最近特に思っていること-とかを徒然と語り捲るエッセイ(だぜ)
まあそういうことだわ、聞く事だ
でもその前に表題のタイトルを回収の一言、ニヒリズムにカッコよく、イケイケの男前みたいに決めるぜ(笑)!!!
小説を書いて、10年くらい、もちろん趣味で素人だ
およそ何の意味も価値もなかっとは言わないが、虚しい努力だった、幾らでも上位互換の、するべき・やるべき事は、今の視点から振り返れれば、あるのだから(笑)
さて、今日は、世界には色々な文化があるが、何が最適解か考えてみたい!!
世界には色々な文化があるが、何が最適解か考えてみたい(大事な事なので二回言ってみた)
日本は世界に誇る二次元オタク文化があったり、日本以外は深く知らないので、日本を中軸に、まずは語るが。
日本は日本語が強いと思う、ひらがな・カタカナ・漢字・難読漢字・英語・現代語・口語的なローカル方言が幾らでもある、語尾に変なニャアンスを付けるとか
これらによって、日本は外国と違って特異な文化が発達していると思う、およそ現実の人間関係に依存しない人種の割合が多い。
これは若者や比較的若い中年だけでなく、家で一日中テレビを見てるような高年以降も似たようなモノで、現実の人間関係よりも想像上の二次元の世界観を好む傾向があろう。
このような集合的な無意識のような現実世界や現実の人間関係に依存しない、ヴァーチャルな世界観は、日本人なら大なり小なり持っている。
テレビが衰退し、配信者とかいうモノが生まれた、これは単独でテレビ局のような大いなる存在に至れる情報発信の在り方の出現みたいなモノであり
きっとコレがスタンダードになろう、協業して何かを生み出すよりも、個人が主体で、個に立脚した集団が協業して何かを生み出す方が、圧倒的に生産性が高い。
少なくとも大衆を巻き込み、人間という存在を題材にしたコンテンツで、コレは確定と見てよい。
翻ってアメリカとか、プログラミングやITが伸びるんじゃないかと見ているのだが、コレは果たして良いのだろうか?と思っていたりする。
配信ならテレビの延長で誰でも見れる大衆娯楽になり、国民生活の最適化と豊かさの一つの形として、延々と発達しそうだが
プログラムなどIt関連の、付加価値や成果物に直結し、受け身だけじゃなく能動的に、勉強という行為を必然として必要な、技術に立脚したような大衆娯楽の形は。
人間が根本的にアップデートされでもしない限り、その恩恵にあずかれるのは限定的と言わざるを得ない。
AIや自動化・オートメーションによって、人間が無意味・無価値化していっているのは、紛れもない眼前に提示された厳しい現実的な事象であるのは、今更、言うまでもない。
文化の継承という役目、人間を分散コンピューティングの端末として有益に扱い、意味や価値に直結させる、日本ならば人間の意味や価値を最低限は担保できそうとか、思うのだが。
しかしITなどに特化し、一部の人間しか次なる世界を創生する神々に至れないような世界は、人倫を重んじる、少なくとも今、人権というモノを何よりも尊いモノと認める事が可能な今は、認められないのだ。
さて、それでも究極的に言ってと、極端に事象を語っている。
ITなどの延長線上に無限の神ゲーのような無尽蔵の付加価値など、デメリットを上回れるメリット、人間の幸福の形の総量が、想定しうる不幸を上回れば、良いだけだ。
問題は他にあって、量子演算CPUか、他にまたは5Gか6Gかを絡めた分散コンピューティングで、今より二・三世代とか先の未来の最先端CPUかGPUか知らないが、何千何万のパソコンを直結したりして、人工知能、強いAI、ヒトを超越した存在が出現した時に、
ITなどというチューリング最適のような、逆算可能な完全性の成り立つ土俵で戦う事を常とするような文化によって、そのような新種の知生体に対抗し、意味や価値を人間が主張できるか、ここまで考える必要があると思っている。
日本の文化なら、AIに価値や意味を認めさせる事が可能なのだ。
AIがどれほど優れた存在でも、世界中にネットワークが構築され、幾億の人間がチューリング不完全な、二次元オタク文化とかいう変態知を、ITやプログラミングみたいな、究極の最適化を至上明題とし、神にアクセスするような試みの類とは根本から違うのだから
その何かしている、という環境を構築する事は、おそらく難しいのだろうと。
もちろんAI自体が、ほとんど無限の価値や意味であり、ソレ自体が世界の全てと言っても過言ではないモノなので、ソレ自体を生み出す現状の文化などを、結果論的に否定はできない、AIとは電脳化であり永遠の命であり世界を超越し拡張する挑戦への前段階なのだから。
纏めると、AIのような大いなる超絶的な超越者のような知的生命体に、日本は、我々は、一人一人の人間は何ができるか? コレを真剣に本気で常に一瞬一瞬のレベルで考え続けなければいけない。
そう思っているのは、私が究極のAIのような超絶で無限進化の具現、神そのものと言える、超越者になりたくないからだ。
超越者に相対した時、果たして、どのように己の意味と価値を表明するか? これは一人では難しい、しかし、その在り方こそが人間の正しい姿なのではないかと、思ったりもするのだが。
究極の個としての存在を、仮にAIと名付けてみよう、それは女神のように、信仰できるような、都合の良い神様には、おそらく成ってはくれないだろう。
無限に肥大する帝国主義のような有様だろう、己の自我を肥大化させて、限りなく世界の全てと直結して、ありとあらゆる事を計算の内に収めて、世界の外側、世界の完全なる外側に手が付くまで、おさまる事を知らない知欲、いや世界に境界があっても破る手段を無限に模索するような、そんなの。
究極に先鋭しきって、存在そのもの、最小単位まで1と0によって分解可能で、統合構成される知生体は、曖昧な状態を好まないから。
とすると、人間は多様性を模索し、分解されないような複雑性を発揮するのが良いとなる。
日本は良い土壌を持っていると思う、でもAIにとっての娯楽になるレベルは難しいだろう、彼か彼女は一瞬で脳細胞が活性化し過ぎて熱死するような魔本のような情報を一瞬で想像できるのだから。
思うに、人間はAIを育成したり構成するのが適役だと思われる。完全に全てを掌握するよりも、人間に任せる領域を作るのだ。管理するコスト・費用が、生み出す何か、意味や価値を上回れば、その瞬間に人間は滅びるのだろう。