166 ユーディア・トマルリリーはかなりヤバい
多くの話数の誤字報告に心から感謝します
少女は猛烈な後悔の真っ最中だった。他に選択肢はなく、こうなることは半ば必然だったのだが、それでも自身の判断を呪いたい気持ちだった――この奇天烈な奴の同行者として名乗り出た数週間前の己を殴ってでも「考えなおせ」と説得してやりたいと心の底から思っている。時間遡行の能力を生涯一度だけ使えるとなれば今がその使い時かと真剣に吟味することだろう。
薄い色素の金髪を持つ美しい顔立ちのその少女は、まだ幼女と言って差し支えない程度の見かけではあるが、幼さとは裏腹に年老いた者にしかできないような確かな年季を感じさせる渋面を作り上げていた。
しかし先を行く道連れが背中越しに名を呼んできたその瞬間に、幼女は年相応の笑みを顔に貼り付けて返事をする。
「なあにお姉ちゃん?」
「いや別に? 黙りこくってるからもう疲れたのかと思って心配してあげてるのよ」
感謝しなさいと言わんばかりの口調にぴくりと眉を動かしつつも、「ありがとー」といかにも嬉しがっているような声で礼を返す。
「ちょっとだけ疲れたけど、でも平気。まだ歩けるよ」
「ふうん、ならいいわ。歩き通しだからあんたにはまだキツいかと思ったけど、一応は吸血鬼だものね」
「うん!」
「だったらもうちょっと喋りなさいよね、マビノ。静かだと辛気臭くてヤだわ」
ご、ごめんねと謝りながらもマビノと呼ばれた幼女は腹の内で唾を吐き捨てた――こっちが黙ってるのはそうしたいからでも疲れてるからでもなく、お前が四六時中喧しいせいだと言ってやりたくて仕方がない。
何せこの少女、ユーディア・トマルリリーという吸血鬼はうるさい。
うるさくてうるさくて堪らない。
それはお喋りとかそういうレベルではなく、はっきり言って度を超えた煩わしさである――何故なら彼女は一人で会話をするのだ。
この場にはマビノとユーディア以外、他に誰もいない。その状態でマビノが口を閉ざしてもユーディアは一人話し続ける。ただの独り言ではなく、それはれっきとした会話の一断片のようであった。まるでマビノには見えない誰かがユーディアの隣にいるかのように……。
それも最低二人はいる。
ここしばらくの観察でマビノにはそれがわかった。
「――なによ、あんたまた自慢? あんなのに優勝したからってなんだっていうのよ。……違うわ姉様、嫉妬なんかじゃないってば。このバカがあんまりにもしつこく言うものだから鬱陶しいだけよ。……あら、だってそうでしょう。所詮は人間同士の殴り合いよ、ちょっと取り沙汰されてるくらいで偉ぶって調子に乗らないことね。――当然よ、私たちが出たなら優勝間違いなしだわ。その時はナイン、あなたも一応はチームの一員にしてあげてもいいわ。ねえ、姉様?」
「ねえ、ユーディアお姉ちゃん」
「ん、なによマビノ」
「お姉ちゃんはいったい誰とお話ししているの?」
これまで触れまいとしていたことへ、意を決して訊ねるマビノ。どんな答えが返ってくるかと恐々とした心持ちでいる彼女に対し、振り返ったユーディアはなぜそんなことを聞くのかわからない、といったような不思議そうな表情であっけらかんと紹介してくれた――見えない二人、彼女の脳内でだけ元気にお喋りしているその誰かたちを。
「こちらはヴェリドット・ラマニアナ。私の姉で、勿論吸血鬼よ。とっても優しくて、とびっきりの美人で、私にとっても自慢の姉様なの……もう、照れなくていいじゃないの姉様。本当のことを言ってるだけよ。それで、こっちがナイン。見た目だけはちょっと吸血鬼にも似てるけど、私とはなんの関係もないわ……紹介が雑ですって? だって私、あんたのことなんてなんにも知らないんだからしょうがないじゃないの」
「…………」
マビノは背筋が冷えるような思いだった。
現在は全盛期に程遠い状態の彼女だが、衰えてはいても察知能力や勘のようなものに関してはまだ自信がある。そんな彼女の知覚網がまったく反応を示さないことから彼女の言う「ヴェリドット」と「ナイン」が実在しないことは明らかだ。いや、つい先日立ち寄った街で見かけた新聞記事にナインという少女が一面に載っていたことから、少なくとも彼女が現実に存在する人物であることは確かだし、ならばヴェリドットなる吸血鬼もどこかに本人がいるのかもしれないが――少なくとも今ここにはいない。
歩みを再開したユーディアの背中を追いながら、マビノは再三の後悔をする。
どうしてこんな奴としか出会えなかったのかと自分の不運を嘆く。
前述した通りに彼女は今、本来の力を失っている。全盛期の姿に戻るためには時間と手順が必要になる――だがこんな状態の自分にはそれすらも難しい。だからこそ、同じ吸血鬼。ユーディア・トマルリリーと偶然出会ったときはその幸運に感謝したものだが、正直言って状況は芳しくなかった。庇護下に入れることをすぐに許可したユーディアはしかし、自身の目的――『怨敵』を探し出して仕留めるのだと彼女は語っていた――ばかりを優先し、マビノのことは本当にただの随行者としか見ていない節がある。こちらの事情や過去をほじくってこないのはマビノにとっても助かることだが、このままでは自身の目的が果たせなくなる。
――一番は奴の復活の阻止。それができれば最上なのだが、もうそちらは叶いそうにもないと己の感覚が告げてくる。ならば次善の策として自分が力を取り戻すこと、それこそを目指さなくてはならないというのに……。
我儘かつ横暴、そして異常者というある意味では誰より吸血鬼らしさを体現しているユーディアからマビノは速やかに離れたかったが、この非力な身では誰か信の置ける者に守ってもらわなければ都市間の移動すらままならない。そこらの魔物程度なら今の姿でも苦戦することなどないが、吸血鬼専門の退治屋や等級の高い冒険者パーティなどに見つかれば最悪だ。碌な抵抗もできずに滅ばされてしまうだろう。
自分が本当の意味で死ぬことなどそうそうない。しかしここで一度でも殺されればますます力を取り戻すのが遅くなる――そうなってはそれこそ絶望的と言うしかない。あの最悪の化け物を止めるのは不死者、それも絶対的な力を持つ者でなければ不可能。
要するに自分しかいない。
長らく闇の中に閉じこもっていたマビノだが、大戦時代の血塗られた記憶と共に眠りから覚め、こうしてあの日の続きを行うべく活動を始めた。数を減らしたらしい純正の吸血鬼を労せず見つけられたことは僥倖だったけれど、それがユーディアであったことは不幸と言っていいだろう。
またぶつぶつ姉と友人(?)を相手に会話をしているユーディアの後ろ姿をなんとも言い難い表情で眺めるマビノは、この面倒な相手からそれでも離れられない理由のひとつに「それ」があることを自覚していた。
それとは即ちマビノの鋭敏な肌感覚が知らせる、ユーディアの中に渦巻く膨大な力のことで――。
(……強大な力だ。それに付随する、何か別の読み取れない力もある……どちらも源泉はユーディアではないな。他者から簒奪したものか。これは規模も根深さも中々のものだ――だがこいつ、おそらくこのことに気付いていないな? 乗っ取られていないのが奇跡的なくらいだぞ)
いざとなればこの力を奪ってやるのもアリだ。いかに衰えていようとマビノであればそれが可能だ――とはいえ、今では貴重な純血に対しそういったことをしたくないという思いもある。だからそれは本当に最後の手段、もしもユーディアが力に呑み込まれて暴走を始めたような場合の緊急用として取っておくことにする。
そうなった際はむしろ、マビノこそがユーディアにとってのストッパーになる。
(やれやれだ。護衛代わりのつもりだったんだが、逆にこっちがこいつから目を離せなくなってしまうとはな……手のかかるガキだ)
吸血鬼仲間とはいえ、初対面ですぐに同行を求めてくるような怪しい子供に、ユーディアは大して悩むこともなく「守ってあげるわ」と言い放った――篭絡するための手管をいくつか巡らせていたマビノにとってそれは、聞き間違いではないかと思わず自身の聴力に疑いを持ってしまうほど信じられないものだった。
(まさか……嬉しかったのか、私は……? ――いや、そんなことはない。確かに、誰かから守るなどと言われたのは初めてだったが、その程度でこの心が動かされることなんてあるはずがない……)
「ほら、また遅れてるわよマビノ。しゃっきりしなさい」
「! ご、ごめんね」
「ま、いいわ。もう少しゆっくり歩きましょうか。姉様もナインもそうしたほうがいいって言うし」
「……うん、そうだね。ありがとう、お姉ちゃん」
先で自分を待っているユーディアのもとへ小走りで急ぎながら、マビノはもうしばらくはこのおかしな旅が続くであろうことを――ひとまずは受け入れてみるのだった。
いいコンビになりそう……なりそうじゃない?