自分のなすべきことを迷ってはいけないのだ。それはナインがナインとして生きてきた約半年ほどで得た、何より重要な教訓のひとつ。
(違和感がある。落ち着いて考えてみれば、はっきりとおかしなことがあるじゃないか。天秤の羽根が今後どうなるかなんて、俺にはどうだっていいことだってのに、そんなことに混乱させられるなんて我ながら情けない――だが。もう俺は止まらねえぞ……!)
ナインは真っ直ぐに教皇シルリアを見つめる。
それに少し意外そうにした彼女だが、すぐに表情はいつもの微笑へと戻った。
それでもいい。
その温度のない顔のままでいい。
ここで問題なのは彼女ではないのだから。
「確認がしたい」
「なんでしょうか、ナイン様――まだ何か納得のいかないことでも?」
「納得いかないことだらけだが、それはもういい。俺が聞きたいのはたったひとつだ……あんた、誰を庇ってる?」
「……、」
一瞬の沈黙。
ナインはそこで確信を強めた。
もっと気にするべきだったのだ――シルリアが頑なに悪魔憑きの情報を周知させない、その理由。ただの職員はともかくここまでシルリアの思い通りになる、良く言えば忠義に厚く、悪く言えば言いなりの最高信徒たちにさえも明かそうとしないのは、どう考えても変だと気付くべきだった。
なんの思惑があるにせよそれは悪魔憑きを増長させる結果にしかならないことなど目に見えている。
だがもしも、それこそがシルリアの目的だったとすれば。
悪魔憑きが思うがままに振る舞えるようにと舞台を整えることこそが思惑であったとするなら――そして天秤の羽根の礎として己が命すら盤上の駒と見据える彼女が、誰のためならそんなことをするのか?
――ああ、ちくしょう。
悔しい。
気付けなかった自分に――気付きたくなかった自分に、腹が立つ。
決定的なのはシルリアの態度だが、もっと小さな違和感は最初からあったはずなのだ。不自然だと思うことは多々あった……なのに自分はそれら全部を、彼女の立場ならどうのと勝手に納得し得る理屈に変換して考えてしまった。
遠回りなどせず、もっと直感的に疑って。
あるいはもっと彼女を信じてみるのでもよかった。
素直にぶつかってみるべきだったのだ。
そうすればひょっとしたら、犠牲はもっと少なく済んでいたかもしれない。
「俺が悪い。こればっかりは、俺の過失と言うしかない。できたはずのことをできなかったのは俺がどうしようもない馬鹿だからだ。――でももっと馬鹿なのがお前だ。おい、しらばっくれるなよ。俯いて誤魔化してるつもりだったのかもしれないが、俺の目はその程度じゃ騙せねえよ。お前が笑っていやがるのはさっきからよく見えてんだぜ――シリカ」
ナインの名指しに、一同の視線がその少女へ向けられる。
会議の開始時から終始顔を伏せ、長い黒髪で表情を隠すようにしていたその少女が、ゆっくりと顔を上げて――。




