2 第一村人さんたち
最初のうちは定期的に木に(指先で引っ掻くことで)傷をつけて進んでいた少女だが、その慎重さが功を奏すことはなかった。それは少女が元の体の時分から方向音痴だったのが変わっていなかったせいで傷を付けた木を見失ったというのもあるが、もっと単純に――人里を発見したからである。
必然、自然の中の目印は用無しとなった。
「おお、村か! ……村だよな?」
半信半疑ながらも、少女は草木の隙間から身を乗り出した。小屋のような住居は見えるがまだ人を見ていないからだ。廃村の可能性もあるので、まだ喜ぶには早い。なるべくぬか喜びはしたくなかった。
「!」
不安がる少女の目に、人の姿が映った。どこかから獲物を取ってきた帰りだろうか? 壮年の男二人が猪のような動物を担ぎながら村へ入ろうとしている。
これは行くしかない。少女はすぐに決断した。人が見つかったからには、様子見はもうしなくていいだろう。むしろ尻込みする時間が勿体ないくらいだ。
茂みから飛び出し、男たちのもとへ駆ける。向こうもこちらに気付いたようで、振り返って足を止めた。
これ幸いと傍まで走り寄って、彼女は村人(?)たちに声をかけようとしたが――そこで固まる。何を言えばいいのか分からない。人を探していたのは確かだが、どう接触するかまでは考えていなかった。
自分の身に起きたことを詳らかに語ったところで、話はスムーズに進むのだろうか? 答えはおそらくノーだ。誰がこんな話を信じるというのか。
いや、そもそもだ。
そもそも自分の言葉は通じるのか?
落ち着いて見てみれば、男二人の外見はおよそ日本人らしくないようだ。どちらかと言えば西洋人風の出で立ち(二人ともけっこう渋めでダンディ)である。しかし少女の懸念は日本語が通じるかどうかではなく、「自分の世界の言葉」で意思疎通ができるのかであった。
ただの野犬とはまるで違う猛獣に襲われた。ここに来るまでにも、見たことも聞いたこともないような奇妙な生き物を見かけた。
それは「モンスター」としか呼べないような生き物たちだった。
現実にこんな存在がいるはずもない。ならばこれは夢なのか。病院の一室で眠り込む自分の見ている長い夢なのか――だが、いつまでたっても目が覚めることはない。
そこで少女は覚悟を決めた。いかにあり得ないような可能性でも、もはやそうとしか思えない以上そのように想定しておくべきだと意識を改めたのだ。
即ち。
地球とは違う星。あるいは、違う世界。
異世界に来てしまっているのだと――そう認めるしかなかった。
だからこその懸念だ。自分の知っている言語が通じるか否か。何ヵ国語も話せるような秀才だったらまだ良かったのだが、少女は日本語しか知らない。ひとつしか試せない。これが通じなければもう終わりだ――いや、終わりというのは言い過ぎだが、この先の苦難は確実に増大するだろう。
祈る気持ちで少女は口を開く。戸惑ったような顔を見せている男たちへ声をかけた。
「あの! 少しいいですか?」
「「………………」」
返ってきたのは沈黙だった。男たちは揃って妙に暗い表情で黙りこくっている。
少女は絶望した。やはり通じなかったか――おそらく聞いたこともない言語で話しかけられて困惑しているのだろう。何言ってんだこいつ? みたいな顔に見えなくもないし、きっとそうなのだ。
悪いほうへと思考を向ける少女は見当違いをしていた。男たちが黙り込んでいるのは言葉が聞き取れなかったからではなく、他の要因があったのだ。
ひとつは少女の美貌。真っ白な髪に真っ白な肌。薄紅の瞳は輝かしく、見る者を吸い込んでしまいそうな妖しげな魅力を持っていた。見るからに血筋に特別なものを感じさせるが、しかしそれにしては着の身が酷い。獣臭のするみすぼらしいボロを纏ったその姿は、こう言ってはなんだが浮浪者そのものである。
これほどに美しい少女が、こんな格好で、こんな場所で何をしているのか? 男たちはそのことに強い疑問を抱いた。
そしてもうひとつは、現在の村での事情に関することだ。
――よりにもよって何故「こんな時」に来てしまったのか。
二人が暗い顔を見せている理由がこれであった。
「いったいどうしたんだい、お嬢ちゃん……君は、一人なのか?」
男たちの片割れが重苦しく問いかけてくるのを聞いて、少女は感激した。ちゃんと会話ができていることに花開くような笑みを浮かべ、首肯する。そのあまりの可憐さに男たちは見惚れてしまうが、すぐにあることを思い出して表情は曇った。
「はい、一人です。道に迷ってしまって……もうすぐ日も暮れそうですし、良ければ一晩この村に滞在させてもらえないでしょうか。あと、この周辺の地図とかあったら見せてほしいんですが」
とりあえずは宿を確保したい。と言っても勿論持ち合わせはないので、できれば宿泊施設よりも民家にご厄介になりたいところだ。村の雰囲気――見かけがドのつく田舎であること――からして、畑仕事でも手伝えば宿代代わりにしてもらえそうだという安易な目論見もあった。
次に欲しいのが地図だ。もしも快く泊めさせてもらえたとしても、いつまでも村に居座ることはできない。少女は街を目指したいと思っていた。人が多く集まる場所に行きたい。そこで何がどうなるということもないのだが、当てもなく彷徨い歩くよりかは有意義だろう。
なのでもし滞在を断られても、最悪でも地図だけは貰いたいと考えている。右も左も分からぬ状態でちゃんと地図が読み取れるかという心配もあるが、それは貰ってから悩むとしよう。
「ちょっと、待っとくれよ」
二人は少女に背を向けひそひそと話し始めた。やはり怪しい飛び込みの者じゃあ信用はされないか、と少女は耳を澄ませてみた。自分への嫌疑を語っているのなら場合によっては速やかに撤退する必要がある。万が一にもこちらを害する気配があれば、のこのことついていくわけにはいかない。
しかし、微かに漏れ聞こえてきた言葉は想像と違った。
「どうしてこんなときに」だとか。
「勝手な判断はできない」だとか。
「連れていくしかないぞ」だとか。
……詳細は不明だが、なんだか不穏なセリフばかりである。
とにかくあまり歓迎されていないのは確かだが、かといって追い返そうとしているようでもない。どころか、彼らの会話からすると村には入れてくれるつもりであるらしい。その態度の矛盾や不可解な対応に少女は首を傾げた。
話がまとまったようで、二人は振り向くと力なく下がった眉を見せながら「ついてきてくれ」と言った。
何故そんなにも暗い顔をするのか? 彼らの顔つきは、その肩に背負った死にかけの猪よりも重たいように見える。厄介になろうというのはこちらなのに、むしろ彼らのほうこそ心から申し訳なさそうにしている――まったくもって謎である。
「ありがとうございます!」
疑問を飲み込み、少女は礼を述べた。疑問は尽きないが貴重な――この身体になって初めての――人間との接触である。ついていかないのであればまた森をうろつくはめになる。少女からしてみれば、さすがにそれは勘弁したいところだ。多少不審だとしてもこの機を逃す手はないだろう。
広いうえに柵などもないためどこからが村内なのかいまいち分からないままに、男二人に連れられて村の中心部らしき場所へ辿り着いた少女は、そこで大きな背中を見た。
それは明らかにただの村人ではなかった。人と比べて大きすぎる背丈に、太すぎる手足。形こそ人間と同じではあるが、薄黒い茶色をした肌にぼろ切れを腰にまとわせただけの出で立ちはおよそ人間らしいものとは言えないだろう。
なんだこいつ、と戸惑う少女。どうして村の中にこんな……どう見たってモンスター的なのがいるんだ?
男たちとともに近づくと、気配に気づいたかそいつは緩慢な動作で振り向き、ジロリとねめつけるような視線を寄越す。
その目は男二人を素通りすると、少女へと止まって食い入るような圧を持って見つめてきた。なんとなく不快感を覚えながらも少女は何も言わず、見られるがままでいた。
思う存分少女を観察した巨人がおもむろに口を開く。
「そいつはぁ、なんだあ?」
「ま、迷い人のようです。村に滞在したいというので、連れてきました」
問いかけに男のうち一人が、緊張を声に滲ませながら返答した。その答えに巨人は無機質な瞳で村人を眺め、動作が止まった。何か考え事をしているようにも思えるが、その厳つくもどこか間の抜けたような顔からすると、何も考えていないのだと言われたほうがしっくりくる。
「オ、オーガ様にお目通りをと思いまして……」
オーガ!
村人の漏らした言葉に少女は反応する。
オーガ――ファンタジーに造詣が深いとは言えない少女でもその名前には聞き覚えがあった。詳しくは知らないが、そうそうオーガと言えばこんな見た目だな、とこれまでに触れてきた漫画やゲームを思い出しながら内心で感慨深く頷いた。まさか実物のオーガをこの目で望める日が来るとは……人生何が起こるか分からないものだ。
そして男たちの接し方からして、この村の上位者は人間ではなくこのオーガであるらしい。
つまりそれは――人間とモンスターが共存しているということだろうか?
ここに来るまでに様々なモンスターを見かけた。最初に出会った犬のような猛獣もおそらくそうだったのだろうが、そのすべてが人語を解さない怪物だった。しかしこのオーガは違う。人と言葉を交わしているのだ。これなら確かに、人間とともに暮らすこともできるかもしれないなと少女は納得する。
目覚めてすぐ自分が襲われたように、この世界には危険がいっぱいだ。恐ろしい存在がそこら中に闊歩している。村だって安全とは言えず、常に危険と隣り合わせの生活を強いられていることだろう。そんな中で巨人が――オーガが防衛力として加わってくれたなら、これほど頼もしいことはないはずだ。あの逞しい腕を振るって、村人を襲いに来たモンスターを追い払っているに違いないのだ。
だからこそ彼らも遜るような態度を取っているのだろう。万が一でも機嫌を損ねたら村の一大事に繋がりかねないのだから。
感心している少女を尻目に村人とオーガとの会話は続く。話し合うというよりは男たちが終始少女を連れてきた経緯を説明しているだけだったが、話を理解しているのかいないのかオーガはゆっくりと頷いて了承を示した。
「わかったぞぉ」
「お、お分かりいただけましたか」
一安心、といった表情で顔を見合わせる男たちだったが、次のオーガの発言で彼らは凍り付いた。
「あしたぁ、そいつだあ」
……明日、そいつだ?
何を言ってるんだと首を捻る少女へ、男たちは揺れる視線をちらりと向けると、すぐにオーガへと向き直ってか細い声で言った。
「オーガ様、その、彼女は……この村の住人では、ないのですが……」
「そ、そうです。住み着くわけではなく、すぐに出てい――」
「んんぅ~? なんだぁ?」
「い、いえ! なんでもありません!」
彼らは綺麗に声を揃えてオーガへ了解の弁を返す。あんな大きな顔をぐいっと寄せられれば、それはそれは怖かろう。反論しようとしただけでも大したものだが、しかしその内容がやはりよく分からない。
「そ、それではこれで。さあ、行こう」
「え? でも……」
「いいから! さあ!」
男の一人に腕を掴まれ、強制的に歩かせられる少女。オーガとの会話はあれで終わりか、自分の挨拶は不要なのか……と聞きたい部分はあったが彼らの雰囲気がそれを許さない。二人は小声で「やはりこうなった」「なんてことだ」「どうしようもない」などとぶつぶつと話している。
こわ。
少女の抱いた感想はそれだ。彼らの理解しがたい言動がただ単純に怖かった。
陽が落ち始めて薄暗くなってきている――空の端には薄く月まで見えている――ことも相まって、この人気のない寒村がホラー作品の舞台のようにも感じられてきた。
(来る場所を間違ったか……? って言っても他に人がいるところを見つけられる保証もないしなあ)
この世界についてはまだ何も分かっていないのだ。ひょっとすると、人間はこの村にしか生息していない可能性だってある。それを思えばやはりファーストコンタクトを捨てるという選択肢はありえない。
(でもなんかこの人ら、さっきから普通じゃないもんなぁ……)
悶々と悩むうちに、どうやら目的地へついたらしい。そこは一軒の家だった。村にある他の家屋と比べて特別大きくも小さくもない、平均的な佇まいの住居である。男は強引に引っ張ってきたことを一言謝ると、その家の戸を叩いた。
「マルサ! ちょっと出てきてくれないか」
トラブル無しなんてありえませんね