135 勝ち負けは他人が決めるもの
本音を言えばトレルは当初、約束を守るつもりなどさらさら無かった。
本戦Aブロック第五試合、『ファミリア』対『ナインズ』はティンク対クレイドールによる実質的な一騎打ちの様相を呈していた。それはティンク本人が望んだことでもあるし、試合が始まる前には再三のように一対一でやらせてくれと頼まれたものだ。それにトレルは同意し、いかにも理解ある相方のように思う存分やるといいと背中を押してやった――勿論これは演技である。
まるでティンクに任せきりにするような態度でクータとジャラザの不意を打った際のように、此度もまた彼女はクレイドールの背中を狙うつもりだった。思いのほか両者の戦闘が激しく三次元的に動き回るものだったこともあってなかなかそのチャンスは掴めなかったが、後半の殴り合いからはようやく好機が巡ってきた。それでもクレイドールのスラスター断続使用、否、断続不使用によって動き回る戦い方は彼女自身図らずしも背後からの奇襲へのけん制にも繋がっていたが、とうとう決定的な機会が訪れる。
両者ともに限界が近い状態で、意外なことに有利を取ったのはクレイドールであった。
両足でティンクを地面に押さえつけ、見るからに暴力的で禍々しい形に腕を変形させて決定的な一撃を加えようとしている――しかし勝敗が付こうというその時こそが不意を食わせる絶好のチャンス。トドメを刺そうと意気込めば意気込むほど周囲への注意は疎かになる。今やクレイドールの視界にも思考にもティンク以外は存在せず、チームメンバーたるトレルのことなど頭の片隅よりも更に遠いところに捨て置かれていることだろう。
今こそ仕掛ける時。
音を媒介に対象の脳を揺らし、幻惑作用を生じさせるトレル固有の能力。専用装備の特殊合金音叉『恋心』で直接音を届ければ並大抵の精神操作対策では抵抗すらもできないという食らう側からすれば極悪と言ってもいい強力な力。それをクレイドールに使えばもう勝ちだ。いかに自動人形でも脳幹は存在する。そして見るからに死に体に近いあの状態から幻惑を受けてはクータのように復帰することももはや叶わない――なんなら味方を敵と思わせて同士討ちをさせてもいい。
プランは浮かぶ。実行も十分可能。
しかし。
トレルはどうしても足を踏み出すことができなかった。
その理由はティンクの言葉にある。
戦闘の最中にティンクが敵と長いお喋りを始めたことに、まず違和感を覚えた。だがクレイドールと自分たちとの関係性ゆえにそれくらいのことは何もおかしくない、とそこまでならそう納得することもできた。だが、その内容にこそトレルは瞠目させられた――そこにはティンクがこれまで見せてこなかった本音が多分に含まれたものだった。
パラワンへの思い。
捨てられたことへの恨み。
クレイドールという後継機へのやっかみにも近い感情。
自分と彼女の性能差へのなんとも言い難い奇妙で重苦しい感覚。
そして何より――私たちは果たして愛されていたのかという、答えの知りようがない大きな疑問。
それらは全て、確かに自分が抱いているものだった――そして彼女が抱いていないはずのものだった。
何故なら彼女は今の立場に満足し、一意専心に任務に励む堅物であったはずだから。道具であることを認めて受け入れて、いつか摩耗しつくされて処分される運命が見えていながら、それでも強さを求めている――自分とはまったくもって相容れない少女。
そう思っていたのに。
彼女はともすれば、自分以上に悲しんでいたのではないか?
ティンクとクレイドールの対話とも言えないような支離滅裂な台詞の応酬は――それはわざとやっているのかどうか、クレイドールの突飛な言い分のせいがほとんどを占めるが――その奇天烈さはともかくとして、互いの嘘偽りない思いを吐き出していることは聞いているだけでも十分に伝わってきた。
ティンクは悲しみ、嘆き、寂しがっていた。
しかしそれを表に出さず、ひたすら任務に励んできた……いや、逆だ。
感情を表に出さないため、任務だけに集中してきたのだ。
「お前は感情を表に出し過ぎる」
悪い癖だとティンクは言った。実際、トレルは自分でも悪癖だと理解している。だから注意を受けても別に腹が立つということもなかった。だがそれは、ひょっとすれば、羨ましさというものがあっての指摘だったのではないか? 弱さを隠すことでしか自己というものを確立できなかった彼女が、弱い部分を露悪的に見せるトレルという少女へ抱く羨望のようなものが、その言葉の裏にはあったのかもしれない。
八人の仲間たちは大雑把に年少と年長、そしてその中間に分けられる。ティンクとトレルは中間組だ。ただし性格で言えばトレルは思ったことをそのまま口にする年少組に近い気質を持ち、ティンクは年少との対比として落ち着きを求められる年長組に近い気質を持つ。
近い立場で、だからこその正反対。
トレルはそう思っていたし、ティンクもそれに近いことを口にしていた。
だが、今になって気付くのは。
ちょっとした表面上のことですらろくにティンクを理解していなかった自分に、その内面までを見渡せるはずもなく。
正反対なのは自身を押し殺している上っ面のティンクのことであって。
本心の彼女は案外、自分とよく似ているのかもしれない――。
その可能性に思い至った時、トレルの足は地に縫い付けられたかのように動かなくなった。
ティンクの訴え付けるような主張が、それに対するクレイドールの薄ら寒いまでの信念を感じさせる返答が、いちいち胸を打って仕方がなかった。
ティンクの言葉に賛同しつつも、どこかクレイドールにそれを否定してほしく思っている自分がいて。
もしかしたら自分たちは愛されていたのかもしれない、とそう一瞬でも思えたときに見えたティンクの苦しむような表情が、自身の感情と限りなく一致して。
「ああ……」
トレルは息をついて、この戦いをどうこうしようという画策を止めた。
手を出せばきっとティンクは不満に思うだろうし、パラワンのことが聞き出せなくなる事態も考えられるが、それでも自分たちは任務が第一。まずは試合の勝利を目指すことが先決だと一晩明けて冷静に考えられるようになったトレルは、そうやって裏をかくつもりでいたのだが――そんな思惑が、綺麗さっぱり吹き飛んだ。
だから彼女は、クレイドールの最後の攻撃が決まる瞬間を、何もせず見ているだけに留めた。
二人の戦いは、様々な思いをぶつけ合ったこの勝負の決着は、これでいいのだと。
ひょっとしたら後から悔やむのかもしれないが、今だけは心の底からそう思えたから。
◇◇◇
「審判さん! 私たちはもう戦えません――ギブアップを宣言します」
「トレル、何を……私はま、だ……」
呻くような小さな声でティンクが文句をつけるが、それは審判の耳には届かない。トレルの宣言を受けて舞台へと上った彼は、一人一人の選手たちの様子を確かめる。まずは『ナインズ』。重傷なのはクレイドールで、クータとジャラザもそれぞれ軽くはない負傷がある――しかし彼女らは本戦にまで残った戦士たち。試合を止めさせるほどではないと審判は判断した。リーダーのナインだけは戦っていないので無傷だ。総じて一名を除けば継戦可能であると見なされる。
次に『ファミリア』。トレルは一度クータからの蹴りを受けているがそれは手に持っていた道具を狙ったものであり、また修復機能の働きによって彼女はほぼ無傷と言えるものだ。審判の目にもそう映ったが、もう一人のメンバーであるティンクに関しては違う。彼女は明らかに重傷、それもクレイドールに並ぶかそれ以上の傷を受けている。赤ではなく黒い血が彼女の全身を染め、切れているというより割れていると表現すべき身体中の傷痕、特に強烈な攻撃を受けた頭部の状態はひどく痛々しいものだ。
そして彼女は、ボロボロのままに未だ起き上がれていない。
もはや継戦などと言っていられる状態ではなく、一刻も早く治癒術師の手にかかるべきである――。
本来ならチーム全体のギブアップはリーダーだけが行える。つまりトレルにはティンクの意思を無視してチーム単位での降参を行えるような権限はないのだが、リーダーの意識が不明瞭で意思決定能力が不足、あるいは審判がこれ以上は危険すぎると判断した場合においてのみメンバーによるチームギブアップが認められる。
最初はこのルールを利用するつもりでいたトレル。あわよくばナインを幻惑させてギブアップ宣言させるつもりで、操るのが難しいようであれば意識を朦朧とさせたままで他のメンバーの口から降参を言わせて審判に敗退を決めさせよう――と卑怯だがとても有効的な策を練っていたのだ。
しかし、結果はその正反対。
ルールを利用して敗退するのは自分たちのほうになってしまった。
「『ファミリア』リーダーのティンク、重度の負傷によりこれ以上の試合続行は不可能と認めます」
「はい」
「ま、待て……待ってくれ、私、は……」
「――チーム『ファミリア』のギブアップにより、Aブロック第五試合勝者はチーム『ナインズ』に決定といたします!!」
ティンクの必死の懇願も虚しく、審判は聞く耳持たないとばかりに高らかな勝利宣言を行なった。
会場中から巻き起こる拍手と激闘への労いの声。『ファミリア』贔屓の客は悲しみながらも健闘を称え、『ナインズ』贔屓の客はクレイドールの奮闘へ特に興奮している。
その声援を聞いてティンクは――自身が勝負に負けてしまったという事実を思い知った。