刻みネギ。
ネギを久しぶりに刻んでみた。
発症してからは、手の負担を減らすために薬味のネギは刻みネギを買うようにしていたが、先日、大量にネギをいただいたので久しぶりに刻むことにしたのだ。恐る恐るやってみたが、手にしみることなく刻めた。家刻みたてのネギをを味噌汁の薬味としてたっぷりとかけて味わい、当たり前のことに感謝した。
件の「すごいモノ」のおかげでずいぶん楽になり、それまでストップしていたことを症状と相談しながら再開している。先日の風呂やトイレの掃除は、夫が帰省してくる前ということもあって着手。恐ろしく汚かっただけに見事な充実感が得られた。料理にしても、揚げ物はから揚げか、「トンカツ風」に限定していたのだが、普通にトンカツを作ったり、先日のようにハンバーグを作れるようになった。から揚げにしてもそうだが、梨乃は特によくおかわりをする。たくさん作っても、きちんと翔の弁当用の分を取り分けておかないと全部食べてしまうくらいだ。ハンバーグの日は、焼いたものをお弁当用や、時間がない日の夕食用にと、サイズを変えてたくさん作って冷凍ストックしておくのだが、ストックするために冷凍待ちのものを梨乃に狙われる。市販のもののときはこういうことはめったにない。先日は帰省した夫が子供たちのハンバーグのサイズを見て「何だコレは?」と驚いていたのだが、それくらい大きなものを用意してもおかわりのためにキッチンに進入してくるのだ。「食べていい?」という声に振り返るとすでに手がハンバーグをつまもうとしている状態だ。発症前よりもつまみ食いが多くなったようだ。
体調を崩すと健康第一という言葉にしみじみとする。特にこの一年はいやというほど実感した。何気なくやっていることができなくならないと「当たり前であること」のありがたみがわからないものだ。元気な時は、それができないということは想像がつかないのだから。例えば、買い物などで支払いをするときに懐以外のところが痛むなど、想像がつかないであろう。財布からお金を取り出す時に手に痛みを感じたり、取り出したお金を相手に渡すまでのほんの数秒に痛みで手がふるふるとするなどということは考えられないだろう。
話が少々それるが、実は財布は浸出液で変色してしまい、買ってから一年半も経っていないのにすっかり色が変わってしまった。革の財布というのは何年も使っていくうちに味が出る。それを「育てる」と表現するのだが、育つのが促進されてしまい、ベリーのような濃いピンク色が気に入って買ったのだが、赤にかなり近い色になってしまった。あまりの変色っぷりに、財布の買い替えを早めることにしたくらいだ。
刻みネギにしろ、料理や掃除のことにしろ、当たり前ではないことがたくさん起こったからこその、当たり前に感謝の日々である。




