210 感謝と謝罪
教皇シルリアが体調を崩し休養を余儀なくされたことで、座談会は一時中断が決定された。至福会の全滅という大事件があっても強行気味に開始された場ではあるものの、さすがにあらゆる意味において中心人物たるシルリアが参加できないとなれば話し合いを継続させる意義は薄い。天秤の羽根からの参加者にはシリカもいるが、彼女は所詮教皇の随伴者でしかない。また実母が毒を盛られるという衝撃的事態にショックを受けている彼女ではシルリアの代理にならないことは明白で、オットーの下した決断に暁雲教以下四宗教も文句をつけるようなことはなかった。
あるいは彼らも、目まぐるしく状況が変わる此度の座談会を前に一旦心を落ち着ける時間が欲しかったのかもしれない。何が起きているのかを整理し、今後の対応を考えるための時間が。結局のところ午前中での進展は皆無に等しい。五宗教での会議というよりもシルリアとオルメッラの舌戦という、実質的な天秤の羽根と暁雲教の一騎打ちでしかなかった。午後からはもう少し建設的な――誰にとっての「建設的」かは果たして不明だが――内容に移ろうとしたその直前で、シルリアが倒れてしまったのである。
こうして座談会一日目、シルリアが言うところの『提唱の初日』は混乱のうちに終わってしまった。
本来であれば行方不明事件を中心に、天秤の羽根の不手際を議題にするはずだったのに、そちらのことはオルメッラが少し触れただけで討議の中心には置かれなかった。そういう意味でも進展は皆無であったと言える――どころか至福会全滅や教皇暗殺未遂といった不測の事態が立て続けに起きたことで、むしろ座談会が始まる前よりも余計に複雑な状況となっているくらいだ。
至福会を襲ったのは誰か? 本当に毒は盛られていたのか? と疑って当然の暁雲教徒らは本人たちからしてみれば不当な嫌疑をかけられたこともあって天秤の羽根への怒りを過熱させている。表向きはそれに同調しながらも、どうしても暁雲教を信じ切れない連座の民、光来の家、外界一党団。
そして天秤の羽根の信徒たちとて言うまでもなく、彼らを一切信用などしていない――悪魔憑きの存在を知らない十使徒や警備隊員は間違いなくオルメッラを筆頭に宗教会の面々を容疑者として睨んでいる。
不信感ばかりが急速に募っていく座談会は控え目に言っても物事の解決を図るというより、街をより混迷へと誘もうとしているようにしか感じられない。……少なくともアムアシナムに帰属意識のないナインからしてみれば、そうとしか見えなかった。
そんな彼女はその日の夕刻――つまりは提唱の初日の終了が告げられて数時間後のことだ――オットーを介してまたしても急な呼び出しを受けた。十使徒かつ第一信徒の彼を伝書鳩代わりに使えるのが誰であるかなど、もはや考えるまでもない。ナインは呼び出し相手が誰かも聞かずに頷き、彼についていった。
案内されたのはなんと、シルリアの私室だった。まずは救護室で安静にしていたシルリアだが思いのほか早くに復調し(と言ってもさすがに平時のようにはいかないが)、落ち着ける場所で心身を休ませたほうがいいだろうという判断のもとに自室へ戻されたようだ――そこにはどうやら本人の希望もあったらしいので、天秤の羽根お抱えの治癒術師の診断というよりはやはりシルリア第一主義による忖度があったのだろうが、本当にマズければいかに信徒とはいえ教皇に無理をさせるようなことはしないはずだ。
つまり彼女の体調がある程度戻っているというのは本当なのだろう。
というようなことをこれまでは立ち入れなかったエリアを歩きながらナインが考えていると、とある部屋の前で止められた。儀典室などと比べれば存外質素な造りのその扉へノックをし、オットーはナインを連れてきたことを知らせつつ入室の許可を求めた。そこから彼と一緒にシルリアの前に立つのだと予想したナインだが、意外なことに部屋へ通されたのは彼女ただ一人であった。オットーは扉の前で待つらしい。
「失礼します」
背後からのオットーが扉を閉める音を聞いたナインは執務室のような印象を受けるその部屋をそれとなく見回しつつ、挨拶を口にする。扉が閉ざされた途端外の喧騒はまったく耳に入らなくなった。今日起こった一連のごたごたによって本殿内がどこも慌ただしくなっている現状でこれだけの静けさを味わえる場所があるとは……さすがは教皇の私室と言うべきか、飾りつけは簡素であっても設備は整っているらしい。
少なくとも防音に関して完璧なのは確かだ。
「よく来てくれましたわ、ナイン様。このままの姿勢でいることをどうかお許しになってください」
黒塗りの大きなデスクの向こうで腰かけるシルリアはそう言った。若干顔色は悪いが、平坦な口調もその冷たいような態度もいつも通りの彼女といった具合で、毒の効力は無事に抜けているらしいことが窺えた。
「いえ、そんなのお気になさらずに。あんなことがあったんですからシルリアさんはなるべく休んでいないといけませんよ。ということで手短に済ませたほうがいいはずなので、早速ですけど呼ばれた理由を聞かせていただいても?」
「まずはお礼を。私の命を救っていただき感謝の念に堪えません」
「ああ、それは……まあジャラザが言うにはすぐ命にかかわるものではなかったらしいですし、そもそも助けたのも彼女ですからね。俺に礼をされても少し困るというか……」
「ナイン様がいち早く異変に気付き、ジャラザ様をお連れにならなければ私の症状はより深刻化していたことでしょう。故に感謝を。ジャラザ様にも私の想いを、どうかナイン様からお伝えいただければ幸いですわ」
「わかり、ました。伝えます。あいつも喜ぶでしょう」
想像した以上に丁寧な謝礼にナインがそう言えば、シルリアはにこりと微笑んだ。それは今まで見た彼女の笑顔の中で一番自然体に思えるものだった――しかし、やはりどこか仮面じみた印象があることは否めない。
――シルリアさんは本当に感謝しているのだろう、けれど……何か、それだけじゃない何かがそこにはあるような……、
ナインが謎の戸惑いによって頭を悩まされる中、シルリアはすっと双眸を元来の彼女らしい冷ややかなそれに戻して話を続けた。
「それからもうひとつ、お伝えしたいことが」
「あ、はい。なんでしょうか」
「アルドーニから聞きましたが、ナインズの皆さまは至福会の事件に関して積極的に調査を行っているご様子」
「はい。雇われとはいえ、今の俺たちは護衛ですから。事件を止められなかったことを申し訳なく思ってます。なのでせめて、こんなことを仕出かした犯人を早急に見つけだそうと――」
「誰がそんなことを頼みました」
「――している……え?」
ナインが固まる。
今、自分がなんと言われたのか一瞬理解が追いつかなかった。
ぽかんとする少女にシルリアはもう一度同じ言葉を口にした。
「誰がそんなことを、あなた方に頼みましたか。と訊ねているのですナイン様」
「アルドーニさんがジャラザの気配探知を捜査に使いたいと……」
「そう、それだけです。アルドーニが頼ったことといえばそれだけで、ジャラザ様は『追跡に使えそうな残留気配はなし』と結論付けた。そこで話は終わっている。そうですね?」
「た、確かにそれ以上のことは頼まれてませんけど……え、いやでも――」
「『指示を出す』。私は確かにそうお伝えしたはずです。お聞きになられましたでしょう?」
「はい……」
と小さな声でナインは委縮したように頷く。それに満足せず、シルリアは語気をほんの少しだけ鋭くさせて言った。
「こんな言い方をしたくありませんが。ナイン様は越権行為をなさっていることになるのです。ナインズの皆さまはあくまで『護衛』として私が雇ったのです――直接の指示もなく勝手なことをされては、こちらとしても困ってしまいます。言っていることがお分かりになりますでしょうか?」
「……ええ、よくわかります。仰る通り、勝手なことをしてしまいましたね。我が物顔が過ぎたと反省しています」
座談会の中断やシルリアの不調をいいことに、大手を振って午後に動き回ったことは確かだ。事が事なだけに警備隊もナインズの手を借りることを惜しまなかったが、それはあくまで下々の判断であり、教皇や十使徒がそうすることを許したわけではないのだ。
なので釘を刺すようにシルリアがこんなことを言い募ってくるのは――というほど感情的ではないが――理解できなくもない。自分たちにも悪い面があったことは素直に認めよう……ただし。
これによって、ナインにもどうしても聞かなくてはならないことができた。
「その点は謝罪させてもらいます。ですが俺からもひとつ、どうか聞かせてくださいシルリアさん。まさかとは思いますけど、あなたはひょっとして――」