209 非致死性の毒と治療用の猛毒
ナインはシルリアの様子を確かめる。ぐったりと机に倒れ込んでいる姿は一見すると身動きをしていないようにみえるが、よくよく見ればその体が小刻みに震えていることがわかる――痙攣しているのだ。
(これは――まさか毒を盛られたのか……!?)
直前まで食事中だったらしいことと、不自然な引きつりが起きていることからして、ナインにはそうとしか思えなかった。そして一同がシルリアへ群がるように集まっているこの状況は、彼女を助けるためには決して良いものではないとも思った。
だからナインは。
「――喝ッ!!」
気勢を発す。怪物少女としての本気の脅しが込められたその迫力に満ちた声は、部屋にいる者たちの動きを強制的に停止させるに十分な圧があった。
「ナイン殿……!」
「誰もそれ以上動くんじゃねえ――ジャラザ!」
「うむ!」
ナインの呼びかけに、後ろから追いかけてきたジャラザが応じる。彼女は部屋に入るなり間を置かず軽やかに跳び、シルリアたちの傍へと降り立った。
「そこを退け。儂が診る」
「あ、ああ……」
食事の間もっとも近くにいたのであろうオットーが言われるがままに体を寄せてスペースを作る。近づいたジャラザは迷わずにシルリアの上体を起こし、その口内と飲んでいたらしいスープの器とを調べる。両方に指先で触れれば、どちらにも共通する特徴があった。
(間違いない、教皇はこのスープから毒を経口摂取したのだ。成分からしてこれは……幻覚作用のある麻痺毒か。シナナミ草から抽出されたものだな。直ちに命へ影響のあるものではないが、摂取量が多いな。このまま麻痺が続けば最悪命にも関ろう)
本来であればもっと酷い症状が出てもおかしくないのだが、シルリアはその血統の特別さ故か身体の硬直と痙攣のみで済んでいる。辛うじてだが意識もあるようだ。安心すべきところなのだろうが過信はできない。身動きができないのは一緒で、呼吸も苦しそうにしているのだからこの状態が長時間続くようなら危険だろう。
分析を終えたジャラザは処置を開始する。
「水流“裏”邪道――巫治水」
毒を生成し操る水流邪道術。しかし毒は場合によって薬としても作用する。成分を調整し、濃度を薄め、人体にとって極めて有害なレベルから微影響のレベルにまで落とす――そうするとジャラザの毒水は治療薬として『裏返る』のだ。
それが水流“裏”邪道。
聖杯の間に忍び込む際に使用した『堕落毒』があくまで毒の範疇に留められていたのとは異なり、『巫治水』は正真正銘の薬水である。その役割を単純に言うなら点滴で摂るべき薬剤を直飲みするようなものだが、ジャラザの作り出す成分の調合によっては解毒剤や抗生剤にもその効能を広げることができる。
「よし、飲んだな」
巫治水を喉の奥へと流し込む。飲ませたというよりも水流操作によって無理やり押し込んだと言ったほうが適切だが、とにかくシルリアの体内の毒物はこれでどうにかなる。
「安心しろ、シナナミ草の毒素はこれで中和される。容体が急変するようなことはないと確約しよう。しかしすぐにでも休ませるべきだの……横にさせて安静にしておくのが吉だ」
「わ、わかった! おい、お前たち!」
オットーの指示でシルリアは警備隊員の手で運ばれていった。ジャラザの治療によって痙攣はすぐにも収まっていたが、自力で動けるようになるまでは時間を要するだろう。
慌ただしく十使徒が彼女のあとをついていき、騒然としていた協議室は一気に鎮まりを見せた。
「テレスティアさん。ここで何があったのか聞かせてもらっていいですか?」
シルリアの出ていったほうへ視線を向けたまま硬直しているシリカ。そんな彼女を気遣うようにしているテレスティアへ声をかけるのはナインとしても憚られたが、シルリアの護衛隊長も十使徒の護衛隊長も揃って部屋を空けたせいで事情を聞けそうなのが彼女しかいない。母親が毒を盛られるという悲劇を体験したばかりのシリカには悪いが、ここは早くに相談をしておきたいところだ。
それは彼女も同意見だったのだろう、シリカに一言口添えてからテレスティアはナインに向き合った。
「ああ、君たちには私の口から説明しよう。……と言っても、大方はナイン殿も察している通りだろうがな」
毒を盛られたであろうことはもう疑いがないが、その手口が見えないとテレスティアは難しい顔で語った。
彼女が言うには、ナインが協議室を去ってからシルリアとシリカの食事が運ばれてきたという。厨房から繋がっている廊下は当然、一部の使用人と警備隊しか通れない。それは基本勤務歴の長いベテラン専属料理人たちしか出入りを許されていない厨房自体も同じだ。だからまさか運ばれた料理に毒が混入しているなどと疑いもしていなかった、とのことで――。
「それが迂闊だとは思いません。警備隊だけじゃなく、クレイドールだって厨房の見張りにいるんですから」
ハイパーセンサーの感度を常時高めた状態のクレイドールが見張っている中で、賊が食材や料理に手を出せるとは思えない。仮に料理人を何かしらの方法で操ったのだとしても、監視の目がある場で妙な行動を起こさせるのはどのみち無理な話である――はずなのだが、それが実際に起こってしまった。
「誰にせよ不自然に料理に近づけば、他の誰かしらが気付くはずだ。厨房からここまで、常に複数人が料理の傍につくようになっているんだぞ。それをどうやって掻い潜る?」
「教えておくが悪魔憑きはかなりの転移の腕を持っている。毒を仕込んだのも奴だとすれば、その術で離れた場所から直接毒を料理に飛ばした可能性もある」
「なんだと……」
愕然とするテレスティア。転移が使えるということだけでもとんでもないことだというのに、それが限られた物体だけを任意の場所に送り込める――それも誰にも魔力を感知されずに、ともなれば悪魔憑きの技量とはどれほどのものであるのか。
聖光魔法のみ、それも戦闘一辺倒の方面しか習得していないテレスティアは純粋な魔法使いの手並みというものをよく知らない。戦士職同士での戦闘経験はそれなりにある彼女だが、さすがに冒険者や魔術師ギルドに所属するような者と戦ったことはなく、勿論アムアシナムに定住しているからには上位の悪魔と遭遇したこともないので、そういった手合いの使う術はまったく未知の領域と言ってもいいくらいだ。
「そんな奴を相手に、どうやってシリカ様や教皇様をお守りすればいいというのだ……! 私たちは誰も、教皇様が口にされるその時まで、スープに毒が入れられたなどとはまるで気付けなかった!」
「転移はただでさえ使い手が限られる高等魔法だが、自分以外に作用させようとすればなおのこと難度が跳ね上がるらしい。だが本殿内の誰にも気取られず転移を行うことができるだけの実力があるのであれば、シナナミ草から得た毒液だけをこそりと料理に混ぜ込むことも、可能だとしてもおかしくはない――しかし」
「しかし、なんだ?」
「犯人……いや、ここは悪魔憑きと断定させてもらうが、奴の狙いがわからんのだ」
ジャラザのその言葉に、ナインは首を傾げる。
「狙いは明らかじゃないか、シルリアさんを毒殺しようとしたってことだろ?」
「だとするなら毒が弱い。手間をかけて仕込んだにしては致死性のものでないことに違和感があるのだ。シナナミ草は取り扱い注意の指定を受けている危険植物だが、直接口にしても死にはしない。街の外であれば動けなくなると魔物の餌食になるので、そういう意味では確かに恐ろしくはある……ただし裏を返せば安全な場所であれば麻痺が起こっても数時間で症状は完全に回復する。今回は多量に盛られたことで教皇も苦しんだが、儂がいなくとも治癒術師によって助かっていただろう。……毒を食らわせまでして、なぜこうも半端なのか? そこの意図が儂には諒解できんのだ」
「毒が弱い……」
なるほど確かに、ジャラザの指摘はもっともなものだ。本当に毒殺することが目的ならば麻痺毒などではなくもっと致命的な症状を起こす劇物を使用すべきだろう――だというのに、悪魔憑きはそれをしなかった。シナナミ草しか毒性を持つ物を用意できなかった? あるいは、シルリアが毒を口にすること自体に狙いがある――?
「ねえ、三人とも……さっきからなんの話をしているの? 悪魔憑きって、いったいどういうこと?」
ナインははっとする。それはジャラザもテレスティアも同様だった。少し離れた位置で声を潜めて話していたのだが、ついつい普通の声量で会話をし始めていたらしい――そのせいで呆然としままだったシリカの耳に、不穏なワードが届くことになってしまった。
「お母様が急に苦しみだしたのは、その悪魔憑きの仕業なの?」
「え、っとですね。なんと言いますか、それはその、つまりですねシリカ様……」
「テレスティアさん。もうシリカにも聞かせたほうがいいと思いますよ」
慌てふためく彼女に、ナインはそう助言した。教皇から「自分以外には誰にも明かすな」と悪魔憑きについてキツく言い含められているらしいテレスティアだが、事が事なだけに――そして何より会話を聞かれてしまったからには、もう隠し立てなどできないだろう。
「……そう、だな。シリカ様、少しお耳に入れたいことがございます」
「うん。聞かせてちょうだい、テレス」
これでまた、天秤の羽根内で悪魔憑きについての知識を持つ者が増えた。しかしそれでも、まだ三人目である。外様であるナインが悩むことではないのかもしれないが、それでもやはり気になってしまう。教皇シルリアにはいったいどんな思惑があって、聖杯や悪魔憑きを秘密にしているのか。十使徒や警備隊長といった組織の要にも情報を明かそうとしないその理由がなんであるのか――いくら考えても、彼女には到底わかりそうにもなかった。