196 模擬戦、アルドーニvsナイン
天秤の羽根本部にある隊舎に隣接された『闘技場』はローマのコロッセオを思わせる造りで、闘錬演武大会の舞台に使用された巨大ドームに比べれば規模は小さいが、雰囲気だけならそちらにも劣っていない造形の凝った施設だった。
そんな立派な闘技場内の、砂の敷き詰められた格闘場の中央でぽつねんと佇むナインはひどく所在なさげで居たたまれない。
見ていてそう思いながら、テレスティアは教皇の真意がどこにあるのかを計りかねていた。
「どうしてこんなことを……? 雇うなら雇うでいい、けれど模擬戦で試すようなことをする必要がどこにあるのだ……! この試合でナイン殿に怪我でもさせたら事だというのに、教皇様のお考えはいったい――」
「怪我、だと?」
テレスティアの言葉に反応したのは横に立つジャラザだ。
更にその横にはクータとクレイドールもいる――二人は不安げに模擬戦が始まるのを待つナインへ檄を飛ばすのに必死で(クレイドールは「がんばれー」と何故か棒読みだったが)聞き逃したらしい。観覧席の前、通路になっているその場所で彼女たちはナインの応援を行うべくこうして控えているのだが、ジャラザにとってテレスティアの発言は聞き流せるようなものではなかった。
「テレスティアよ、今お主は『怪我でもさせたら』と言ったか?」
「あ……すまないジャラザ殿。誤解しないでほしいが、決してナイン殿の強さを疑うわけでもなければ、貶す意味で言ったわけでもないのだ。これでも武芸を磨く者の一員として、世間知らずな私ではあるが『武闘王』という称号の重みは理解しているつもりだ。いや、戦士でなくとも闘錬演武大会の認知度を思えば、この国に育ってそれを知らぬ者はそうそういないだろう。だが、しかしだ。ナイン殿の強さがそうであるように、アルドーニ隊長の強さもまた疑いようのないものなのだ」
テレスティアの口調は真剣そのものだった。本気でナインの心配をしているらしいと読み取ったジャラザは、アルドーニという男はそれほどなのかと訊ねる。
「……私を含め護衛隊長は三人いる。その全員にとっての師匠にあたるのがアルドーニ隊長だと言えば、わかりやすいだろうか」
「そうか、師か。お主はあの男に鍛えられたというわけだな。……では、今のお主とアルドーニが矛を交えればどうなる?」
「勝てんだろうな」
きっぱりと答えたテレスティア。護衛隊長として己が実力にも人並み以上の自信を持っているであろう彼女が即断してみせたものだから、恣意的な思考が働いていやしないかとジャラザは勘繰った。
「それはまことか?」
「ああ、まず間違いなく私の敗北は必至だろう。私が彼に勝っているものと言えば速さくらいのものだが、先に剣を届かせてもまず仕留めきれない。私では彼の堅牢な肉体と魔力を突破することが出来ない――手傷を負わせたとしてもそれで怯むような御仁でもない。返す刀で……否、返す斧で私を両断することだろう」
「ほう……」
ナインの手によって中断させられたため決着はついていないが、クレイドールと互角に戦えていたテレスティアである。彼女は闘錬演武大会にも通用するだけの技量を持っているとジャラザは見ている――そんな彼女が戦わずして負けを認める相手、警備隊長アルドーニ。どうやらその実力は確かなものであるらしい。とすれば師事していた身ということもあって、誰よりもその強さを知っているであろうテレスティアがナインの無事を慮る気持ちは、ジャラザとしてもわからないでもない……ただし。
「ひとつ聞きたいが」
「なんだろうかジャラザ殿」
「闘錬演武大会本戦の試合はすべて映像記録となって多くの場所で目にすることができるが……お主たち護衛隊や警備隊はその映像を目にしたことはあるか? 特に――主様が優勝を収めた決勝の試合をな」
「いや……見ていない。そういったメディアに触れる機会というのは本部内にいてはなかなかないのだ。それでも新聞くらいは目を通すし、出入りする者から外の話を耳にすることもある。だから普段は本殿にこもり切りという者であっても武闘王の誕生は余さず知っているはずだ」
「なるほどな。知ってはいても目にしてはいない、と。それならば」
「それならば?」
「儂は逆に、アルドーニの身こそが心配だの」
ナインとて絶対無敵ということはない。
明らかに人間離れした彼女だが、しかし闘錬演武大会の決勝戦では、対戦相手であるミドナ・チスキスという純粋な人間種を前にかなりの苦戦を強いられていた。
それまで負傷したことのなかったナインがミドナによって刀傷を負わせられた際には、ジャラザも思わずクータと一緒になって悲鳴を上げてしまったものだ。
磨き抜かれた技術というものは、怪物少女にも通用する。
それは確かだ。
だがそれも、ミドナという剣士として最高峰に位置する者が、本気も本気で剣を振るってようやくといったところであって。
ではアルドーニがミドナを超えるかと問われたなら――ジャラザは首を振って否定する。
アルドーニが強者であることは、儀典室で目にしたときから察しはついた。感情こそ全開にしていた彼だが剣気や魔力といったものは体外に漏らさぬようにとそちらでは冷静に努めていたこともわかっている――しかしそれで言えばミドナは、そんなこと一切していなかった。
彼女は己が身に帯びる剣気を隠さず、それでいて自然体で、だというのに山のように巨大な気配を放っていた。ミドナを一目見てジャラザやクータがその強さを確信したのは、その出で立ちがあまりに完成されていたからでもある。故に初対面時には警戒を強いられたものだが今となってはそれも懐かしい。
目覚ましき女剣士の闊達な笑顔を思い浮かべながら、そんな彼女であってもナインには一歩及ばなかったことを考えれば。
アルドーニがどこまでやれるかにこそジャラザは注目すべきなのかもしれない。
「まあ、主様は追い詰められなければ加減もうまい。やり過ぎるということはないだろう」
「ジャラザ殿、それはどういう……」
「見ておればわかる。ほうら、始まるぞ」
「!」
ジャラザの視線を追って格闘場を見れば、そこには既にナインと向かい合うアルドーニの姿があった。機動性を求める軽装のテレスティアとは対照的に、体躯に見合った鎧を身に纏う彼の姿はもはや鋼の魔人のようである。それに相対するナインの小柄さや体格の細さと相まって、この対決が一種の死刑執行のようにも思えてくる。
勿論ナインが簡単に負けるようなことはないとテレスティアとて――思い描きづらいことではあるが――一応理解している。とはいえこの絵面はあまりに惨い。今からでも模擬戦を止めさせるべきではないかと咄嗟に観覧席につく教皇やオットーたちのほうを向くが……シルリアは目に映る光景に何も感じていないのかのように、いつも通りの冷めたような瞳で、冷静すぎる声音で、まったく感慨を感じさせない試合開始の宣言をしてしまった。
「では、始めなさい」
◇◇◇
どうして戦うことになったのかいまいち理解が追いつかぬままに闘技場に立っていたナインだが、完全武装したアルドーニという大男が己が前に仁王立ちしたのを見て、おおよそのことは把握できていた。
――要は、この人は俺が護衛に参加することに納得してないってわけか。
睨みつけてくるアルドーニがどういった人物であるかは移動中にオットーから説明があった。彼は天秤の羽根施設全体を守護する警備隊長。つまり武力面で一番偉い人。彼が反対しているのならたとえ教皇でもその一存だけで部外者を関わらせることは難しかろうとナインは一人で納得する――実際のところは教皇の一声でそれは達成されるのだが。達成されてしまうのが天秤の羽根という組織なのだが、ナインはそこまで内情に明るいわけではない。だから独自の思考展開を見せる。
(シルリアさんも困ってるってことかな。この人から了承が取れないことにはナインズへの依頼が出来ない、と。だから俺に力づくでアルドーニを頷かせろと言っているんだな……?)
教皇がナインへそんなメッセージを送ったという事実はない。だがナインの中ではそういうことになっていた。
(しゃあない、そうしないと護衛任務に就けないんだったら、やるしかねえわな。そうじゃなきゃ俺だって困るんだから。アルドーニさんには悪いけど……なるべく力の差を感じるような負け方をしてもらおうか)
怪物少女がそんな企てを持っていることなど露知らず、意気軒昂として呼気を吐くアルドーニのテンションはマックスである。
互いが互いを倒すべき相手であると過不足なく認識できたその瞬間、両者が言葉を交わす間もなく教皇から試合開始の合図が下った。
「……!」
アルドーニは自慢の専用武器である大戦斧を振り下ろす。豪腕の筋力を遺憾なく発揮し、少女を唐竹割るような勢いで放たれたそれは――命中しなかった。
どころか。
「……にっ」
まるで少しも動いていないのではと錯覚させられるほどにほんの微かな動作だけで振り下ろしを避けてみせた少女は、間違っても戦闘中に浮かべるには相応しくない花のような笑顔を対戦者へと向けて……それから気負いもなく拳を振るった。
斧の部分へ当たった彼女の拳は、ろくに力も入っておらずごく軽くぶつかったようにしか見えなかったが――その途端に斧が砕け散ってしまったのだから、それは間違いだったのだろう。
武器破壊。
それ専用の道具でも用いない限りは彼我の力量に差があってこそ初めて成立するその戦法は、力の差を演出するのにこれ以上ないというほど打って付けの策であっただろう。
ましてやナインは素手でこれを行ったのだから、余計にその実力が際立つ――と常人であればそう思考しただろうが。
「ぬうぅぅうんっ!!」
「――へ?」
武器を壊したからには試合も終わるだろう、無血のまま勝つなんて珍しく俺ってば冴えてるじゃないか……なんて呑気に考えていたナインを裏切る、大気を揺るがすような裂帛の気合の声。
アルドーニは自慢の戦斧が破壊され持ち手だけになっても全く戦意を衰えさせず、むしろかえって意気を高めながら猛烈な勢いで石突を打ち付けた。間の抜けた声を発した少女にそれは今度こそ命中し。
体重の軽いナインはその打突の威力を顔面でもろに受けて、あえなく吹っ飛んでいくのであった。