プロローグ
日乃家に生まれた生命。
天より授かった彼女が宿してきたモノは、さらなる生命だった。
本質というのは、それを捉えた人に静かな確信と揺るぎない自信を与えるもののようです。
ときおり私は、”解った”と自慢にしていたことが、本当は物事の表面を撫ぜたに過ぎないことに気がついて、その無知さにゾッとする時があるのです。
『ひかりから百夜への日報・一冊目』より
ガタガタ、ガタガタと強い風を浴びた窓が噛み合いの甘いサッシの中で暴れて耳障りな音を立てた。
「おーい」
日乃 鉄蔵の低い声が風の起こす騒音と混じって家の中にこだました。
「おーい」
「はーい。聞こえてますよ」
鉄蔵が振り返ると、いつの間に彼の妻が立っていた。
「どうしたの?」
日乃 澄子は落ち着いた物腰で尋ねた。対照的に鉄蔵は目がきょろきょろと忙しない。
「”ひかり”はどこに行ったんだ?」
「ひかりが?」
ひかりというのはこの夫婦の一人娘だ。
「家の中に居ないの?」
「そう言ってるじゃないか!」
「そんな怒鳴らなくても」
鉄蔵は随分と焦っているらしかった。腕組みをして偉ぶっているけれど、手はどてらの端をいじくり回していて、平静を装いきれていない。澄子は情けない夫に代わって自分が落ち着かなければと思った。
「きっと外よ。あの子ってば外で遊ぶの大好きじゃない」
これには少しばかり自信があった。
「こんな天気でか?」
外は鉛色の雲が天を覆い、気温は凍えるように低い。さらにアルプス山脈を越えてやってきた空っ風で乾燥した土が舞い上がっているのが摺りガラスの窓からも窺えた。
「遊びに行くような空じゃない」
「あら、あの子、台風の時に『傘で空飛ぶ』って外に飛び出して行く子よ?」
「…」
鉄蔵は怒ったような表情で、庭に通じるガラス戸に走っていった。
しかし澄子はそれが怒っているわけではないと知っていた。核心を突かれると何も言わず表情が険しくなるのが彼の癖だった。
すっかり慣れてしまった夫のパターンに、やれやれと肩を落として彼女は夕食作りに戻った。
これで娘が見つからなければ彼は今度こそ激しく怒り出すだろう。それでも夫より私のほうが娘と居る時間がずっと長く、誰よりも娘のことを知っている自負があった。娘のどんな行動も動きも当てることが出来る自信があった。
想像通り、すぐに夫は戻ってきた。だがその顔は青かった。
澄子は”まさか”と、心臓がキュッと絞られるような気持ちになった。
「ひ、ひかりは」
澄子の口から出てきた声はかすれていた。
「…ちょっと来なさい」
澄子は鉄蔵の脇を走り抜け、飛び出すように庭に向かった。
「あ、待て!」
まさか、まさか!不安に掻き立てられるように庭に飛び出した。
庭は一面の花畑であった。赤、青、黄色、白と色とりどりの花が咲き誇っていた。唖然とした澄子は自分がいかれてしまったのだろうかと思った。
「ひかり!!」
花畑の真ん中に倒れている娘を見つけた。慌てて駆け寄ったが、娘が健やかな寝息を立てていることを確認し安心してその場に座り込んでしまった。
ここでようやく娘の周りで起こっている事態を冷静に眺めることができた。
我が家の小さい庭がほのかな発光し、暖かく穏やかな空気に包まれている。外の荒れた風は遮断されているようだ。
そして植えた覚えのない花々が咲き乱れて植物園のようである。
「どうやら、この子はとんでもない授かりものだったらしいな」
遅れて来た鉄蔵が傍に寄って、呆れた様に言った。
「ええ…」
澄子も不可思議な光景を前に驚きを隠せ無かった。非現実的だ。魔法の世界だ。
これは全てこの子がやったのだろうか。だとしたら、この子のまだ長い人生の前途にはなにが待ち受けているのだろうか。ただそれが一般的な人間の女性に用意されるであろうものでないことは明白だった。
夢を見る。
孤独と不安が心を蝕む。
怒りが涙となって頬を焼く。
込められた力が奇跡を生んだ。
「幼い記憶」
幼稚な悪意が彼女を縛る。