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ブレスユー 1

 一つの人影がある。緩やかで小高い丘の上。雑草も生えていない荒れ果てた地面で、だるそうに体を引きずっている。

 人影の進む先は暗闇だ。夜だからではない。その空を、広い広い天球を、黒く厚い雲が覆いつくしているからだ。ただの『曇り』だなどという言葉では言い表せない程の雲の量のせいで、時刻は正午に近いはずなのに、煤で汚れているかのように暗い。

 人影が歩く道ともいえない道のあちこちには、大小さまざまな水溜りがある。先ほどまで雨が降っていた証拠だろう。ただし、その色は普通の水溜りとは違い、その()()を表すように、腐ったような深緑色をしている。この世界に降り注ぐ、腐った雨の色だ。

 風が強い。人影は思わず目を細める。びゅうびゅうと吹くその風にぼろきれのようなコートを吹き飛ばされそうになり、人影は思わず目を細め、手で襟元を手繰り寄せる。強風のせいで雲の動きも速いようだ。普段は満遍なく、重厚さと共に地上に被さっている雲が、珍しいほどの強風によって偏ってきている。そのおかげか雲の覆いに薄い部分ができて、地上が若干明るくなってきた。

 漆黒から濃藍へ、群青から深紫へ。世界がその色をゆるやかに変える。

 丘の上で人影は振り替える。そこから遥か彼方に見える街には明かりはない。それどころか、遠目に見てもはっきり分かるほど破壊されている。ただの廃墟の集まりとなっている。

 数ヵ月前襲ってきた天災。人災とも言えるそれは、その称号にふさわしいほどに世界を変えた。

 世界は徹底的に破壊された。文明など跡形もなくなった。高度に成熟した社会にありがちな分業化によって、人々の英知の結晶は大半が消え去った。

 多くの人々は、自分の身に何が起こったのかも分からないままに死んだ。それこそそれまでの創造に比べるとあっけないくらいに、一瞬で、世界中で、半分の半分よりもっと多くの人々が死んだ。もしも天国なんてものがあるのならば、その一日で許容量を越えてしまっただろう。

 運よく直接的な被害から免れた人々も多くいた。だが、その人々もすぐに死んでいった。住む場所がない。食べ物がない。病気になったが医者がいない。野獣に襲われた。暴徒に襲われた。こんな状況に耐えられなかった。さまざまな理由で人は数を減らしていった。

 また、そういった類の様々な苦難に耐え、その幸運によって生き延びた人にも、救いの手が差しのべられることはなかった。国などただの幻であり、世界を救うヒーローなど夢のまた夢で、それどころか、まだまだ強大な敵が隠れていた。

 雨。通常ならば恵みとなるべき雨が、生き延びた人々の敵に回った。

 天災、『天煌』によって無数の微小な塵が空中へと巻き上げられた。それにより、この惑星をすっぽりと覆いつくすほどの大きな雲ができた。そして、それから降る雨は、如何にしてか、物を溶かし、人の神経を犯す猛毒になっていた。もちろん飲めば即死。しかも毒は体外に排出されず、蓄積する。後に()()と呼ばれるそれは、何よりも苛烈に人々を攻め立てた。

 腐雨が降り始めた途端、腐雨を凌ぐ屋根と飲み水の確保が、何よりも重要な生き残りの条件となった。

 そして、それができなくなった人影の一団は、その集団を維持できなくなった。形を崩すことになった。だから、人影はひとり歩いている。

 雲が流れる。いや、ひとつながりの不気味なそれは脈動していると表現したほうが正しい。ともあれ、分厚い雲にさらに偏りが生まれ、世界がさらに色を変えた。

 人影が何もない空間でつまずいた。疲労と空腹に限界が来たようだ。暗闇を当てもなく歩く作業は、人影の想像以上にその体を蝕んでいた。

 倒れこむ地面へ咄嗟に手をつく。その拍子に左手の小指が水溜まりに浸かる。ぴちゃり、と水が跳ね、冷たさが皮膚を刺す。

 ――不味い。

 人影は倒れこみながらもすぐさま手を引く。だが、遅かった。一瞬水に浸った左手の小指が溶けている。それだけでなく、水溜りに直接触れたわけでもない左手も痺れたように感覚がなく、もう自分の意思では動かない。その神経を侵す毒にやられたのだ。

 痛みはない。もう感じ取ることはできない。しかし、人影は、その左手を見ても無感動な自分に恐怖する。恐怖だとかそういった感情すらも億劫になる程に磨耗している。

 人影は、水溜まりをよけて座り込んだ。

 吹き続ける風によって、刃物を差し込んだかのように雲が途切れる。淡い陽の光が舞台の照明のようにあちこちを照らす。今も変わらない遥か彼方の山々も、廃墟の集まりである街の残骸も、錆びた鉄の色をしている草原も、ほんの僅かな時間だけ黄金色に染められた。

 それらをぼんやりと眺める人影の死んだような目から、一筋の涙が静かに流れる。それは悲しみだ。羨みだ。そして、言葉にできないほどの絶望だ。

 苦しいのに。人々はこんなにも苦しくて堪らないのに。世界は変わり果てていても美しくあった。

 いっそのこと死んでしまおうか、とそんな考え浮かぶ。辛いのは一瞬だろう。川か、池か、少し大きめの水溜りに身を投げるだけで、楽になれる。そんな考えが脳裏をよぎった。

 だが、人影はすぐに気付く。そんなことは自分には実行できるわけがないと。なぜなら、自分に冗談半分に「死んでみたいか」と問いかけても、返ってくる言葉は「いやだ。怖い」だけだからだ。ヒステリックな、生きていたいという理由のない衝動しか出てこないからだ。

 人影はいつまでたっても煮えきらない自分に、吐き気を催した。だが、やはり死にたくはならない。

 視線を上げ、ぼんやりと雲が流れるのを眺める。思えば、こんなにのんびりと空を眺めるのも久しぶりだった。腐雨が降り始めて以来、空は夢のある場所ではなく、悪夢を与えてくる敵でしかなかったから。

 どこからかぶすぶすと音がする。気付けば分厚い綿を縫いこんであるズボンが発熱している。湿った地面と直に接しているズボンが溶けているのだ。

 だが、それに気づいても人影は行動しない。ただただ、再び翳りを帯びてゆく世界を眺めている。

 山吹。赤橙。紅緋。深紅。葡萄。黒鳶。烏羽。黒――。

再び、その世界が闇色に染まり、それと共に瞳を閉じようとした人影に、どこからともなく声がかかる。

「そこの君。大丈夫か?」

 救助隊? 人影はそう思い、ありえないと一蹴する。親切な人? そう考え、すぐにそういった人種は真っ先に死んだことを思い出した。あるいは次第にそうではなくなっていったことを、思い出した。やはり、ありえない。

 幻聴だと、そう結論づけて目を閉じようとした人影の視界に、一人の男が現れる。

 その男は奇妙な風貌だった。血色の良い肌と、それに似合わない濃い隈。髪は伸び放題の箒のくせに、あごひげはきっちりと剃っている。ひょろりとした体躯は妙に――いや、ありえないほどに小奇麗な衣服に包まれ、その輪郭を形作るのは丈の長い白衣。焦げた木材のような色をした手袋と長靴を身に纏い、なんと傷ひとつない眼鏡までかけている。

 変だ。

 暗くて表情は見えない。ただ、白い歯と赤い舌を見せて、その男は言った。

「大丈夫か?」

 と。

 再び、そう言った。



 騨レ伽埜2ッ悸



★月△日

 星見の丘で子供を拾った。いや、まだ幼子といったほうが正しいだろうか。最初見つけたときはまたあの暴徒の類いかと思いしばらく観察していたが、特に妙な行動はしていなかったので接触。話を聞く限り、どうやら、ただの行き倒れらしい。

 つい助けてしまった。贖罪など、できるわけがないと知りながら。

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