205 悪魔憑き欲す
天秤の羽根本殿内ある、とある部屋。
大半の者が就寝している深夜の時間帯に、ベッドにも入らずぽつねんと佇む少女。
傍目からは彼女ただ一人しかいないその空間で、男とも女とも取れない子供らしい声音が突如として響いた。
「どーするぅ? なんかヤバそうなの来てんじゃんねえ」
明らかに少女が発したものではないその声に、しかし一人きりのはずの少女は驚くでもなく、極めて冷静に言葉を返した。
「あら、悪魔さん。しばらく出てこなかったのに、急にどうしたの?」
「言ったじゃん、今のボクはヘロヘロなんだって。力を使うためにはしっかり休まなきゃいけないの。君がこき使うからだぞぉ?」
「私以上に面白がってる悪魔さんが言うことかしら」
「まーいいけどさー。名前をなかなか呼んでくれないのも、ボクをもっとへとへとにするのも、別にいいんだ。別にね。でもここまでして君の目的が達成できない、なんてことになるのはボクだって勘弁だよ? そんなんじゃなーんにも面白くないからさ」
「そうね……」
座談会は少女と悪魔の予想を超えて遥かに物々しいものとなってしまった。過度な警戒を抱かせず、ほどほどで――言うなれば油断の芽が残るように調整し、それから座談会をかき乱す。六大宗教会には押し並べて泥をかぶってもらうことでそのシステム自体を機能させなくする。
アムアシナムを総取りする。
そういった思惑のために、目に見えた残虐な事件は起こさず、行方不明者を出すだけというとても控え目な犯行だけに努めていたというのに、想定以上に場が動いてしまった感がある。暁雲教を始めとした二位以下の宗教組織はこれを良い機会だと判断したようだし、そのあおりを受けて天秤の羽根が真っ向からの対決を選んだこともまた少女にとっては逆風だった。
いや、他の組織の動向はともかく、天秤の羽根が――つまりは現教皇のシルリアがそういった選択をするであろうことは元よりわかっていた、というより、知っていたのだが。しかしここまで互いに過剰な戦力を投入してくるなどとはさすがに読み切れなかった。
暁雲教以下の組織たちは兇手を引きつれていることを隠そうともしていない。もちろん開けっ広げにその存在を明かすような真似こそしないが、「新しく雇った護衛だ」などと嘯きながらパーティーの場で堂々と紹介までしているのだから彼らの意図は透けて見える。
対する天秤の羽根はなんと闘錬演武大会優勝チームを仲間へ引き入れた。シルリアはシルリアで抜群の知名度を誇る『ナインズ』のリーダー――武闘王ナインをこれ見よがしに歓迎会で披露した。
ここまでくるともはや牽制などという範疇には収まらない。
お互いに持ち札を見せ合った宣戦布告である。
何故ならどちらの組織も戦力を惜しげもなく晒すのは、相手の出鼻をくじくためというよりも「やれるものならやってみろ」という脅し脅されの関係に近いからである。
「言うなれば火薬庫みたいな状況かぁ。こりゃあちょっとつつくくらいじゃ、逆に進展しないかもね。手を出せばどっちもただじゃ済まないんだし? 仄めかすだけじゃなくてはっきりと駒を前に出した以上、ぎゅうぎゅう詰めの盤上はそのまま膠着状態になるんじゃないかなあ……と業界素人のボクなんかは思うんだけど、君の考えはどうなのさ」
「悪魔さんの言う通りよ。どちらもやり合う気は満々。でもそのせいでがんじがらめになっている。ちょっとした事件くらいじゃ火蓋は切られないでしょうね……むしろこっちが出方を誤るか、そうでなくとも何かしらの切っ掛けがあればさっさと協力体制を作ってしまうかも」
「あ、やっぱりそうなの? だったらボクたちもやり方を変える必要があるってことだよね。初日は疑心暗鬼を煽らせるくらいのつもりだったらしいけど、もうそれくらいじゃ意味をなさないだろう? もうちょい派手なことをすべきじゃないかなあ」
「ええ」
頷きながらも返答は短く、どこか明後日の方向を見ている少女。まるで関心が別の何かに向いているように見える彼女に、その影の中にいる悪魔は実体なき肉体のままで眉を顰めた。
「君、なんだかさっきから元気がないけど――どうしたのさ? 体調でも崩しちゃった? それともいよいよ本番なもんで緊張でもしてる? ナイーブな気持ちになるのもわかるけどさ、ここで感傷に浸ってる暇はないとボクなんかは思うんだよね。やることやらなきゃ何も手に入りはしないんだから」
「…………」
忠告とも激励とも取れるそのセリフに、少女は瞼を下ろしてしばし間を置く。
瞑目したままに思考を整理して――それからゆっくりと目を開いて、自身の影に向かって言った。
「そう、何もしないことには、何も手に入らない。そう思ったからこそ私は決めた。悪魔さんと協力して天秤の羽根を、この街を乗っ取ろうと。でも、ちょっと悲しくなってしまったの」
「悲しくなった? 何を言ってるのさ、一応は計画だって順調――うん、まあ、思慮外のこともいくつか起こってはいるけど、それでも順調に進んでるっていうのに、いったい君は何が悲しいって言うのさ?」
本気で困惑したその声に、少女はふっと笑う。
契約を交わし影を貸し、身体に同居までさせた文字通りの一蓮托生・一心同体を地で行く悪魔であっても、人の心というのはそう簡単に推し量れるものではないらしい。
もしこの心が余すことなく伝わっているのなら、悪魔とてこうも不思議がることはないはずなのだから。
「私だけの物が欲しいのよ。誰かから掠め取った物じゃなくて、まだ誰の物でもない物を。手垢の付いていない美しい何かを、自分だけの物にしたいの」
六大宗教会も、天秤の羽根も、アムアシナムも。
教皇という地位だってすべては他人のもの。
奪うことはできる。自分と悪魔のコンビならその気になればなんだって奪えるだろう――しかしだからとて、奪うだけが望みか?
それは本当に自分が望んだことだっただろうか?
武闘王ナインを見て少女は考える。
――欲しい。
ああいう綺麗で、純粋で、価値ある物を――この手の中に収めてみたい。
「自分だけの物、ねえ。まあ言いたいことはなんとなーくわかるよ? そのうえで無粋なことを言わせてもらえれば、そんなのはあとからいくらだってついてくるよ。人間も悪魔も立場ありきなもんでしょ? それなりの地位につけばそれなりの物が自然と手の中に落ちてくるわけだ。それは紛れもなく君だけの物になる。ボクからしてみれば君の悩みは、いま悩むことなんかじゃないね」
「ええ、わかってる。怖じ気づいただなんて疑われたくないから言うけれど、私は止まるつもりなんてないわ。確かにこのままでいいのかという迷いはある。でもそれは実行の是非を迷っているんじゃあないの。もっと私に根差した、些細で重要なことよ。思考のノイズと言えばそうだけど――でも、そのおかげで。乗っ取りがまるで些末事のように思えたおかげで、私はもっと好きに動ける。どうとでもなるがいいと本音でそう思えたから――だから」
殺しにいきましょうか、と。
少女は影にそう言った。
「……おやおや。また随分とはっちゃけたねえ。派手なことをすべきとは言ったけど、殺し? 殺しだって? この段階で? そんなことをしたらハチの巣をつついたような大騒ぎになることは目に見えている――それこそ天秤の羽根と残りの組織との全面戦争待ったなしだ。六大宗教会が泥をかぶるどころか壊滅してもおかしくない。あまりに宗教会の評判に傷がつけば、それは乗っ取ったあとの君の立場を苦しめることにもなるんだぜ? 君はちゃんとそれをわかっててそんなことを宣ってるんだろうね?」
「当然よ悪魔さん。『どうとでもなるがいい』。嘘はないわ。私は本当にそう思っているのよ」
明るく楽しげに、されど仄暗く陰鬱に。
少女らしさとらしくなさを混ぜ合わせたような笑顔を見せる彼女に、悪魔もまた影の中で笑った。
「そう、ならいいんだ。ダイスの目を弄るのもいいけど、たまには好き放題振ってみるのも悪くないよね。あとは野となれ山となれ――うん、それもまた悪魔的所業だよ。君はやっぱり、そこらの悪魔なんかよりよっぽど悪魔らしいね」
「お褒めいただいて光栄だわ。さ、お願いね悪魔さん。寝起きのところ悪いけど、また存分に力を使ってもらうわよ」
「はいはいりょーかい。お好きなように、ボクの契約者」
「ありがとう、私の契約者。ところで、ひとつ聞いてもいいかしら」
「なんだい?」
「あなたは私の物?」
少女からのシンプルな問いかけに対して。
「――くふ」
影からの返事もまた、実にシンプルだった。
「いいや。ボクはボクだけのものさ」
敵側を書くのって妙に筆が乗る気がするゾ




