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かくしてレイアの願いはかなったのだったが、しかし新たな問題にため息をついていた。
『学びたい』といったレイアのため、家庭教師を呼ぼうとしていた父であったが、それよりも本がほしいと願った。そのために与えられた歴史の本を半ばまで読み進めて、ぱたりと閉じた。すると待ってましたとばかりに喜色をはらんだ声が、机に向かっていたレイアの背後からかかる。
「あら、もういいの?」
「ええ、あまりこんをつめてもしょうがないかとおもいまして」
そう告げるレイアに母は隠すでもなく、キラキラとしたうれしそうな顔をする。そんな顔もわが母ながらきれいだなぁ、と思いながらレイアは再びため息をついた。
新たなる悩みとは、その母にあったからだ。
弱冠四歳ながらに学びたいと言い出したレイアに、彼女は眉ひとつひそめなかった。むしろ、魔法や武術を学びたいと言い出したレイアに「そういえばうちは、武芸でのし上がったのよねぇ」と父方の家系に似たのだと喜んだほどだった。
しかし、レイアはまだ四歳。独り立ちするにはまだ早く、そして、母が子離れするのにもまた早すぎる年であった。
侯爵夫人という身分と、病弱な(と思っていた)娘を抱えている母は、なかなかそう簡単に外出することはできない。月に一度、パティスリーめぐりのためにレイアを連れて街を少しだけ散策するぐらいだ。
要するに、ぶっちゃけ暇――とこぼす母の言葉をレイアは偶然拾ってしまったのだ。
前世の記憶を持つとはいえ、レイアは今世のことも受け入れていた。それはひとえに無償の愛を注いでくれる両親のおかげであった。だからレイアは二人を信頼していたし、同じだけの愛を返したいと思っていた。
母が暇を持て余すのは、己のせいでもあるのだから、どうにかせねばと思い至ったのだ。
「ひと段落ついたのなら、お茶でもしましょう!」
そういってメイドを呼び、母は紅茶と茶菓子の用意を頼んだ。そして促されるままに、隣の部屋にあるテーブルに着いた。
さてどうしようかと半ば上の空で思案していると、いつの間にか茶器が用意され、そこに湯気を立てて紅茶が注がれた。
冷たいミルクを注いで、砂糖を少し入れて混ぜる。風とそれに息を吹きかけ、一口杭に含むと、意を決してレイアは口を開いた。
「かあさま、ふつう……いえ、ほかのこは、どのようなならいごとをするのでしょうか」
「あら」
レイアの言葉を聞いて、母は驚きを隠さない顔でカップを置いた。そのきれいに澄んだ瞳に、思わずレイアはうつむいた。
「そうねぇ、リーアよりちょっと大きな子は、経済学とかかしら」
「……けいざいがく、ですか」
「女の子だったら、ダンスとかかしら。リーアはもう少ししたらかしらね」
「…………だんす……ですか」
思わず顔をひきつらせたレイアに、母は不思議そうな顔をする。
「どうして、そんなことを聞いたの?」
「ええっと、ですね……」
母の純粋な視線に耐えきれず、レイアは口を開いた。
「どうせなら、かあさまもたのしめるならいごとをしようかとおもいまして……」
「まあ!」
子供らしくないセリフだっただろうかと、レイアの語尾はか細く途切れた。けれどもその言葉を漏らさず聞いた母は、喜びを隠さない感嘆の声を上げた。
「聞きました!? 賢いだけでなく、わたくしのことも気遣ってくれるなんて、なんて優しい子なんでしょう!! うちの子ったら本当にかわいい!!」
その親ばか丸出しの言葉に、いたたまれなくなったレイアはさらにうつむく。その言葉を投げかけられた、そばに控えていたメイドに申し訳なくなり、そちらに視線を向けると、
「本当に、お嬢様は立派ですわ!!」
諸手を挙げて喜ばんといった様子のメイドに、レイアは本日何度目かのため息をついた。
「えっと! それで! なにかいいあんはないでしょうか!」
いまだ騒いでいる二人の声に、かぶさるように大きな声を出す。
それによりようやく我に返った二人は、うーんと頭をひねり出した。
メイドも真剣に頭を抱えていた。
というのも、メイドも己が仕える伯爵家の夫人の憂鬱を心配していたからだ。早すぎる伯爵家令嬢の成長は、メイドにとっても喜ぶべきことであった。しかし、同じ女としてその早すぎる成長は、寂しいものだと共感していたのだった。
そこでふと、あるメイド仲間の話を思い出す。王都の東のとある領地では音楽文化が栄え、本来ならば下々のものが金を得るために手にする楽器をたしなむ貴族が増えているらしい。
それをメイドが恐る恐るといった風に口に出すと、親子はそろって目を瞬かせた。そして次の瞬間、そのよく似た顔をほころばせた。
「がっきですか、まったくおもいつきませんでした」
「そうねぇ、目からうろこだわ!」
そういって咲き誇る花々も霞んでしまうような笑顔を浮かべてお礼を言う二人に、メイドは頬を染めて恐縮した。
「そうと決まれば、さっそく講師と楽器をあの人に頼みましょう!!」
高らかく母が告げた宣言に、レイアとメイドは思わず拍手をしながらうなずくのであった。
―――――――
彼の宣言から三日後、レイアは感嘆とも呆れともつかない溜息をこぼしていた。
さすが、貴族ってすごい……と、カルチャーショックを受けていたレイアの目の前には、美しく光を反射する黒い鍵盤楽器――ピアノが部屋の中央に鎮座していた。
明らかに高級だとわかるそれから目をそらし、傍らでドヤ顔している父に視線を向けた。
「がっきはいいとして、こうしのかたはみつかりそうですか?」
すると得意げな顔から一変して、父は渋い顔をする。
おいでと促され部屋を共に退出すると、廊下の窓を父は覗き込んだ。
そこにはいつもならきれいな中庭があるのだが、今日は一風変わった風景を見せていた。
いくつかの椅子とテーブルが置かれ、メイドたちが忙しく動き回っている。そしてテーブルにはきらびやかな衣装を身に着けた夫人たちが、談笑をしながらお茶会を開いていた。そしてその中心には、この屋敷の主の妻、レイアの母がいた――ひきつった笑みを浮かべながら。
それを見たレイアは、似たような顔で同じく顔をひきつらせた。
あそこで行われているのは、ただのお茶会ではない。ピアノの講師を選別するためのものだった。レイアの母は少し人見知りの気があるし、レイアもレイアで厳しい講師は御免こうむりたかったので、父がこうしてお茶会を開いてくれたのだ。
だから本当は、レイアもあの場にいるべきなのだ――いや、お茶会が始まって数分は、レイアはあの場所にいたのだ……すぐに逃げ出したのだが。
おそらくあの場所では、表面上は穏やかで華々しいが、うちに毒をはらんだような怪しい会話が繰り広げられているのだろう。この家は侯爵一家であり、そして母はその当主の妻である。これ幸いとばかりに、夫人たちは母に必死に取り入ろうとしている。
もう二度とあの中心に戻りたくないと、ぶるりと身震いしたレイアは父に縋り付いた。
「果たして、本当に彼女らはピアノが弾けるんだろうか……」
胡乱な目でそう漏らした父に、これまた似た瞳を持ったレイアは同じような目をして、「おそらく弾けても『ねこふんじゃった』ぐらいじゃないでしょうか」と内心でつぶやいた。
「お、逃げるか」
その父の言葉に、レイアが中庭に目を向けると両手を胸の前で合わせて「そういえば!」と言わんばかりに立ち上がった母の姿があった。
「おや……」
レイアも内心で驚きの声を上げた。
母が一人の夫人に必死に語りかけていたからだ。