小説なんてのは、博識だったら、最低限、一流で書ける
プラスして、それに知識だけじゃなく、感情も乗せて、上積みされれば超一流だ。
その感情の乗せ方は、いろいろあるが、今の世界はインフレしてっからな、えらく簡単だ。
特に情報は、昔と比べて100倍以上に溢れているからな。
言語ってのは刺激的じゃない、だからこそ刺激的にとにかく書く、とにかく書く事自体を際限なく、しなきゃならない。
そして自分の頭だけの、確実にどんなシチュでも世界に対して希少価値と誇れる、独自のパーソナルな領域を創り上げるんだ。
感情が奮い立つような、そういう要素は、様々な形で付加できるんだが、以外と無限大だ。
言語というのは、無限の組み合わせで創造できるから、汎用性がハンパない。
例えば、実体験を言語にすれば、それは世界で一つだけのオリジナルには、なる。
それはそれで、それだけで人を奮い立たせる、刺激的な感情の乗った娯楽、言語小説物語だ。
他にも、刺激的な娯楽情報を収集して、それを出力する形で、物語を紡ぎ描いたりな。
まあ、言語情報よりも刺激的な娯楽、その情報を刺激的じゃない言語媒体に、上手く組み込めればいいんだ。
それで、手間・隙・技巧を凝らし、テクニシャンに作れば、10倍すごい超一流の作品の完成、世紀の傑作ができるだろう。
さて、物語に上手く真に感情を乗せるには、音楽などの刺激的な娯楽媒体を利用し、
それで情報量を上乗せすればいい、それだけだ。
観測者にとって、客観的に、情報量が多ければ、本当にそれだけで十全な世界だ。
情報の全体的な新規率が高く、世界で唯一レベルのオリジナルの情報だったら、価値がある。
難しいのは、上乗せする情報を、どう選定・選抜するか、だが。
それはそれで、逆に言えば、脳内で上乗せする情報を自給自足できれば、それでいい
物語の佳境で、脳内で、最適最大で適切な、音楽を掻き鳴らしながら、執筆すればいいのだ。
最近の、俺の新しいやり方なんだが。
小説を絵画としてイメージする、
すると高次元に客観的に見ることができる
自分が書いた小説は、思い込みや愛着による錯覚、
純粋な言語として評価が甘く、そして難しくなっていて、娯楽の多様性が際限なく、
自分の書いた自分自身だから限界値を規定しずらい、終わりが無く、総量値を掴めず、純粋な情報として精確に見れず、
結果として、面白く楽しく可笑しくする、調整や最適化が格段に難しくなるのである。
細密画のように、自らの書く小説をイメージしながら描けば、
情報の逆変換の現象が起こり、できた小説は、そのようにイメージできるモノになるのである。
例えば、ある小説のイメージが、馬鹿騒ぎしてるアニメチックな奴ならば、
初めから、そのイメージが創造できるように物語小説を描けば、当然、そのようなイメージが浮かぶ
そのような言語情報を創造しやすくなる、いろいろと捗る感じで難易度が下がるのである。
そういう技術は、蓄積され、体系化されるべきだと思うな。
俺は究極的には、卓越して博識でなくても、
技術だけで、それなりの言語知識で、人間は一流以上の物語小説とかが描ければ良いと思っている
例えば、歌い方のように、描き方、書き方も、もっと技術的なやり口、手法が、
もっともっと、上手い感じに、伝播啓蒙されていけばいいってな。
だが現実として、それは以外と難しい話なんだよ。
歌い方は、肉体的な基底、人間的に共通する根底が、実際に平均的にある。
だが描き方は、酷く精神的、脳内的な基底、人間的に多少は共通するだけの、全く別の根底があり、
特に実際に平均化されない、言語の壁は致命的だ。
日本語での書き方と、その他の言語での描き方には、そこには隔たりがあり過ぎるだろう。
日本語の美しさと、多言語の美しさは違うようにな。
代表的には、日本語の三つの硬軟さ。
ひらがなの柔らかさ、親密感、親近感、温かみ。
カタカナの鋭さ、鋭利さ、知的さ、冷ややかさ。
漢字の、硬さ、頑固さ、強情さ、無温度さ。
まあこのように、共通な共通項が少なくと、技術体系化は難しくなる。
結果として、個人個人に合ったやり方が最適解になる。
それにそもそも沢山の人に役立つ、でなければ、技術確立する意味が少なくなるしな。




