145 種も仕掛けもある切断マジック
ばぢん、と何かを焼き切るような音をナインは確かに聞いた。
その音は己が頭上、頭頂部スレスレで鳴ったものだ。
窓を通じて首から上だけを別空間に送られ、会場ではないどこか違う場所の風景を見させられた瞬間には純粋な疑問符しか浮かばなかった彼女だが、その窓がすぐにも閉じられようとしていることに気付いたからには途轍もなく嫌な予感がした――それもサイレンスが気配を隠して(というよりあの少女には元より隠すほどの気配もないのだろうが)背後から攻撃を仕掛けようとしていた先の場面よりもよほど明確に、そして強烈にゾッとさせられたのだ。
だからナインは一も二もなくしゃがみ込んだ。
瞬息で閉じられようとしている窓がナインの小顔すらも通り切らぬほどに収束してしまうその前に、どうにかこうにか頭を引き抜いた。ギリギリだった。もう少し、あとほんの一瞬でも遅く――頭の位置そのままに窓が閉じたなら、どうなっていたのか。
(い、今――俺がもしも動かなかったら! 俺の首はどうなっていた!? まさかこの窓は! 空間と空間を繋ぎ合わせている窓が閉じるっていうのは、まさかそういうことなのか!?)
地に膝を突いた姿勢のまま青い顔をするナインに、ネームレスが「明察だ」と短く言葉をかけた。
それから彼はまるで実演してみせようと言わんばかりの態度で、これ見よがしに足元に転がっていた瓦礫を持ち上げた。
それは舞台の破損、主にナインとフェイスレスの激しい肉弾戦の余波を受けたことで床が破壊されて生じた物だが、手の平大というには少々大きいサイズであり、片手で掴み上げるのには向いていないようにも見える。しかしネームレスが術者としては意外なほどに肉体派でもあることは既に知っているナインなので、そこでまたぞろ意外に思うことはなかった。
彼女の関心を引いたのは瓦礫そのものではなく、それを囲うように作られた窓である。
「これを閉じる。するとだ」
ばぢん、と先の焼き直しのような音がする。
ナインは盛大に顔を顰めた――瓦礫が半分から一刀両断されているのだ。見えるのは羊羹を切ったような綺麗で凹凸のない切断面。勿論闘技場の舞台の素材が羊羹のような柔らかさや滑らかさを有しているはずもなく、むしろ相応以上に硬く頑強であるはずで、そんな物をこうも手もなく切り裂いてしまうというのは……。
「やっぱりそういうこと、なんだな。その破片の消えた半分は、窓の向こう側に行っちまったわけか」
「その通り。窓を閉じるというのはあちらとこちらの接続を断ち切るということだ。その中間にある物体、別の空間に同時に存在することになっているそれは、閉じられた時点で矛盾を解決せねばならなくなる。即ち分割されるのだ。上半分があちら側に、下半分がこちら側に。君も危うくこの石くれのようになるところだったな」
ネームレスのその物言いに、ナインはむっとして立ち上がった。
膝を突かずとも彼と自分とでは背丈が違いすぎて、たとえ背伸びしたって上から見下ろされることになるのは変わりないけれど、それでも出来るだけ頭の高さで負けぬようにと小さな少女は精一杯に胸を張る。
「おいおい、ずいぶんと他人事じゃねえか。この大会のルールを忘れたのかい? 闘錬演武大会には『殺しは即失格』っていう絶対のルールがあるんだぜ。俺たち全員が大なり小なり相手の命だけは奪わないようにと苦慮している中で、あんただけ自由が過ぎるんじゃないか」
ナインが咄嗟にしゃがまなければ――つまりは窓の危険性に勘付くことがなければ、今頃ネームレスは失格扱いになっていただろう。そう指摘してやると、彼は臆面もなくこう言い放った。
「ままならぬものだ」
「あ?」
「確かに闘錬演武大会で対戦相手を死に至らしめる行為は禁止されている。この大会で優勝することを目指しているわけではないが、しかし郷に従うだけの矜持はあるつもりだった。誰が相手でも――そう、君が相手でも。王への試練であっても命を奪うような真似だけはしないつもりでいた。自重の楔は打っていたのだ。だが。やはり予定というものは予定通りにいかないのが常というものか。君という余りにも素晴らしい人材を目の当たりにしてまっては、その卓越した力を見せつけられてしまっては……矜持をも覆さざるを得ない。私は泣いて馬謖を斬る思いで君に大いなる試練を授けよう。命の危機はその最たるものだ。生存本能に導かれてこそ、その者の真の力が発揮されると私は考えている」
「……お前」
ナインはもはや、若干気持ち悪いとすら思った。
ネームレスの言い分は身勝手もいいところで、こちらのことを何も考慮すらしていない癖に、自分こそ身を切って苦労しているのだと酔っているような口振りで非常に腹立たしいものがある。
そして何より、その不遜さにまるで気が付いていない様子なのが一層神経に障る。
相変わらず彼の言葉の意味はよく分からず、内容よりもむしろ故事成語の『泣いて馬謖を斬る』という言葉が使われたことで自分の耳にはそう聞こえたが異世界本来の言語ではどういった表現であるかのほうが気になっているくらいだ。
とまれそんなことを気にかけてもしょうがない。
分からないなら分からないでいい、彼の言葉を理解しようがしまいが、戦う分には関係のないことだ。
「つまりあんたは試合を放棄してでも俺に致命傷を与えたいと、そういうことでアンサー?」
「語弊があるな。私は君を殺めたいのではない。その苦難を撥ね退けてもらいたいのだ。圧倒的な戦いぶりで、この試練を乗り越えて欲しいのだ」
「……まあ、こっちとしちゃあどっちみちあんたを倒すしかねえわけだが」
「ならばかか――」
ってこい、とは言えなかった。
そう催促するまでもなくナインが迫ってきていたからだ。先のようにただ一直線に駆け込むのではなく、その姿がかき消えたことでネームレスは少女が学習したことを悟った。
しかし次に選ぶのが『回り込んで背後から攻める』というのは逆に分かりやすいくらいで、及第点をやることはできそうにはない。頭を捻って選んだ策がこの程度ならば、いっそ連続で正面から突っ込んできたほうがまだしも意外性があっただろう。
「私の視野が前方にしかないと思い込んだか。魔術師を相手にその判断は迂闊としか言えん」
「!」
振り向いてもいないネームレスの周囲から例の光糸が伸びてきたことに、ナインは彼がなんらかの術で己が周囲一帯を視界に収めていることを悟った。
なるほどこれは予想外だったとナインは素直に認める。
けれど彼女とて馬鹿ではない。
あまり頭脳的とは称せない基本力任せの少女ではあるが、決して考える力がないわけではないのだ。
こうなるだろうと半ば覚悟していた。如何に工夫して正面ではなく背後からの強襲を選ぼうとネームレスにはそれすら通じない可能性は高いと、彼女は何の偏重もなく冷静に、客観的に戦力分析をしていた。だからこうしてその予見が現実となり、完璧なタイミングで出現した光糸が己を捕えようとしていても、もう彼女に焦りはなかった。
――こんなこともあろうかと!
そこからナインは更に加速した。
地を蹴る足により力を込めて体を全力で前へ進める。
(! まだ全速力ではなかった――隠していたのか、自身の最速を。私の意表を突くたった一度の機のために!)
本来なら確実に逃れられないはずであった光糸の群れをナインは風すらも追い越すような速さで駆け抜け、その隙間をすり抜けていく。捕縛を逃れたその先には、ネームレスの背中。
「うおっらあああぁ!!」
思い切りぶち込む。サイレンスの絶対の力すら破って見せたその拳を、何に遠慮することもなく手加減抜きで。
「ぐぅ……っ!」
ネームレスの苦痛を訴える声。ナインの手にはまた硬い物に阻まれるような感触があったが、先ほどよりもダメージが通ったらしいことをその呻きで察することができた。
「もういっちょ――!」
「そうはさせん」
「、あっぶね!」
そのまま連打に移行しようとしたところで、ナインは己の直感に従ってその場から飛び退いた。
足元を掬うようにして地面に窓が開きかけていたことを確認し、ほんの少しでも足を止めるのは悪手だと悟った少女は、故にネームレスの周囲を高速で駆け回りだす。
「む……」
ぐるぐると走るナインはその速さでネームレスの視界に収まらない。広い視野で全体を捉えているであろう彼だが、単純に速すぎる相手では術をかけるのも一苦労となる。とはいえ――
(素早い相手にも対応できる術はいくらでもある……しかしここは待つとしよう。私はこの試合、窓だけで攻撃すると決めている。その分、閉じることに容赦はしないが……さあどこから来る。君は次の窓を回避できるか?)
ネームレスは動かない。
忙しなく走り回る少女へ当てこするかのように泰然と佇むその姿を見て、ナインは彼がカウンターを狙っていることを読み取った。
(面白え……! たった今、糸でも窓でも俺を掴めなかったっていうのに、後の先を取ろうってのか! できるもんなら――やってみやがれ!)
根拠はないが「今だ」と感じたナインはネームレスへ突貫を仕掛けた。それは彼から見て左側面からの殴打――届く、とナインは確信した。見てからでは確実に間に合わない。ネームレスが術を発動させるよりも先に自分の拳が命中する――
ところが。
「なにぃ――っ!」
超高速で拳を繰り出す最中、時の狭間。
引き延ばされた時間感覚、その奇妙な体感の中で、彼女は目撃した。
自身の腕が伸びるそこへ待ち構えていたかのようにネームレスの窓が開き始めたのを。
「だから甘いのだ」
開くと同時に、閉じ始める窓。そこへ自ら腕を突っ込んでしまったナインは、その手を引き戻そうと脳が体に命令を下す――よりも断然速く。
ばぢん、というあの恐ろしい音が鳴った。
窓は完全に閉ざされた。