第35話 ゴブリン軍掃討戦・後半(女神暦1567年5月1日/ピゾナ)
「うわぁぁぁあああ! 町の外にもゴブリンがいるぞ!?」
「戻れ! 町の中に戻れ!」
「馬鹿野郎! 町の中もゴブリン共で溢れ返ってる!」
「逃げ場はないのか!?」
荒涼とした大地に轟く絶叫。
ゴブリン達の凶刃が振り下ろされている町の中から、からくも逃げ切ったことに幾ばくかの安堵を得ていた者達は眼前に広がる絶望の前に膝を突く。
町全体を包囲する武装したゴブリンの軍勢が逃亡してきた町民達を次々に冷酷に切り伏せ、乾燥した大地に赤黒い血が沁み込んでいく。
町の外の異常を察知した兵士達も民衆を守るために外壁の中から果敢に飛び出すが、圧倒的な戦力差を前にすればどうすることも出来なかった。
大地に新たな鮮血が飛散する。
そんな光景がどこまでも続き、その場で腰を抜かす者や泣き崩れる者も続出し始める。
だがゴブリン達はそうした者達を無慈悲に狩り続け、荒野に赤黒い染みが広がっていく。
「怖いよ、お兄ちゃん!」
「畜生! 妹に触るんじゃねえ!」
「ヒヒヒヒッ! 死ね!」
足をくじいて地に臥した妹を助け起こそうとした兄の眼前に、残忍な笑みを浮かべたゴブリンが走り寄って来る。
その手に握られているのは赤黒い液体を滴らせたメイスで、所々に毛髪のこびり付いた肉片が付着している。
何人もの人間の頭蓋を粉砕してきたのかは分からないが、一切の良心の呵責に苛まれずにその凶器を振り回してきたゴブリンは新たな獲物を発見して舌なめずりし、狂喜乱舞して踊りかかって来る。
今から逃げ出そうにも、足を負傷した妹を背負っていれば追いつかれることは確実だろう。
(どうやら、ここで俺の人生は終わりみたいだな)
そう達観したように悟った少年は、泣き叫ぶ妹の肩を優しく抱き締める。
「お、お兄ちゃん?」
「大丈夫だ、兄ちゃんが付いてる」
胸の中に感じる愛おしい温もりを失いたくはない。
町の兵士達ですら歯が立たない怪物相手に自分が出来ることなど、ありはしないだろう。
やぶれかぶれで特攻したとしても、あのデカい大槌で殴り殺される未来しか想像出来ない。
だけど、妹を、大切な家族を見捨てて逃げ出すような男にだけはなりたくなかった。
足元で喀血して死んでいた兵士の握っていた剣を震える手で握り締める。
剣術を習った経験なんてありはしない。
父の畑の手伝いで鍬や鋤を握ったことがある程度だ。
しかし、無手で挑むよりはマシな筈だ。
気休め程度の武器を握り込み、全速力でゴブリンに突貫する。
「うおぉぉぉおおおおおお!」
「ヒヒヒッ、そんなへっぴり腰で何ができる! ほらよ!」
乾坤一擲の思いで放った一閃は、ゴブリンの骨ばった拳でガッツリ握られたメイスの横薙ぎの一撃でいとも簡単に弾かれ、その衝撃で手にしていた剣が手の届かない場所にカランと音を立てて転がった。
「死ねぇえええええええええ!」
腐った卵のような臭い涎を飛び散らせながら、丸腰になった少年の額目掛けて死が近づいてくる。
(ここまでか)
妹を守り通すことが出来なかったことに歯が磨り潰されそうな程奥歯を噛み締める。
妹の悲鳴を背中に受けながら、ギュッと瞼を閉じ、じきに訪れる死を覚悟して身構えた刹那、肩口を何か強烈な熱を帯びた塊が通り抜けて行った。
そして、頬に軽く炙られたかのようなヒリヒリとした熱を感じて目を開けると、
「うぎゃぁああああああ! 熱い熱い!」
手にしていたメイスを地面に放り出し、顔全体に燃え広がる火炎を消化しようともがき苦しむゴブリンの姿があった。
「えっ? 何がどうなったんだ?」
先程まで死の危機に直面していたのは自分だった筈。
だが眼前では、何度も地面に顔を擦り付けたり、両腕が大火傷するのも厭わずに顔面を掻きむしるゴブリンの姿だった。
何度も己の顔を焼け焦がす火を消そうと奮闘していたゴブリンも遂に力尽き、焼け爛れた顔を地面に伏せたままピクリとも動かなくなった。
どうやら完全に息の根を止められたらしい。
「い、一体どうなって……」
目の前の事切れたゴブリンの死体を前に呆然と立ち尽くしていると、何者かに首に腕を回された。
「うわあ!?」
まさかまたゴブリンかと思い、狼狽しながら首を横に曲げると、
「やあ、少年。身を挺して妹さんを守ろうと立ち向かった雄姿、僕は感動したよ。ここからは、僕の舞台だ」
戦場に似つかわしくないような柔和な笑みを浮かべる赤毛の少女がそこにはいた。
「少年と、そこに座り込んでいるお嬢さん。随分と怖い思いをしたみたいだけど、この僕が助けに来た以上はゴブリン達の狼藉はここで終幕だ。安全な退路を築いてあげるから、少し休んでくれてもいいんだよ?」
突然現れた謎の少女の登場に面食らっているのか、呆けた表情でキョトンと疑問符を浮かべる兄妹に軽くウィンクをすると、腕の中にいた少年の頬がほのかに紅潮する。
中々、可愛い反応するじゃないかと胸中で呟き、口元を綻ばせる。
だが、そんな初々しい反応を見せていた少年はこちらの背後を見遣ると、ギョッとした顔で切迫した叫び声を上げる。
「おい、後ろ!?」
「ああ、分かっているよ、少年。気遣い感謝するよ」
腰元に下げていた曲刀を一瞥することなく抜き放ち、自分の不意を突こうと気配を押し殺して近づいていたゴブリンの心臓を寸分違わぬ精度で一突きする。
「ば、馬鹿な……」
大きく目を見開いて最期の言葉を吐いたゴブリンが倒れ込み、一瞬で屈強なゴブリンを屠った僕の剣の冴えに瞠目する兄妹達の驚嘆の視線を浴びながら、腰元に結び付けていたランプを取り出す。
こちらの思惑が分からず怪訝そうに視線を泳がせる少年を解放し、「妹さんに付いていて」と優しく肩を押す。
少年はまだ胡乱げな視線を向けてはいたが、少なくとも一定の信頼は置いてもいい相手だと感じてくれたのか、躊躇いがちに頷いて妹の側に駆け寄った。
それを見送り、
「開錠。おいで、僕の可愛い臣下達。共に僕と戦場を駆けてくれ」
ランプの縁を優しく撫で上げると、注ぎ口の部分に変化が生じる。
空飛ぶ絨毯を召喚した時は辺り一面を覆い隠すような濃密な白煙が溢れ出したが、今回は違う。
自分の所有物を己の寝所がある宮殿の蔵から取り出す際は、物体を転送させる呪いを施した特殊な煙が噴き出すが、これから喚び出すのは蔵に眠る宝物の類ではない。
ランプの注ぎ口が徐々に熱を帯び始め、そこから軽く火花が飛びだす。
そして最初の火花が散った瞬間、注ぎ口から一斉にルビー色の火炎が噴水のように勢いよく噴き出し、戦場全体を赤く照らし出した。
逃げ惑う町民の討伐に精を出していた他のゴブリン達も虐殺の手を止め、一体何事かとこちらを見遣り、警戒心を強めだした。
だが、もう遅い。
噴き出した火炎は徐々に幾つかの火球に分散し、その火球にも変化が生じていく。
ただの火球だったそれは、四肢を備えた人間の姿に変わり、掌サイズの大きさの小人へと変貌する。
その華奢な背中には小さな四枚羽が生えていて、久方ぶりの外界の空気に気分が高揚しているのか、縦横無尽に空を気ままに飛び回る姿に苦笑する。
火精霊。
魔力を帯びた火炎から誕生する火の精霊。
その中でも人間体に変化することを可能とする程の力と権能を獲得した最上位の火精霊である僕に仕える忠実な臣下達だ。
「皆、よく出て来てくれた!」
「女王様だ!」
「女王様、お元気?」
「女王様、変わった生き物が沢山いるよ?」
「敵かな?」
「敵なのかな? かな?」
「その通り。今諸君達の前にいるのは焼却すべき悪徳者だ。火精霊の女王・アールタの名において命ず。罪なき者達を己の悦楽を満たすだけの贄としか見ていない彼の者らを灰塵に帰せ」
「「「「はーい!」」」」
幼児のような幼げな声で返事をした火精霊達は、主の勅命を拝命した途端、ピゾナの町の外縁一帯に向かって急速に加速しながら飛び去って行く。
空を駆ける無数の朱色の軌跡が大空に幾筋も描かれ、ゴブリン達はそれを呆気に取られた様子で見上げる。
だが、呑気に空を仰ぐだけの時間は一瞬で終焉を迎える。
上空を飛行していた火精霊は一気に地上目掛けて滑空し、自分達の近くにいたゴブリン達に殺到する。
とある火精霊が、腰の曲がった老人を蹴り転がしていたぶっていたゴブリンの両目を火炎の息吹で丸焼きにする。
また別の火精霊は、頑丈な鉄鎧と鉄兜で身を固めた重装備のゴブリンを炎の渦で飲み込み、急速に熱された鉄板で内側からウェルダンを通り越してただの炭の塊へと変貌させた。
戦場を縦横無尽に舞い踊りながら、無辜の民を殺し過ぎたゴブリン達の燃え尽きた遺骸が次々と大地に転がっていく。
その様子を茫然自失に見続けていた町民達だが、自分達を殺し尽くそうと意気込んでいたゴブリン達の包囲網に綻びが出たのを悟ったのか、大慌てでゴブリン達から距離を取ろうと走り出す。
動けぬ者は負傷の軽い若者に背負われ、荒縄で拘束されていた子女達が大泣きしながら両親の胸に飛び込んで嗚咽を漏らす。
僕が助けた兄妹達も、こちらが何者なのか知りたい様子で逡巡していたが、最終的には深々と頭を下げて町から離れて行った。
火精霊達は町を蹂躙していたゴブリン達を一掃する勢いだし、この調子ならゴブリン達の凶刃に倒れる者も激減することだろう。
「さてと、僕も残党狩りに参加するとするかな。……少年が無事だと良いけど」
自分が使える主の安否に一抹の不安を感じながらも、ルビー色の瞳の少女は瓦解したゴブリン達の軍勢に向かって一気呵成に駆け出した。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。
今回は火精霊の女王・アールタが参戦しました。
ピゾナの町を包囲するゴブリン軍の戦線も崩壊し、後はピゾナの町で孤軍奮闘するアレンとセレスが残っていますので、次話では彼らをメインに描く予定です。
次話もお付き合い頂けると、非常に嬉しいです。