156 決勝戦②:流れよ其の血、と剣士は斬った
ミドナ・チスキスは天才剣士である。
裕福とまでは言えずとも食べるのに困らない程度の家庭に生まれ、小さいところではあるが学習塾にも通えた彼女は小都市住みとしては世間一般的に勝ち組の部類に属していただろう。ただし、家庭環境が円満だからと言って家族関係までもがそうだとは限らない。
父も母も決して悪い人ではなかったけれど、親としては子に注ぐ愛情がちょっとだけ足りていない人たちだった――ミドナは今でこそ自身の境遇を客観的に望みそう思えるようになったが、両親の庇護下にいた当時は息苦しさの原因がさっぱり解っておらず、どうしてこうも親に対して心を開けないのかと自分を責めてばかりの毎日であった……だが。
なんてことはない、そもそも両親が自分に心を開いていなかったからこそ、こちらからも歩み寄れなかっただけのことであって。
そこに明確な悪意や家族間のすれ違いだとかいった不幸な要素は何ひとつもなく、ただ単に仕方なく夫婦になった二人の間に物のついでのように生まれたのがミドナという少女であったという。
それだけの事情でしかなかった。
国の管理下になく、実質的に遊牧民に近い扱いの村落に住まう人々の中にはそれこそ、日々の生活が命がけという者も少なくない。そういった人たちと比べればミドナは間違いなく幸福と呼べる暮らしを送っていたけれど、しかし当人にとってその色味のない日々は地獄と言って差し支えなかった。
体ばかりは成長して、しかし心は摩耗していくばかり。
日に日に自宅で過ごす時間が苦痛になっていった。
塾生たちの多くはミドナと同じく中流以上の家庭の子たちばかりで誰も彼もが親と良好な関係を築けているようだった……少なくともミドナにはそう見えた。
だから彼女は嫉妬を抜きに同年代の子供たちと接することができず、そんな自分が嫌で積極的に友人を作ろうとも思えず、ますます孤独の輪に閉じこもるようになっていった。
家でも塾でも心休まる時のないミドナは――必死に何かを探していた。
自分を、そしてこの閉じ切った世界を一変させるような何かを懸命に探して探して探し続けて……だからこそそれに出会えたのだろう。
とあることをきっかけに初めて剣を握ったのが十三歳のとき。
振るった剣が風を切って音を立てたその瞬間に、ミドナの世界に色がついた。
己を閉じ込めていた狭い輪っかを切り裂いたような気がした。
その三ヵ月後にミドナは冒険者学校へと入学することになる。
握り方すら知らなかった時点から僅か十日余りで十全に剣を扱えるようになり、二十日もすれば基礎的な斬撃魔法すらも習得してしまった――それも全て、独学でだ。そこで満足せず、どころかますます武の道へ傾倒した結果として、彼女は冒険者を生業として選んだ。
入学時も教員を務める元冒険者の男性を倒してしまって、三日後には異例の超短期卒業となり、晴れて正式な冒険者と認められた。
そこからは少しばかり苦労もあった。と言ってもそれは冒険者としての規則や仲間集めにおける四苦八苦であり、実力的な意味での苦労はほとんどなかったと言える。やがて『ヘルローシンス』を結成することになる今の仲間たちに出会ってからはそれこそとんとん拍子に階級を駆け上がり、武というものに初めて触れてからたった四年で彼女はその道の頂点の一人に数えられるようになった。この経歴を聞いて彼女の才能を疑う者は皆無だろう。
――そんな紛うことなき天賦の才を持つ彼女だからこそ、わかることがあった。
例えば彼女もクエストでよく使う斬撃魔法の一種『オーラスラッシュ』。
これは実体を持たないモンスターが相手でも剣撃によるダメージを与えられる技であり、本来は剣を振ったその軌跡を魔力で固め、対象目掛けて飛ばすものだが、ミドナほどの剣士ともなれば実剣を振らずとも無手のままで『オーラスラッシュ』を放つことが可能だ。
これがナインを苦しめている『見えない斬撃』の正体である。
他にも類似技に霊体特効の『オーブスラッシュ』、精神体特効の『アストラルスラッシュ』、次元を超えて斬撃を届かせる『ディメンションスラッシュ』などがあるが、前者ふたつは使い勝手で劣り、後者は高威力かつ範囲が広すぎるという理由で結果としてこういった技の基本である『オーラスラッシュ』こそが大会の舞台で使うには総合的に優れている――ということでミドナはこれまでの試合、ほぼこれだけで勝ち上がってきたのだが。
通常一度に一発が限度のはずのそれを五連続で放てる彼女でも、さすがにこの技だけで勝てるほどナインは甘くない――ということは戦う前からとっくにわかっていた。少女の試合を見たときから――否、もっと前。大会が始まる数日前に握手をしたあのときから、この程度の技で沈むような存在でないことなど分かり切っていたのだ。
――しかしそれでも、彼女は笑わずにはいられなかった。
実を言うとミドナはナインが思うほど余裕があるわけではなかった。
見えない斬撃に苦労していたナインだが、その実冷や汗をかいていたのはミドナのほうである。
通用しないとは知っていたが、けれどこんな手応えを返されてしまっては。
鉄塊めがけて小枝を振ってぶつけているような感触と言えばいいだろうか。そう難度の高くない基本技とはいえ『オーラスラッシュ』がここまで陳腐に思えたのは彼女にとっても初めての経験であり、まともに食らっても傷どころか皮膚の表面すら切れた様子のないナインへ思わず笑みを浮かべてしまった。
これが笑わずにいられようか。
ナインが余裕の笑みと評したその正体は、呆れからくるものであった。
その人間離れした頑丈性にも、そしてプレートを剥がして武器にするという発想とそれを可能にする腕力にも心底から感嘆し――故にその結論に至った。
抜剣。
この大会において初となる、ミドナ・チスキスの本領にして本気の剣技が解禁されたのだ。
投げられるプレートをなくしたナインがその身で攻め込む――刹那に合わせてミドナもまた前へ。
少女の拳が振り抜かれる瞬間に時を重ねるように、しかしほんの少しだけ早くそれを届かせる。
神速絶追の抜刀術。
直剣だが細身で片刃という独特な形をしたミドナの『狼牙剣』は閃光が如き閃きとなってナインを斜めに切り裂いた。
なんの抵抗もなく衣服が破れ、その下へ軌道をなぞるようにして血の赤い線が刻まれる――。
「うっそでしょ……!」
「いっ、痛ぅっ――!」
両者の驚愕は種類が違う。
ミドナは本気の一振りですらナインの表皮を僅かに裂いただけというその結果に驚き、そしてナインは――僅かとはいえ己が体に傷が生じたことへの驚きだ。
彼が彼女になってから、つまりはナインとなってから初めて経験する――明確な負傷であった。
(くっ、根性を入れたのに間に合わなかったか――いや、違う! 根性の上からミドナさんは俺を斬ってみせたんだ!)
怪物少女は戦うごとに強くなる。
切断技への対策をナインは先の『アンノウン』との試合で学んでおり、その秘密は根性――つまりは気合を入れることにある。
そうすることによって因果の切断とも言えるネームレスの『窓』による遮断を無傷で切り抜けることができたのだ。その要領で今回も刀身を浴びる際に気張った彼女であったが――それでもミドナの刃は己に届いた。こと『斬ること』に関して言えば彼女は防御無効の『窓』すらも超越する技量を携えているらしい。
逆に言えばネームレスとの戦いがなければナインはここで致命傷を負ってすぐにも試合が終わっていたかもしれない。
そうでなくともその後の展開が大きく不利になっていたであろうことを考えれば、取りも直さずネームレスの『試練』がナインをより強くしたということになるのだろう。
あまり認めたくはなかったが、けれどナインはここで素直に感謝を覚えた。
(ありがたい……! ネームレス、だけじゃなく。フルフェイスやサイレンスのおかしな技と戦った事実が、経験となって確かに俺の中に根付いている)
ヴェリドットや湖の魔物もそうだ。
全員が一筋縄ではいかなかったし無敵とも思えるような術や異能を使ってきた――しかしそのすべてにナインは勝利してきたのだ。
ミドナ・チスキスの技量はナインをしても相当な脅威である。この肉体を初めて傷付けた相手を前に、一切の油断はできないだろう――ただし、それでも。
――勝つのは俺だ!
右肩から左脇腹にかけての細い刀傷。そこから赤い血を垂らした少女が、鮮血以上に赤く、紅く、深紅く――その瞳に力強くも妖しげな光が宿ったのを見て取ったミドナは、瞬間的にその場から離れた。
この現象は対『アンノウン』戦の試合で確認済みだ。瞳が発光し、髪が独りでにざわめきだしたかと思えば、ナインは途端に動きのキレを増してそれまで手玉に取っている側であったサイレンスを逆に圧倒するようになった。
ただでさえ身体能力の凄まじいナインだが、この状態になってからは更に実力が引き上げられる。
いや、引き上げられるというよりそれは、拘束して抑えつけていたものを解放するかのような――まるで本来の力を心置きなく振るうみたいに――、
ミドナは自身の思考が終わる前に手の内の剣を突き出した。
「ちいっ!」
「おっ、もたいなぁ!」
先に見せた以上の速度で突っ込んで拳を向けてきたナインに、ミドナは回避でも防御でもなく攻撃することを反射的に選択した。
突き込まれる腕へ斜めから当たるように刀身を置き、弾きながら逆にその胴体を狙ったのだが――余りにもその拳が重すぎて失敗した。殴打を逸らすことはできたが咄嗟のカウンターは狙いとは程遠く、ナインの頬を掠るだけに終わった。
左頬に新たな傷痕を残しながらミドナの横を抜けたナインは、足を床へ突き刺すようにして自身の推進力を力ずくで殺し、急ブレーキ。そのまま反転して再度突貫を――そう思った少女の予定を覆すような光景が、その視界の先に広がっていた。
「『ディビジョンアバター』……こいつは決め球にするんじゃなくて、こう使うんだよ」
ミドナ・チスキスが二十人。
ほんの一瞬目を離した隙に、一人だったはずの彼女はその数を二十倍に増やしてしまっていたではないか。
思わずギョッとして踏み出しかけていた足を止めたナイン。彼女を取り囲むように二十のミドナが動く。辺りを囲まれ、しかもどれが本体か見分けがつかないことにナインがついつい呆けた、その途端。
分裂した実剣から放たれる本気の『見えるようになった見えない斬撃』――合計百発が少女の全身に降り注いだ。
試合を楽しんで書いてるのが伝わってくれたら嬉しい