169 オルゴン襲撃事件:悪魔の羽音
何気にまる5話も主人公の視点がなかったのは初か……というわけでナインたちのお話
どうしてこんなことになっているのか少女にはわからなかった。
いったい何が起こっているのかすらも彼女には判然としない……しかし、今ここで足を止めたらもっと恐ろしいことになるということだけは理解できていたので、夜の街を必死に走り続ける。
息遣いが聞こえる。
荒いそれは、疲れた自分のものとは違ってもっと別の要因で興奮しているからだと、そんな気付きたくないことにまで少女は気付いてしまう。
先日八歳になったばかりの幼い彼女だが、子供というのは時に大人以上に悪意や害意を敏感に感じ取るものだ。だからこそ少女の胸には絶望にも似たものがこみ上げてくる。
背後から聞こえる吐息は先ほどから一定の距離を保っている。ずっと変わらないのだ。つまり自分は追い立てられている。わざと逃がされているのだと――遊ばれているのだと、そこまで詳細に追ってくる者の思考を読んだわけではないが、概ね正しく少女は自身の窮地を把握していた。
逃げる、逃げる、逃げる。
戦う力などない普通の少女には、迫る危機に対して取り得る手段などそれしかない。
即ち逃走。
子供ながらの短い脚で、拙い体力で、先の見えない逃走劇を選択するしかなかった。何故なら愛する母が「逃げろ」と言ったから。
温厚な性格でいつもニコニコしている母親が発した、これまで聞いたこともないような切羽詰まった声は娘を震え上がらせた。しばらくは親子で逃げていた彼女たちだが、もはや二人揃っての移動はできないと悟った母は自らが囮になることを選び、娘を反対方向に逃がした。
それから母がどうなったのか、少女は知らない。言われた通りに駆け出してしばらく、すぐに背後からこの息遣いが追いかけてきたのだ。もはや後ろを確かめることもできずに少女はひたすら路地を走るしかなかった。
逃げる、逃げる、逃げ――あっ。
涙が込み上げてくるのを抑えきれず、そのせいで視界が滲みなんでもない場所に足を取られ躓いてしまう。打った膝の痛みと疲労から立ち上がれない彼女に、後ろのそいつはいよいよ傍まで迫ってきた。
「はあ、はあ、や、やめて……こないでっ」
悪魔。
空からやってきたそいつらを見て、少女の母はそう言った。それは比喩表現でもなんでもなく、真実その通りの意味だ。街を襲っているのは悪魔の集団なのである。
真っ黒な体は形だけなら人間のようだが、巨躯で部位のあちこちに獣のそれに近いものが見られる。梟や山羊の頭をしたものや肉食獣の爪を持つものなど――その奇怪な姿は確かに人の思い浮かべる悪魔そのものだ。
母親はたまたま知っていたがこの街には悪魔の知識を持つ者が少なく、正体不明のそれらへの対応に遅れが出たのはそのせいもあったのかもしれない。冒険者ギルドの緊急クエスト公布もあって滞在中の冒険者たちは事件発生から早くに情報を掴んで討伐へ挑んだが、大都市に比べて人員の数も少ないうえに悪魔は街中に散らばっている。そうなると、どうしてもカバーしきれない箇所も出てくるというもの。
そして少女は今まさに、その救助が望めない区画で悪魔の餌食になろうとしている。
「た、助けて……だれか」
ひたりひたりとわざとらしく音を立てながら、ゆっくりと近づいてくる悪魔。怯え竦む少女を眺めて愉しむ悪趣味さはいかにも悪魔らしいと言えるだろう。
自身がそんな悪辣な娯楽品と成り果てていることを、背後から感じる気配で察した少女は、これから起こることへの恐怖でますます動けなくなる。
それでもどうにか逃げるために、また母親と会いたいがために這いずってでも進む。僅かずつでも距離を取ろうと努力する――ああしかし、その奮闘は余りにも虚しいものだ。遅々としたその行進は悪魔のおもむろな足取りにすら敵わず、あっさりと追いつかれてしまう。
「はあーっ、はあーっ」
自分のすぐ後ろにそいつがいることを知った少女は、過呼吸のように息を荒らげる。もはや恐れはそうと分かる範囲をとうに超えて、少女の視界がぐるぐると回り出す。頭がどうにかなりそうだった。これから自分は死ぬのだと、それは逃れ得ぬ運命なのだと背後の悪魔が教えてくる。
――どうしてこんな目になんで殺されなくちゃお母さんはどこにいるのなんであくまがこんなところにおとうさんにあいたいみんなにあいたいもわたしはここに、ここで――
死ぬ。
「たすけてぇ……っ」
絞り出すような懇願の声は、誰にも届くことはない。
――はずだったが。
「ぇ……」
少女は最初、光が降ってきたのだと思った。
輝く白い光が目の前に落ちてきたのだと――しかしすぐに、それが人の形をしていることに気が付いた。
入り組んだ路地の暗がりに浮かび上がる白の正体は、一人の少女だった。自分と歳もそう変わらないくらいの、小さな女の子である。
白い少女に、倒れたままで目を奪われる。まるで作り物めいた美しい顔立ち。この世の清廉さを集めたような白く滑らかな肌。なびく髪は神々の衣服を編む糸のように流麗で、その荘厳さすら感じさせる全身の美は命の危機という重大事をも一瞬忘れさせるだけの迫力があった。
白い少女の宝玉を思わせるような薄紅色の瞳が自分を見て、そしてその後ろを見た。
目が合ったことで生じた思考の空白を縫うように、少女がゆらりと姿勢を動かし――
光が走った。
自分の体を飛び越えていくように、白い少女は一筋の閃光となって消えてしまう。慌ててその線を追いかけるようにして背後を確かめれば、つい今しがたまでそこにいたはずの悪魔は影も形も見えなくなっていた。
そこには代わりに、少女だけが立っている。
彼女は振り返って――
「レミちゃんだね? さあ行こう。お母さんが心配してるよ」
「お母、さん?」
「ああ。レミちゃんのお母さんに言われて助けに来たんだ。よく頑張ったな。安全な場所まで案内するから、もう大丈夫だ」
微笑みながら手を差し伸べてくるその少女が――レミの目には天使として映った。
悪魔のもたらす災禍に舞い降りた、救いの天使である。
◇◇◇
ジャラザと複数の冒険者パーティが控えている中央教会まで少女を送り届けたナインは、地を蹴って飛び上がり、建物の屋根へと着地する。周囲を見渡してみれば、上空での無数の爆発や火の軌跡が見える。あれらはクレイドールとクータの戦闘行為によるものだ。遠距離用武装で多数の悪魔を屠っていくクレイドールと、高機動と高火力によって飛び回る悪魔をせん滅するクータは非常に頼りになる。殴る蹴るしか攻撃手段のないナインよりよほど大勢を助けていることだろう。
「あいつらがあっちにいて、こっちに冒険者たちが行ってるから……俺はこの方面に行けばいいんだな」
屋根を駆けながらナインは思い出す。夜半になって訪れたこの街、オルゴンの異変をいち早く察知したジャラザの言葉によれば――
『あれは下級悪魔の群れだ。かろうじて人型ながらも動物と蝙蝠が混ざったようなあの姿は『マネス』と見て間違いない。獣のような見た目に相応しい殺傷衝動と獲物を甚振る悪魔らしい下卑さとで出来上がった下等な生き物よ。……しかし、魔界に住むと言われる下級悪魔がこんな数でひとつ所に押し寄せるなど聞いたこともないぞ……どこぞに異界への穴でも開いているのか?』
奇妙なことだ、と彼女は首を傾げていたがそんなことを気にしている暇などありはしなかった。道すがら悪魔を倒しつつ現地冒険者から状況を確かめ、ナインズは急いで役割分担を決めた。大雑把に言えば冒険者の手の回らない場所へクータとクレイドールを飛ばし、ジャラザには避難民の保護を任せるというものだ。回復の技を持つジャラザは今一番必要とされる人材だがそもそも悪魔を排除しないことには怪我人もいなくならない。街の人々を救えるかどうかは戦う側にかかっていると言えるだろう。
誕生したばかりの新武闘王の威光がこの街にも届いていたようで、チーム『ナインズ』の救援はとても歓迎された――人々は地獄に仏という言葉を体現したような喜びようを見せたものだ。
その期待に応える……否、期待以上の活躍を見せないことには恥ずかしくて道も歩けなくなるだろう。
ナインは加速する。瞳の残光すら残すような速度で駆け、道中見つけた悪魔を霧散させるように蹴散らしていく。聞こえた悲鳴のもとへ馳せ参じ、上がった火の手から逃げ遅れた人々を救う。時には守護幕で住民を包みながら無数の悪魔たちを屠っていく――少女の胸には何かが煮え滾っていた。
街中が混乱しているこの状況は、いつかの惨状を思い起こさせるものだ。
あの時の二の舞になどさせてなるものかと拳を振るう。
人狩りの悪魔どもにナインの鉄槌が次々と繰り出されていく。
背中に深い傷を負って倒れている男性と、それに覆いかぶさるように始末しようとしているマネスを見つけたナインは――柳眉を吊り上げて激憤した。
「――しゃあ!」
一歩で男性とマネスの間に体を滑りこませたナインは脚を跳ね上げ、悪魔の腕を蹴り飛ばした。自慢の爪を前腕ごと失ったそのマネス何が起きたか理解が及ばず、愉悦によって浮かべていた薄笑いのままで表情を固まらせた。
その笑みがまた、少女を苛立たせる。
「殺しがそんなに楽しいかよ、糞ったれめが……だったら俺も楽しませてみろや!」
アッパーカット一閃。
頭部に留まらず上半身ごと消し飛んだマネスは、確認するまでもなく死んでいる。
しかし敵を殺してもナインの心に快楽や爽快感などは浮かばない――ただひたすらに怒りが湧き上がる。
オルゴンを襲うこの理不尽を、少女は決して許してはおけなかった。