217 迎賓館攻防:廊下
アムアシナム六大宗教がひとつ『光来の家』専属兇手であるカームは『罪深き司祭』の中で誰よりも早く迎賓館内への侵入を果たしていた。腕前確かな仲間たちの中でも隠密行動――静かに事を運ぶということに関しては自分が一番適していると考えている彼は、その自信を裏打ちするかのように目標地点までの順路を迷いなく駆け抜けていく。
いっそ奇妙なまでに人気のない廊下からは現時刻が真夜中であることを差し引いても誘い込みの圧を感じずにはいられない。が、誘われるがままに策を決行することが通達された以上、カームは是が非でもそれを成功させねばならない。
だから急ぐ。
足音を立てずに息を殺しながらそれでも素早く走る――のを急に中断し、彼は足を止めた。
目を凝らし闇を見つめたその直後、閃く一筋の剣閃に「……っ」身を捻ってカームはその場から飛びのいた。
現れたのは一人の女性。
「これより先は何人たりとも進むこと叶わず。故にここが貴様の死に場所となると知れ」
「おやおや……。てっきり貴女は先で待ち構えているものと思っていたんですけどね。まあ、いいでしょう。どこで殺っても同じことだ」
剣を構えるテレスティア・ロールシャー。彼女を見据えながらゆらりと体を動かしたカームは――「ふっ」と口から何かを飛ばした。
迫る小さな針を薄暗い視界でも的確に捉えたテレスティアは無言でそれを弾いた。剣の動作は滑らかで美しく、次の行動にも繋がる油断のない扱い方だ。ところが針を飛ばしてカームのしたことは、近づいてくるだろうというテレスティアの予測とは大きく異なるものだった。
「なにっ……!?」
カームは大きく跳躍したのだ。迎賓館は普段使いするための施設ではないとはいえ本殿内の装飾にも劣らぬ豪華な造りをしている。それを証明するかのように通路であっても天井はとても高い――その高度をめいっぱいに使って上を取った彼に、しかしテレスティアは困惑を隠せない。
足場となる物があるならともかく、そんなものはひとつも存在しないこの廊下でただいたずらに跳び上がったところでいったいその行為になんの意味があるというのか?
抱いて当然の疑問。その答えはすぐに明らかとなる。
「っ、そういうことか……!」
見上げる位置でカームは何かを投擲してきたのだ。
投げ広げるように放たれたそれはチャクラムと呼ばれる円状の刃。
習熟者であればその軌道を自由自在に操れるというトリッキーな武器――それが上からだけでなく、目の前からも迫ってきていることに気が付いたテレスティアは顔を歪ませながら魔力を練り上げた。
「『プライムソード』!」
跳び上がる自分自身こそ視線誘導のためのフェイク。針を口から吹きながら目立たぬように投げていたチャクラムとその後に投げたチャクラムが同時にテレスティアを襲うように計算していたのだ。
それを悟ったテレスティアは合計十の輪刃が接近してくる状況で、それでも動揺することなく剣を振るった。
信仰の剣『プライムソード』。聖属性の魔力で強化された彼女の剣は煌びやかな白い光を放ちながら暗闇の中で瞬いた。
剣と接触したチャクラムはまるでガラス細工のように呆気なく砕け散っていく。シリカに対し信仰を捧げるテレスティアの熱量は凄まじく、剣技の才覚と相まってそら恐ろしいばかりのキレを見せる。だからこそ彼女は護衛隊長として抜擢されているのだが、頑強さに主点を置かない武器とはいえ愛用しているチャクラムを玩具のように壊されてしまったカームとしては舌打ちでもしたくなる気分だった。
「さすがは次期教皇の盾。噂に違わぬ実力をお持ちのようだ――ならば!」
天井にある小さめのシャンデリアを掴み、身体を持ち上げて腕力だけで跳ぶ。完全にテレスティアの頭上を取ったカームは自らもまた彼女に倣うように剣を抜いた。携帯性重視の刀身を短めにしたその剣はテレスティアのそれと比べれば質において遥かに劣る代物だが、こと至近距離での斬り合いに限れば優位を取れる。その目論見を達成させるために頭上から落ちるという横から近づくよりも確実かつ効率的な手法を選んだのだ。
「はあっ!」
チャクラムを全て叩き斬ったテレスティアは刹那の間断もなく上から迫るカームへと剣を向けた。
刃同士が音を立てる。
キリィッ、と火花を散らしながら互いに剣を逸らした二人は「――っ」「……っ」呼気を重ねるようにして再度刃を振るった。
打ち合う両者。間合いと武器のリーチの都合上、カームの手数に追いつけないテレスティアは剣を払いつつ後退していく。しかし一定以上離れることをカームは許してくれない。短いが回転の速い刃でぴったりとテレスティアに張り付くようにして自身の間合いを保つ。このままではいずれ彼女は決定的な傷を負うことになるだろう。
「――『ホーリーライト』!」
「――『ホーリーライト』!」
「っ!」
状況を打開すべく警備隊員でも数えるほどの人員しか習得できていない奥の手『ホーリーライト』を唱えたテレスティアだが、それを真似するように敵もまた同じ術を唱えた。
聖属性の魔力で肉体のあらゆる機能を強化するその魔法をカームもまた習得していたのだ。
息を呑むテレスティアにカームはニヤリと笑って言った。
「何を驚くことがありますか? 兇手といえど私は光来の家で生まれ光来の家で育った由緒正しき信徒でもあります。この心の信仰心はなんら貴女に劣るものではありませんとも!」
「ちいっ!」
強化率はほんの僅かにテレスティアのほうが上回っているようで、剣を受けるのが少しばかり楽になったと実感できる程度には盛り返した。しかし所詮はその程度――受けることはできても攻勢に打って出られるほどではない。斬り伏せられる時期は僅かに遠のいただろうが依然としてじりじりとその決定的な時が近づいてきていることに変わりはないのた。
ホーリーライトをもってしても挽回できないと思い知ったテレスティアは、故に動きを変えた。
無理のない範囲で後退していた慎重な立ち回りを止めて思い切った足運びをするようになったのだ。
強化率の差のおかげでできた無茶だが、やはり無茶は無茶。無理のある動きをした代償にテレスティアはそうしなければ貰わずに済んだはずの傷をいくつも貰ってしまうことになる。
――それでも彼女は無理を通そうとする。カームの目からテレスティアの戦いぶりは、非常に美しくない悪あがきとしか映らなかった。
「くっ……!」
軽傷ばかりとはいえ血によって染まっていく彼女に、
「哀れですね! 負けを認めれば苦しまずに逝けるものを!」
勝負の決着が近いことを悟ったカームはますます勢い込んで剣の回転を速める。四方八方様々な角度から迫りくる刃をどうにか致命傷だけは避けながら捌いていくテレスティアは……やがてその口元に笑みを浮かべた。
「!?」
「安心しろ――たとえ貴様が負けを認めずとも、苦しませずに逝かせてやるとも」
この状況で何を笑うのかと眉を顰めつつも腕を止めようとはしなかったカーム――だが、足元から突然何かが飛来してきたことで初めてテレスティアへの猛攻を中断させられることとなった。
その正体は、半分から叩き切られたチャクラム。
テレスティアによって破壊された先の投擲武器である。
顎下という死角に近い場所から肉迫したそれを、危うく食らってしまう直前とはいえ躱してのけたカームの視野の広さと俊敏性は褒めそやされて然るべきだろう――ただし、この状態にまで誘導されたのだということに今になってしか気付けなかったどうしようもない鈍感さは、戦士にとって咎められて当然の迂闊さである。
シュンッ、と。
空気を裂く静かな音。
それはテレスティアがカームの喉を切り裂いた剣撃の鳴り。
「かっ……ふ、」
(急に無理な動きをしだしたのは……傷を負ってでも移動したのは、チャクラムの落ちている場所を目指してのこと……! そして私の攻撃を捌きつつ、剣先でチャクラムを死角の位置から弾いた……! あの斬り合いのさなかにこれほどのことを――)
噴き出す血に押されるように倒れ込もうとするカームは、もう一度剣の振るわれる音をその耳で拾った。それが自身の最後に聞く音色だと理解した彼は、自らを討ち果たした剣士への賛辞を心中に抱きながら――その生涯に幕を下ろした。