俺が信仰する存在率哲学、観測者のバランス調整-オールレベルコントロールと現状が維持される絶対法則-インフィニティゼロ、とかに関連した話についてえ~
さて、この世界は完全なる上位存在に完璧に支配されている。
この哲学を持つ意義とは、目に映る全てを無限に昇華させ、美しい”ナニか”を感応するに特化し、形容不明な感覚、
シックスセンスとか超感覚みたいなのを、限りなく最大限研ぎ澄ませるような気がするから。
とか言うが、ようは、この世界の不自然さを、理性的に見て、論理的に客観的に俯瞰して、そう思うってだけだが。
絶妙な難易度調整、僅かでもバランスが違えば、全てが崩壊するような、そんな危うい現象が無限にありふれている現実による。
人間が僅かでも今より知能とか肉体の強靭さ、などなど、優れてたり劣っていたり、安易にでも想像できるだろうか?
なぜ物理現象は、巧妙に維持されるのか? 自然現象は美しく、地球に限って言えば、宇宙全体から見て、その美しさは至高の位置と言えもするに過言は無い。
言っても過言はない、と言ったが、どう考えても可笑しい、この世界は管理者が存在しないと説明できない現象に満ち満ちて、むしろソレしかないと満ちて言える。
そもそも自由意思を持った人間、ソイツが配信やゲームやプログラミングや色々やっても、なぜか全くバランスが崩壊する気配がない。
娯楽とかが極限を突破して、脳が活性化しすぎて熱死、脳の使える容量を使い尽くして、限界を突破するような、人間の潜在能力をすべて開放するような感じ。
他にも科学技術が発達し過ぎて、この宇宙の真に隠されるような存在の神秘とか、
極論とか言っちゃえば、この世界が滅びるような、そんな気配が一切ないのだって、不思議すぎる話に帰着するのだろうが。
常に人生が楽しいと思えるのは、ゲームのように完璧に完全に構築されているから、と、そう神から恩領を与えられたかのように、そう俺は思えるのだ。
生まれた時から豊かさに真に恵まれ、モノも何もかもが溢れているから、本当にそう思えるのだ。
”神などいない”、そんな心境には、どうやら俺は陥っていないようだと、ここまで考察を進めて、いまハッキリと再認識できたようで、本当に良かった。
例えば俺が、戦国時代の孤児で、絶海の孤島で、握り飯ひとつも与えられないよう、そんな場所で、こんな黄昏たような心境、世界の見方、
あるいは一つの真理のような命題と向き合い、世界の解釈を完全と完璧な形で、理性的に判断するのは不可能だろうからな~。
神がいる、観測者がいる、人間は完全に完璧に管理・監督・統制されている、だから、、、
完全なる上位存在に、己の心の依存先のようなモノを向けて、預けて、全ての不安と不満から一生・無限に解放されてしまえるような、そういう心の在り方のような形だ。
無理だろう、俺は恵まれているから、その恵みを己が真にゼロから生み出したと確信できるわけでもない、できるわけがないから。
だから神が居ると思うのだ、絶対的な上位の存在が、俺に対して常に世界は、そういう風に存在率を規定しているのだよねえ~。
そういうわけで、俺は神など居ないと断言できる位に、真に恵まれた、ゼロから何かを生み出すかのような、そんな有様に憧れているし、
逆に神など居ないと断言できるような、底なしのような、絶対的な下位存在、
想像もつかない不幸、認識を絶する隔絶した世界観の、そんなスケール感に憧れるように、圧倒されている、欲している、
熱狂的に狂信していると、そんな風にあるようだねぇ。
で、ここで解釈を、論理的な理論を適用して、加工して、人間の思考として、定義できるモノがあるのが、分かるだろうか?
そう絶対的な上位存在、神は、観測者は、管理者は、無限に恵まれているのは、無限に恵まれていないのと、同義ではないかと、そう考えると、
絶対的な上位存在は、イコール、ある意味ではかもしれないが、絶対的な下位存在と、同義のところが、部分が、あるのではないかと?、そう考察が進む。
神は神など信じていないのだから、ある意味で、同義である、とかいう、そういう話であるのだ。
だから、常に絶対的な上位存在が存在する、という世界の法則は、真に上位の存在にだけは、絶対に当てはまらない、
その視点は、なんて想像を絶する、素晴らしく孤高、かのように見える、この世界で最も気高く尊い高次元存在にだけに許された規模、スケール感である。