165 ピナ・エナ・ロックは鍛えたい
名前を丸々間違えるというとんでもないミスを報告していただきありがとうございます……(羞恥)
とある人里離れた奥地にその小屋はあった。山頂に建つロッジのような建物は小さくとも不便のない造りで、立地故に景色と空気の良さにその魅力がある。当然、そこに暮らす彼女もそれを気に入っていた。
高齢の女性である。髪の大半が白くなっているその老婆は、近隣に自生している茶葉を摘んで淹れた温かいお茶で一服している最中だった。穏やかな昼下がりを楽しんでいる彼女だったが、ふとその目が小屋の入り口へと向いた。
そろそろだ、と老婆には来訪者の来るタイミングが完璧に分かっていた。
「お邪魔するわよ」
老婆の予見通りに客はやってきた。ノックもなしに扉を開けて、ずかずかと中へ入ってくるその人物は、老婆にとってよく見知った者である。
「邪魔するなら帰ってほしいもんだがね……何しに来たんだい、馬鹿弟子が」
「あら、私が来ることは知っていたんでしょう? 用件も一緒に『見た』んじゃないのかしら――ボケ師匠」
その童顔と小さな背丈に見合わない尊大な口調で答えたのはピナ・エナ・ロック。エルトナーゼを所定地とし、審眼の一種である『審秘眼』の持ち主として名高い相談屋である。
そんな彼女の師匠がこの老婆――エーテラ・ロック。戸籍上の母親でもある。ピナは彼女から勉学と占術を学び、瞳の操り方を覚えたのだ。
「占術の腕で並ぶものなしと謳われた師匠も、寄る年波には勝てないってことなのね。こんな山奥に引き籠って、もうまともに仕事もしていないみたいだし……いったいどうしたというの?」
「ふん、手のかかる弟子がようやく独り立ちしたんだ。余生をのんびり過ごすのだって私の自由だろう。もうあくせく働かなくともたっぷり貯えはあるんだからね」
そんなことより、とエーテラは言う。
「あんたの口から直接言ってみな。もう教わることなどないと大きな口を叩いて出ていったくせに、こうして私に何を頼みに来たのかをね」
「……相変わらず性格の悪いこと」
エーテラの口振りからやはりこちらの事情は見通されているらしいとピナは悟ったが、同時に彼女が持つ底意地の悪さというものも、最後に会話した数年前からちっとも変わっていないことが分かった。ピナは物言いが乱暴だと知人一同からよく指摘を受けるのだが、それは間違いなくこの師匠のせいだと彼女は確信している。
「よくご存じの通り、私の審秘眼がある少女に通用しなかったのよ。この眼を操れるようになってからは負け知らずだったというのに、初めての敗北よ。でも無敗の記録は破れても誇りまでは失ってないわ――鍛え直す。一からまた修業をするつもりでいるの。それには師匠の力が必要。どうか私に、もう一度その知恵を貸して」
「……ふん」
浮かんだ予感の元に占術を行使し、この展開は数日も前からすでに『知っていた』ことだ――それはまさしくピナの言う通り。彼女がどういった用向きでこの隠れ家を訪ねてきたのかすらもエーテラは聞く前から知っている。
仮にも一時は国中に名を馳せた凄腕占い師として、枯れ果てた今でもその程度のことはできる。
審秘眼という自分には持ちえない異能で以って立派に巣立っていった元弟子に対しても、授けられる薫陶はまだあるだろう――ただし。
ふう、とため息をつく老婆の表情が示すように、彼女はそうすることに乗り気ではなかった。
できるできないではなく、したくない。
「私の占術だって完全じゃあない。この歳になっても未だに、だ。つまり予見や看破の力に到達点なんてないし、そもそもそこは辿り着けるようなものでもないんだよ。たった一人の例外のために力を見直すなんて無駄だよ、無駄。そのままでも十分にやれているんだから、それでいいんじゃないのかい?」
「……そう」
師匠からの諭すような言葉に、ピナは僅かに顔色を変えたが、噛み付くようなことはしなかった。
彼女は反論よりも先に手荷物から何かを取り出すことを選んだようだ。
「私だって何も手ぶらで来たんじゃないわ。久しぶりに顔を合わせるんですもの、ちゃんとお土産を持ってきたのよ。こんな山奥じゃまず手に入らない物よ」
これにはエーテラも興味を引かれたようだった。
「へえ、そこまでは見てなかったね……まさかあんたが手土産持参で会いにくるような常識を持っていたなんてねえ。社会経験を積むとやっぱり変わるもんだね。それで、その袋には何が入っているんだい」
「老人用紙おむつよ」
「ぶっ殺したろかい」
「まあ落ち着きなさい、軽いジョークよ。本命は他にあるの」
「そうじゃなきゃ叩き出すところだよ」
「ほら。これに、これとかどう?」
「どっちも何なのかよくわからないね、説明しとくれよ」
「こっちが『貼り付けラクラク尿漏れ防止シート』で、こっちが『簡単組み立てお外でトイレくん』よ」
「ようし表に出な! お望み通り白黒つけてやろうじゃないかい!」
「心外だわ。高齢になった師匠を思う弟子の気持ちが本人には伝わらないのね。でも介護者と被介護者の関係ってどこもそういうものなのよね……」
「黙りな、何を知ったような口をきいてるんだい。やたらとシモの世話ばかり焼こうとして……そこまで私を耄碌させたいかい!」
この不孝者め! とエーテラが詰る。しかしピナは怯まず、むしろその眼光を鋭くして自身の親代わりとも言える恩人を睨みつけた。
「耄碌してないと言うのなら、仕事を続けない理由はなんなの? 腕が落ちてるわけでもなければ体を悪くしている様子もない。なのに人のために占術を使わなくなったのは、いったいどういう理由があるというの」
「……まだ若いお前には到底わからんことだろうさ。遠大な流れっていうものは、時に人の命の儚さを嫌と言うほど実感させる。個人の力の及ばぬ領域――否、どれだけ人が力を合わせようと変えられぬ流れ。大きく強い波が全てを掻っ攫っていく。それに対抗できるのは流れを生み出せる埒外の者たちだけなんだよ……ごく限られた一部の選ばれし者だけが、それをなす」
「どういうこと……? 師匠、あなたは占術で何を見たの? 何を知ったの? それを知ったから師匠は、こんな僻地に身を置いて、人と関わることを止めてしまったというの?」
「そうだとも。大いなる流れはもうすぐそこまで迫っている。これから世界はあまねく坩堝となるだろうさ。私はそれに干渉することをとうに諦めた。私やお前程度では、いたずらにかき乱すことになりかねない……結果だけを求める占術や審眼じゃあ、『絶対』という名の運命の歯車にすり潰されることになる」
そう断言するエーテラはしかし、ピナがどういった反応をするか正確に読めていた。
それは占術に頼らずとも見える、ピナ・エナ・ロックという一人の人間の矜持というものをよく承知しているからこその予見であった。
「――舐めないでほしいわね。そんなことを言われて私が諦めると? 引き下がるとでも? そんなことはあり得ない。師匠はお歳を召されて気力が底まで落ちてしまったようだけれど、私は違うわ。若さゆえの過ちだと笑うのならば、それでもいい。存分に未来ある者のひたむきさを笑うがいいわ――それでも私は進む! この審秘眼をより完璧なものにして、師匠! あなたが諦めた場所へ! 到達点へ辿り着いてみせる!!」
「ピナよ……」
ピナの瞳に幾何学模様が浮かび上がる。彼女の眼は、ここではないどこかを映し出そうと躍起になっているようだった。その必死さは熟達者たるエーテラからすればひどく滑稽なものだったが――けれどもそれ以上に、輝やかしいものでもあった。
「今日がそのための新たなる一歩よ。私の新境地に、ついでだから師匠も連れていってあげましょう」
「くくっ……だから自分に教えを授けろって? それが人に物を頼む態度かい……馬鹿弟子が」
またも馬鹿と呼ばれむっとした顔をするピナを見て、ますますエーテラは可笑しくなった。
こんなに笑えたのは、ここへ移り住んで以降初めてのことだった。
いつの間にか自分の心が死んでいたことに、彼女は気付く。それを教えてくれたのは他でもないこの不肖の弟子だ。彼女の情動は、その高みを目指そうとするひた向きな情熱は、久しく火の灯されることのなかったエーテラの胸中に薪をくべた。
「――いいさね。弟子の面倒は最後まで見るのが師匠の役目だ」
「! それじゃあ……」
「ああ、まずは心して聞きなピナ。私の占術が見せた世界の危機。その偽らざる真実を教えてやろうじゃないか。お前の眼を鍛え上げるのはその後だよ」