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前編

「泥棒ォ!?」


 目を丸く見開きながらラウネが叫ぶと、まだ決まったわけじゃないよ、とフィッチが答えた。彼はのんびりと珈琲をすする。反対の手には煙草があり、ゆらゆらと煙を吐き出している。柑橘系の香りがラウネの鼻をついた。

対して、噛み付く様に答えたのは頭上の妖精――サンだ。


「泥棒に決まっているわ! だって他の研究室も被害に遭っているのよ!」


 こんなに荒らされて! と、憤る彼女の言葉につられてぐるりと室内を見渡す。普段ならば適度に片付いた机や本棚は、無残にも散らばったレポートや文献で埋もれて見えない。フィッチお気に入りの花瓶は割れてはいないものの、倒れて周囲は水浸しだ。慌てて拭いた跡はあるが、表紙が紅茶色の本が駄目になっていた。


――成程、酷い有り様だ。


 ラウネがぎゅっと眉を寄せると、それを同意と受け取ったのだろうサンが、ほらね! とその場で舞った。


「ラウネも泥棒だって」

「や、そこまでは言ってない」

「何よ、怖じ気付いたの?」

「何に対してだっ」


 半眼でサンを見ると、彼女は笑いながら宙返りをした。まったく、身軽な妖精である。

 ラウネは溜め息を吐き、被害者とも言える――本当に泥棒が入ったのならば、だが――この部屋の主、フィッチに向き直った。


「で、なんか盗られたの?」

「なんにも」

「警備の奴等には……」

「言ってないよ」

「アンタなぁ…」

「無くなった事に気付かないものは、案外要らないものだったりするんだよ」

「………いや、」

「心配ない、大丈夫だよ」


 『大丈夫』を殊更強調し、これでお仕舞いと言った風に笑う。釈然としない気分だったが、なんだかんだでこの笑顔には逆らえないラウネは、大人しく引き下がるしかなかった。

 フィッチは白衣のポケットから煙草の箱を取り出すと、そこから一本引き抜き口にくわえる。顔に似合わずヘビースモーカーな彼は、様々な種類の煙草を吸う。慣れた手付きで火を点けたそれは、眠気を誘う甘ったるい香りがした。

 今まで嗅いだ事の無い香りに、ラウネは眉を寄せた。


「煙草、変えたのか?」

「一昨日、煙草屋のおばちゃんが『試供品だよ』ってくれたんだよ。来月発売の銘柄でね、仕入れるかどうか迷ってて、それならいっそ感想を聞いてからにしようって僕に頼んできたんだ」

「? 新商品なら仕入れればいいだろ」

「こういう香りがきつい煙草は僕しか買わないからね。僕が要るか要らないかで仕入れ量が変わるって言うんだ」

「あぁ、アンタ馬鹿みたいに買うもんな…」


 失礼だね、とフィッチは笑いながら煙草をくるりと回した。

 その拍子に流れてきた香りが先程の煙草の残り香と混ざり合い、鼻が麻痺した様に痺れる。むずむずとくしゃみが出そうになり、ラウネは軽く鼻をこすった。


「サン」


 ゆったりと紫煙を吐き出したフィッチは、ラウネと同じく彼を慕う妖精の名を呼ぶ。


「はーい?」

「ラウを送ってあげて」

「建前。本音は?」

「チョコレートを一箱くすねて欲しいなって」

「私にも半分頂戴ね?」

「勿論だよ」

「……オイ、本人の前で言う話じゃねぇだろ」

「「えー、盗み聞き反対ー」」

「そう来るか!」


 揃って白い目を向けられ、ラウネは肩を落とした。

 チョコレートの一箱や二箱、くれてやったところで問題はないのだが、それにしたってあんまりだろう。

言い返そうと口を開いたラウネだが、それより早く研究室を追い出されてしまった。


 * * *


 フィッチは誰もいなくなった研究室を見渡し、深く息を吐く。

 好奇心の強いあの二人の事だ、きっと遅かれ早かれ犯人探しに乗り出すだろう。


「泥棒かぁ…」


 泥棒だと思っている事、フィッチが被害者である事。それら自体には何も問題はない。ただ、その視点からでは何も解決しない事をフィッチは知っている。

 愛すべき小さな友人たちは苦労するだろうと思いながら、フィッチは煙草をくわえ直す。二人が出て行った扉を一瞥し、紫煙を吐く。教えるつもりは毛頭ないので、彼らが戻ってきたところで自分が言うべき台詞は何もない。

 煙草を灰皿に押し付けると、悲惨な室内を見渡した。

 確かに汚いが、片付けは後で良い。今やるべき事は他にある。煙草の火が消えた事を確認すると、部屋の鍵を手に取った。


「まだいるかなぁ…」


 むむ、と唸りながら、本棚から一冊本を取り出す。それを片手に、フィッチは研究室を後にした。


 * * *


 泥棒かぁ、とラウネは小さく呟いて、目線より少し上を行く妖精を見上げた。

 フィッチのパートナーである彼女は、目先のチョコレートで頭が一杯の様だ。ふんふんと機嫌良く鼻唄を口ずさんでいる。


「なぁ、その泥棒騒ぎっていつからなんだ?」


 どうやら有名――と言っていいのかは疑問だが――らしい泥棒騒ぎをラウネは知らず、説明を求めるように人差指でサンの頭をつついた。

 サンは煩わしそうにその指を払うと、くるりとこちらを振り返る。


「ちょうど三日前からね。知らないの?」

「生憎旅行に行ってたんでね」

「そう言えばそうだったわね」


 研究所内の友人に、二泊三日の旅行に誘われたのだ。

 気分転換に行って来たら、とフィッチに迷う背中を押されたのは先週の話だ。彼も誘われていたが、用事があるから、と断っていた。


「お姫はマジで泥棒だと思うか?」

「…どういう意味?」

「や、フィーちゃんの事だから部屋で転ぶなりぶつかるなりして、ああなったんじゃないかなー、と」


 サンは、ありえなくはないから困るのよね、と遠い目をしてから、でも、と首を振った。


「あの荒れ様と他の研究室もやられたって聞いたら、それ以外考えられないわ」

「他の部屋はどんな感じなんだ?」

「しっかり戸締まりした筈なのに、朝になると鍵は開いてるわ、部屋は荒らされるわで、皆大騒ぎ。警備の人も見回りを強化しているって言うけど」


 サンはそこで言葉を切り、肩をすくめる。彼女の仕草と、フィッチが被害にあったところから察するに、成果は芳しくないらしい。

 警備と泥棒の鬼ごっこだ。そう言えば、今朝すれ違った警備はやたらとピリピリしていたが、そういう理由だったのか、と今更ながら腑に落ちた。


「でもよ、研究所の入り口のチェックは厳しいはずだぜ。不審者なんてまず入れねぇはずだろ」

「そこなのよね。警備の人たちは寝る間も惜しんで入り口を見張ってるみたいなんだけど、それでも駄目なのよ。不審者は誰も来ていないはずなのに、被害は止まってないもの」


 神出鬼没、大胆不敵、狙った獲物は逃がさない―――そんな言葉が頭に浮かぶ。まるで子供の頃に読んだ物語の怪盗の様だ。不謹慎だと思いつつ、その存在にわくわくと心が躍りだすのを感じている。

 正体不明の謎の泥棒。増えていく被害者。そしてそのひとりとして選ばれてしまった友人。もとより、正義感の強いラウネが何とかしなければと思い至るまではほんの一瞬だった。

 ラウネはひとつ手を叩くと、名案だ、とばかりに笑みを浮かべた。


「よっし、俺らで捕まえようじゃねぇか」

「はぁ!?」

「フィーちゃんはああ言ってたけど、絶対何か盗られてると俺は思う」

「……それは否定できないけど、でも、研究はどうするのよ」

「そんくらいいつでも出来る。それに、このまま犯人が捕まらなかったらいつか俺のとこもやられるだろ」

「あんな汚い部屋、泥棒じゃなくても入らないわよ」

「………、とにかく。フィーちゃんの仇を取るためにも、まずは被害者とやらに話を聞きに行くぞ」

「今から!?」

「思い立ったら即行動。何事もコレ鉄則な」

「納得できるけど納得したくないわ…」

「うし、まずは誰からだ?」


 白衣の袖をまくり、気合を入れる。もちろん振りだが、形から入るのも悪くないだろう。

 ラウネにならうように、サンもぐっと拳を握る。飛ぶのに疲れるか飽きるかしたのか、そのままラウネの肩に腰を下ろした。


「被害者は二人。みんな、フィーとラウネと同じ研究室に所属していた人達よ」

「なるほどね。フィーちゃんを除いたら……あー、ジャスパー?」

「いいえ、ノットンにアルヴィーよ」

「ふぅん……なら、一番近いノットンから行くか」

「期待してるわよ、名探偵」

「抜かせ」


 肩を揺らして笑うと、サンが転がり落ちる。慌てて受けとめると、危ないでしょ、と非難と共に掌を力の限りつねられた。


 * * *


「ノットンノットンノットンノーットーン!」

「………」


 ラウネの呼びかけにも、ガンガンと荒々しいノックにも、答える声はない。

 出鼻くじかれた、と思わず舌打ちが零れた。


「留守かよ」

「……ねぇ、あとの二人にもその、…借金取りみたいな調子でいくつもり?」

「誰が借金取りだ」

「もっと紳士的に行きましょうよ。私まで同類に見られたらたまらないもの」


 腰に手を当て、こちらを半目で睨みつける妖精から目を逸らし、ふむ、とラウネは考える。ここに来る途中に会った警備を捕まえて聞いた話だが、どうやら先程話題に上ったジャスパーも被害に遭ったのだという。しかも、今朝。ついさっき、だ。


「つーかよ、二手に分かれねぇか? 紳士的かはともかく、効率的ではあるぞ」


 ラウネがそう提案すると、それもそうね、ときょろきょろと辺りを見回していたサンは同意した。おそらくノットンを探していたのだろう。

 ラウネはすん、と鼻を鳴らした。なんだか鼻に覚えのある匂いがしたのだが、


「……?」


 思い出せないという事は、気のせいだろうか。


「なら、私はアルヴィーに会いに行くわ」

「んじゃ、終わったら俺の部屋な」


 曲がり角でサンと別れると、ラウネはジャスパーの研究室へ向かう。彼の研究室は今までいたノットンの研究室とラウネの研究室のちょうど間にある。見慣れた通路を歩きながら、ラウネは腕を組んだ。


「しっかし泥棒なぁ…」


 被害者が全員顔見知りだという事は、まぁ、あり得なくはない。たとえ研究所が広いとしても、廊下を歩けば誰かに会うし、研究の方向が似ていればお互い手を貸し合う事だってある。

 しかし、それを抜きにしても被害者すべてがかつて同じ研究室に所属していた仲間同士、というのはいささか出来過ぎではないだろうか。それとも、偶然が重なっただけで、そもそも被害者同士に共通点はないのだろうか。


「………」


 被害が始まったのは三日前からだという。何故その日から、という疑問はさておくとして、どのようにして研究所に入り込んだのかを考える事にした。一介の研究者が警備に口を出したら怒られるかも、なんて思いながら。

 研究所の出入り口は、基本的に警備が睨みを利かせている。中に入るには色々と手続きがいるのだが、面倒なそれも所属している研究者ならば顔パスで済む。

 ――ならば、内部犯だろうか。


「それもなぁ…」


 確かに、研究者ならば自由に歩き回れるうえに、他人の研究室でごそごそやっていても「資料をもらいに来ただけ」などと適当な事を言えば、まず疑われないだろう。

 けれど、警備だって馬鹿ではない。ラウネが知らないだけで、きっと内部犯の線も考えているだろう。

 出来れば外部犯がいい、と言うのがラウネの本音だ。顔を知っている程度の知り合いでも、同じ志を持って研究所の門を叩いた誰かが犯人だなんて、考えるだけでも憂鬱になる。


「まぁ、とりあえずはジャスパーに会ってからか」

「呼んだ?」

「げ、」


 もやもやとした思考を消し去ろうと頭を振っていると、聞き慣れた声がラウネの背を叩いた。

 慌てて振り返れば、そこには探し人―――ジャスパーがいた。

 彼はにこにこと笑いながら、こちらに歩み寄ってくる。ジャスパーは距離感がおかしいのかと思うほど、近づいて来たので、ラウネはさっと後ろに下がった。

 ごん、と後頭部がジャスパーの研究室の扉にぶつかり、思わず呻き声が出る。


「君が俺を探すなんて珍しいね。今頃槍でも降ってるんじゃないかな?」

「だったら外行って確かめて来いよ」

「嫌だよ面倒臭い」

「………。なぁジャスパー、アンタ泥棒被害に遭ったって本当か?」


 さっさと終わらせてしまおうと早速本題に入ると、ジャスパーは、耳聡いね、と笑った。色々と気に入らないが、褒め言葉として受け取っておくかと無理やり自分を納得させ、ラウネはその返答を静かに待った。

 ジャスパーはくるくると人差指に髪を巻きつけながら、そうだねぇ、と首を傾げる。


「半分正解で半分不正解かな。確かに研究室は荒らされたけれど、何も盗られていないよ」

「は?」

「その問いから察するに、君が被害に遭ったわけじゃあなさそうだね。…と言う事は、フィーがやられたんだろう? 彼から聞かなかったのかな、『何も盗られてないよ』って」

「……………」

「ついでだから教えてあげよう。きっと君は他の二人の元へも行くのだろうけれど、彼らも俺と同じ事を言うよ。『何も盗られていない。部屋が荒らされた、ただそれだけの事だ』ってね」


 ラウネは意味が分からず、ぎりぎりと目の前のジャスパーを睨む。彼は、おお怖い、と馬鹿にしたように肩をすくめた。


「君、その顔はやめておいた方がいいよ。ジャスパー先輩からのアドバイスだけれどね、そうすると君は昔に戻った様になる。過去を隠す必要はないが、不用意に人を怖がらせてはいけないよ」


 そう言って、ジャスパーはラウネの額を弾く。じんじんと地味に痛む額は無視し、ラウネはふい、とそっぽを向いた。

 分かってはいたが、やはりジャスパーとの会話は犯人捜しよりも疲れる。わざとらしく肩を落とし溜息を吐いて見せたところで、ジャスパーは気にする素振りすら見せない。

 ラウネは視線をよそへとやったまま、すん、と鼻を鳴らした。先程からどうも、何かの匂いが鼻をまとわりついているのだ。そちらに気を取られていると、唇から勝手に言葉が零れ落ちた。


「そーいや、最近フィーちゃんに会ったか?」

「三日前に会ったよ、常にべったりの君ほどではないけれどね。それがどうかしたかい?」

「…匂いが、」

「?」

「いや、なんでもない」


 気のせいかもしれない、とラウネは首を振って質問を重ねた。


「やられたのはいつなんだ?」

「今朝だねぇ。警備の人が物凄く怒っていたよ、鍵はちゃんと閉めたのか、窓は開いていなかったのかってね。まるで俺が悪いみたいに言うのだから、ちょっといらっとしたけれど。ま、彼らもない知恵絞って頑張っているのだから今回は大目に見てあげたよ」


 ジャスパーが毒を吐くのはいつもの事なので、後半は聞き流した。ただ、後で警備に詫びを入れるべきかもしれない、とは思ったが。長年の付き合いで分かる。ジャスパーは絶対に大目に見ていないだろう。


「……本当に、何も盗られてないんだな?」

「なんなら君が確認してくれるかい? もし何か盗られていたとしても、それに気づかなければ結局俺には不必要なものだという事さ」


 聞き覚えのある台詞に、ラウネは一度瞬いた。

 ジャスパーはちらりとラウネを一瞥し、なおも言葉を紡ぐ。


「わざわざそれに神経使って騒ぐだなんて、本当警備は馬鹿らしい事に労力を使うよね」

「?」

「つまり、泥棒だ不審者だと騒いでいるのは警備だけって事さ。俺ら研究者が一番盗られたくないものは、いつの時代も此処にある。君もそうだろう?」


 ジャスパーはとんとん、と自分の頭を人差し指で叩く。


「知恵も知識もそれを動かす好奇心も、すべてはこの身の内に」


 右端だけ釣り上げた唇はそのままに、彼は言った。誰にも盗らせはしまい、と。

 ラウネはがしがしと頭をかくと、なるほどね、と軽く頷いた。なかなかに興味深い見解だが、今はそれについて論議を広める場合ではない。

 最後にひとつ、と前置きし、ラウネはジャスパーに視線を戻した。


「あんたとノットンとアルヴィーにフィーちゃん。偶然だと思うか?」


 ラウネの問いに、ジャスパーは残った唇の左端も釣り上げ、綺麗な弧を描いて笑ってみせた。



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