20 裏切り
「アウロネ!? ごめんね、クータご主人様のところに――」
と言いかけたクータを、アウロネが手をすっと上げて制した。
「ええ、分かります。あなたの考えていることは手に取るように分かりますとも。疑問も懸念も委細承知。だからこそ『待て』と言っています」
「……なに? まさかアウロネも、私を後ろから襲うの」
「それでしたらあなたが振り返る前にやっています。少し、落ち着かれてはいかがでしょう」
「――落ち着けるかっ……!」
もはや火力を抑えることも忘れて、手足から烈火を迸らせるクータ。
クータの激憤は遅ればせながら治安維持局からの依頼に謎を見出したからでもあった。
いや、最初からクータも「妙な頼み事だな」とは思ってはいたのだ。
ただ大した疑問であるとは自分でも思えず口にしなかっただけで。
ナインは強い。世界で一番強いとすらクータは信じている。
ただし、最強が必ずしも無敵とは限らないとも知っている。生まれて間もない短期間とはいえ単身で野生の世界に身を置いていたクータは、経験とともに生まれつき備わっている本能にも似た何かでそのことを理解している。どんなに強い者でも一芸に秀でた弱者に食われてしまうことがある、と。
だからこそクータは己より遥か高みにいるナインを守ろうとしているわけだが……しかし守られる必要が本当にあるのか疑問に思うほど、己が主人は頑強で強靭であることも、よく知っている。それはリュウシィにこてんぱんにやられたことがきっかけでより絶対的な認識になっている。自分がまるで敵わなかったリュウシィであっても、ナインにはまったく及ばないのだから。少なくともクータの目にはそう映っていた。
つまりナインの強さとはそこまで圧倒的なものであり、そんな彼女へ下す任務として「何かを守れ」というのは奇妙とまではいかなくともしっくりこないものがあった。
それこそ、マーシュトロンを狙う『暗黒座会』という組織を探し出して直接潰せ、などという命令のほうが、難度は高くともナインに任せるに相応しいものだろう。
実際、護衛任務というものに対してナインも窮屈そうにしているのをクータは確認しているし、それに同意もした。とは言っても、その時点では多少の疑問程度であり、深く考えることはナインと同様になかったのだが。
ただ、この状況。味方のはずの者から攻撃を受け、今度は自分たちに依頼してきたはずのアウロネと対峙している、この不可思議な現状。
ここに来てクータの野性的な勘がようやくざわめき、警告を発した。
目の前の女は、怪しい。
まさかこいつ、というより治安維持局は、任務などと言いつつそのどさくさにナインを殺すつもりでは?
――いや、あるいは。
クータはアウロネの容姿を今一度確かめる。その名前も、外見上の特徴も、確かに別れ際にリュウシィが寄越すと告げていた使いのそれと一致してはいる。
だが、彼女が本当にアウロネ本人かどうかは、確かめようがないではないか。
ナインもクータも疑いもせずに宿屋に現れた彼女の言うことを聞いて、そのままついてきてしまった。
謀られた可能性。今まで野生に生きてきたからこそ、クータはその可能性に気付くのが遅れた。自然界にも擬態や欺瞞はあったが、言葉を駆使した虚偽で操られるというのはクータにとってこれが正真正銘初のことだった。
故にクータは憤った。目の前の女がもしもそんな狡い手でナインを陥れようとしているのなら、それは到底許せるものではなかった。手足の炎が爆発的に広がったのはこれが原因である。
――もはや正体や目的など知ったことではない。
――主人に仇為す者は我が炎でもって滅すのみ。
このときのクータの思考は「ご主人様以外のすべてを燃やし潰せば安全は確保できるだろう」という剣呑が過ぎるものに移りかけていた。
怒りと忠義に燃えるクータはまさに脅威の一言だ。その身体能力と炎、奥の手である熱線は生半可な抵抗では防ぎようがない。ましてや危険な精神状態に陥っている現在のクータともなれば、敵対する者は決して死から逃れることはできないだろう。
しかしそんな脅威と真正面から相対するアウロネは、離れていても身を焦がしそうな熱気に気圧されるでもなく、ただ静かに嘆息していた。
「やれやれ、ですね。分断するまでもなくあなたとナインさんが二方に別れてくれたのは僥倖でしたが、こんなに早く気付かれるとは思いもよりませんでした。おまけにボルテージも異様に高まっているようですし……順番が前後してしまいましたが、これを見ていただきしょう」
頭に上った血も少しは下がるでしょう、と。
ずずず、とアウロネの左右に何かが出現する。正体は分からないが人型の得体の知れないものが生まれるその様子に、クータは一層の警戒態勢を取るが……出来上がったものを見て、彼女の表情は呆気に取られたものとなった。
「なに、それ……? なんで、そんなもの?」
薄気味悪いものを見た、と言わんばかりに怯えたような表情で訊ねるクータに、アウロネはぴくりとも表情筋を動かさないままに頷く。
「ええ。いくつかパターンを想定していましたが、今回の肝としてこれを使用します。必然、あなたにも協力をお願いしなければなりません」
ちなみに、と眼鏡の奥の瞳を細めながら彼女は呟く。
「あなたに拒否権はありませんので、そのおつもりで」
◇◇◇
まだ僅かに感じられていた揺れも音もなくなり、屋敷の中は静まり返っている。その静けさから屋敷内での戦闘がすでに行われていないことにナインは寝室から動かずして気付いている。しかし、彼女は部屋から出ようとはしなかった。
侵入者をすべて退治したのならクータが真っ先に飛び込んでくるはず。もしくはアウロネかマーシュトロンの私兵が報告しに来るだろう。
そうでなければ……。
悪い想像から逃れるべく、頭を振ってマイナス思考を追い払うナイン。クータは強い。アウロネも強そうだった。私兵たちも十分頼りになりそうな男たちだった。きっと負けることはないはずだ。
そう信じているナインだが、寝室の扉の前へとやってきた足音にどうしても嫌な予感が拭えなかった。
足音が、妙に多いのだ。
響き方や連続することからおそらく十人は超えるかという大所帯だ――これだけの人数で寝室を訪れる理由とは?
扉が開かれたとき、果たしてその予感は現実のものとなるが……一見してナインは自身の采配の過ちを察することはできなかった。
それよりなにより、困惑が勝ったのだ。
「は……? どうして、あなたがそこに?」
「やあやあ、警護ご苦労様ですな、ナイン嬢」
朗らかに労うはスルト・マーシュトロン。寝室の扉を開け放ったのは彼だ。
だからナインは混乱する。何が起きているのか、意味が分からない。
眠っている彼を護衛していたはずなのに、その彼が寝室の外からやってきた。それも、周囲に黒装束の怪しげな男たちを数人引き連れて。
その中でもナインの目を引いたのは、体格から読み取れた唯一の女性だ。こちらも黒い衣服をまとって闇に乗じるような恰好をしており、男たちと同様、明らかに襲撃者である。しかしその立ち姿や油断なくナインを見やる目付きからして、他の者とは一線を画す雰囲気を持っている。
本能的に見抜く。この集団のリーダーはこいつだ。
問題なのは、狙われている側のマーシュトロンが何故か余裕たっぷりの態度でその傍にいること。そして静まり返ったこの屋敷で、クータとアウロネはどこに行ってしまったのかという疑問。
戸惑いが顔に出ていたのだろう、マーシュトロンはどこか得意げに口を開いた。
「疑問にお答えすると、その膨らみは私ではありませんよ。この館には隠し通路がいくつかありましてな。この寝室からこそ~りと抜き出すことなど造作もないことです」
言われてシーツをはぎ取ってみれば、なるほどそこにあるのは枕に丸められた布束だけ。こんなものをマーシュトロンと思い込んでいたのか、とナインは己の不覚を恥ずかしく思った。
「ふふふ、罠だったのですよ。私は元から治安維持局に協力などしていない、むしろ逆です。暗黒座会は私にとって上客! ビジネスパートナーでもありますからな。先代――父は愚かにも社会的な正しさに拘ったが私の見解は違う、人の社会においては稼ぐことこそ絶対の正義! それならば市場をかき回す側につくほうが遥かに利口というもの、違いますかな?」
じとりとした悪漢丸出しの笑みを浮かるマーシュトロンに、ナインは目を細めた。