163 シリカ・エヴァンシスは信じている
新しいストーリー……の前振り的なお話
怪物少女がこの世界で目を覚ますのと同じ時期。
アムアシナムにおいて最大規模を誇る一大宗教『天秤の羽根』――その本殿の一室に、彼女はいた。
「では、私はこれで。本日のお勤めご苦労様でしたシリカ様」
「うん。あなたもご苦労様、テレス」
流麗な黒髪を持つ美しい少女からそう労われて、彼女お付の護衛テレスティアはカアッと顔を赤くした。
「――いえ、私はこれが使命ですので! そ、それでは失礼します」
恭しい御辞儀を披露してテレスティアが部屋から出ていく。それを笑顔で見送って……部屋の主人シリカ・エヴァンシスは重いため息を零した。
疲労感。
わずか十二歳の少女に圧し掛かっているのがそれだった。
「いけないわ、ため息なんて……。気を付けないと」
今は一人きりだから良かったものの、他の者たち――本殿にいる最高信徒の位を持つ幹部たちや警備や護衛の者たち、そして何より自身の母である『シルリア・アトリエス・エヴァンシス』にこんな姿を見られたら、何を言われるかわかったものではない。
一人になったからこそ気が緩んだとも言えるが、このうっかりを許していてはいつか人前でも失態を演じることになるだろう。シリカは自分以外誰もいない、広い部屋の中でも気を張りつめた。
背筋を伸ばし、凛と佇む。この佇まいを母は好んでくれる。
「もう休まなくっちゃ……」
明日もまた今日と変わらない一日になるだろう。天秤の羽根教皇である母の娘として――次期教皇を担うに相応しいだけの仕事をしなければならない。
実際のところ何か難しいことをしないといけない、などということはないのだ。
シリカはただ母の言うことを聞いていればいい。
先祖代々美しさに優れていることで有名なこの血筋の中で、特にシリカは色濃く血に恵まれている一人である。美人かつ敏腕な才女であると誰しもが認めるシルリアをも超える逸材として彼女は周囲から期待されている。それを誰よりも期待しているのが母であり彼女を産んだ張本人のシルリアだ。
自分が客寄せパンダのような扱いを受けていることは理解しているが、シリカはその立場を甘んじて受け入れていた。思うことがないわけではないが、他ならぬ母もまた祖母からそういった扱い方をされていたらしいことは幹部から聞き及んでいる。
祖母は十六で母を産み、三十で夭逝。母もまた十五で自分を産んだ――もしかしたら母は数年後にはいなくなっているのかもしれない。エヴァンシスの血統が代々早死にするということもシリカは知っている。あの母が落命することなんて考えられないし、自分があと三年もすれば一児の母になっているなんてことはもっと想像がつかないけれど、きっとそうなるのだろう。
死に追われるようにして、エヴァンシスの女は若くして子を成してきたという確かな歴史がある。
今時は村落の娘でももう少し晩婚だというのに、彼女らは十代前半にもなれば子作りを急ぐのだ。
この血は祝福なのか呪いなのか。
そんな考えを持ってはいけないとわかっていてもシリカは疑問を抱かずにはいられなかった。生き方を縛られ、死に方を決められ、この本殿という箱の中、アムアシナムという街の中だけで一生を終える。
教育を受け、受け継ぎ、次世代の信徒を育て、次々世代の信徒のために子供を産み落とし、そして死ぬ。まるで動物のようだと彼女は思う。限りなくシステム化された本能の行動原理。一本化した生命のバトンは伝統と言えば聞こえはいいが多様性や発展性は皆無で、何もかもが決定づけられた――一個の歯車式装置のようだ。
「……籠の中の鳥、なんて」
悲劇のヒロインを気取りたいなどとシリカは思わない。しかし、この遣る瀬無い気持ちばかりは否定することなどできない。
エヴァンシスの女と交わった男は種を残した後に必ず死ぬ。直接血を継いでいない彼らがどうしてそんなことになるのかはまるで不明だがこれもまた間違いなく事実だ。祖母の夫も、そして母の夫――つまりはシリカの父もまた、とうの昔に旅立っている。父親が命を落として数ヵ月後に産まれてくる子は決まってその性別が女である。典型的な女系一家ということになるが、それもまた『天摩神様の血』が定めているのだと思えばひどく寒々しいものがある。
とかく運命が固定されている。
エヴァンシスの血に纏わるもの、関わるもの全てが同じ道筋を辿っているのだ。
「はあ――」
またしてもため息。いけないことだと自重しても、どうしても出てしまう。
シリカは母が好きだ。シルリアはとても厳しく、滅多なことでは褒めることもしてくれないし、教皇としての公務中はシリカが実の娘であることを忘れてしまっているような態度を取るけれど、それでも母子の情はある――そうシリカは信じている。だから今の立場にも耐えられる。
あとは自分を慕ってくれている者たちの存在も大きい。特に護衛隊長の一人としてシリカ専門の警護任務を預かっているテレスティア・ロールシャーは、シリカが幼いころよりずっと危険から守ってくれている大恩ある人物だ。二十六にもなって浮いた噂のひとつもない彼女のことを若干心配に思わなくもないが、それだけ任務に忠実でいてくれているのだと考えるとシリカには感謝することしかできない。
まるで恵まれていないということはない――母がいて、テレスティアがいて、慮ってくれる信徒たちもいて……もはや何を不満にすることがあろうかと、自分を哀れむのが汚らわしく感じる時だってある。
だけどシリカは、やはり疲れていた。
十歳を過ぎたあたりから公務付きが本格化し、今では教皇としての仕事を学び出しているところで――これから自分は母のようになるのだろうと思うと、どうしても気が重くなる。
もはや運命に疑問を持つこともなく子供を持ち、祖母や母がそうしたように……自分がされたように躾をして、同じようにこの籠の中に閉じ込めて。
それから死んでいく。
ゆっくりと腐り果てるように、黒ずんだ果実が枝から落ちて潰れるように。
「…………」
窓の傍に立つ。見えるのは小雨に降られるアムアシナム西方の薄暗い街並み。忌々しい景色。けれど大切に思わなければならない景色。
壊れてしまいそうな心をギリギリで保っていられるのは、シリカが少女らしく夢見ているからだ。
閉じ込められた姫を助け出す素敵な王子様。幼い時分にたった数回だけ読んだ記憶のある、絵本の物語――救いの手が伸ばされることをシリカは心の奥で信じている。
あれはあくまでも架空の御伽噺で、現実には姫を助け出す王子様なんてどこにもいない。それはわかっているのだ。だけど、囚われの少女はこうして現実にいる。だとすれば、それを救う王子だって。悪い魔女も黒い邪竜もその知恵と勇気で打倒し、可哀想なお姫様に本当の愛を教えてくれる誰かだって――いるかもしれない。
「おやすみなさい、シリカ。明日も、明後日も、その次の日も頑張りましょう。ずっとずっと頑張りましょう。きっと大丈夫。いつの日か王子様が、私を籠から出してくれる日が来るわ」
ベッドの中で瞼を下ろし、少女は恋焦がれるように眠りについた。
彼女は信じている。
どうしようもなく信じているのだ。
鉄の檻のようなこの籠を圧し折ってしまうような、そんな物語の登場人物じみた都合のいい誰かがやってくることを――シリカ・エヴァンシスは心の底から願っている。
その願いだけを胸に、少女は変わらぬ一生を過ごすだけの覚悟ができていた。矛盾するようだが、信じていながら信じていない――そんな歪んだ精神構造がシリカの裡には出来上がっているのである。
しかし。
少女の無垢なる願いは、彼女が思い描いているのとは大きく異なった形で実現することになる。