もっと存在が被るキャラクターを競わせて差別化させて昇華させろ
無限に組み立てられるのが論なのだから
人間の脳は素晴らしい、些細な違いに大きな意味や価値を、それこそ無限大に見出すことができるのだから。
個性が重視されるのは、其れゆえだ。
キャラクターは、時間をかける事によって、どこまでも伸びゆくモノだ。
特に二次元のキャラクターは強い、劣化せずに、只管に高みの理想像に至り続けるモノだ。
下位互換は失敗作として処分され、ひたすらに上位互換のみが、現実世界に生き残り続けるのだ。
もちろん淘汰圧の弱いポイント、灼熱の戦場のような研ぎ澄まされたフィールドでなければ、その限りではないが、
まあ最低限、商業の上位、同人の上位など、現実世界で自暴自棄にならずにやっていられる建設的な意欲がある場所なら、
むしろ、こういう所が無くなったなら、その時は人類が堕落して滅亡している感じだろうから、考慮の余地が不要だろう。
だが、どうしても論の組み立てには時間を要する、宇宙科学の基礎研究の地道な実験のようなモノ。
クソみたいな時間がかかるのだ。
故にキャラクターによる、意味や価値の創造力には限界性能が定義されるのだろう。
でも実際は関係ないのかもしれない、すべては。
時間さえあれば、現実世界は無上に昇華されて、いつかは絶対に特異点に至れるのだから。
もちろん、特異点に至る事を妨害する”世界の真理”の存在する可能性が否定できないのだが。
これは恐らくだが、無限大の可能性、それが世界の均衡とバランスを保つ上で肝だと捉えるのならば、
世界の真理は、可能性の分岐と相互不干渉、そしてIFにおける衝突、干渉、統合、その繰り返しなのだろうか?
つまり、果てに至る事は可能だが、果てとは至った時点で無意味と同義な価値に矮小化するのだろう。
宇宙の果てに至ったとして、至った瞬間に、その神秘的な価値が消滅するように、
すべては無限大の可能性に、今に、すべてが収束して、コンパクトに持ち運べるようにしておくのが、無限大に建設的なのだろう。
そして建設的な姿からは、ひたすらに無限大に限りなく近く、永劫に永遠に続き続ける、特異点が今なのだという真理が確実に在る。
すべては在るがままに在るだけ、だがしかし、その在る姿が、そのすべてが特異点に直結しているのならば、
全ては破綻し破滅し、完全に崩壊していることを知るべきだ。
この世は無限大に無価値で有価値だ、無限大の可能性に無限大に満ち溢れている、ただそれだけなのだろうがよ。