ライブウェランド・リブフォーエバ
年の頃が五十に差し掛かると、ただ生活しているだけでは健康を維持できなくなる。体のあちこちにガタがきて、頻繁に不調を訴えたり、ちょっとしたことでけがをしたりする。おまけに一晩ぐっすりと寝た程度では疲労も抜けきらないこともある。これには参ってしまう。
だからブライト・揺島は毎朝ランニングをしている。小さな町内をゆっくりと一周するくらいの軽いものだが、それが老化を食い止めると信じて、毎日だ。
「おはようございますぅ」
「あ、おはようございます」
動きやすそうな金色のジャージを着た老女と遭遇した。狭い町内だけあって歩いたり走ったりするのに向いている道はそう多くはなく、似たような目的を持っていれば必然的に遭遇するのだ。そして、何度もあっていれば挨拶くらいはするようになる。
老女は髪を藤色に染めている。金色のジャージはラメでも入っているのかキラキラ輝いている。いつ見ても目に眩しいほど派手な姿だ。鮮やかなライトグリーンのティーシャツを着ているブライトの言えた台詞ではないが、この老女に会うたびに、もう少しまともな服はなかったのか、という純粋な疑問が湧き上がる。
軽く走っていたブライトは速度を落とし、速足ではきはきと歩く老女に並んで世間話をする。
「今日もいい天気ですね」
「まったくですよぅ、今年は水不足が不安だわ。それに、この調子じゃあ、あの、なんていったかしら。てん、てん、天気雨?」
「天煌ですかね」
「そう、それだわ! それがそろそろ起動してもおかしくはないんじゃないかしら。ワタクシあまり詳しくはないんですけど、たしか晴れてないと起動しないんじゃありませんか?」
「そうらしいですね。この調子だと近日中には危ないかもしれません」
「あらー、怖いわねぇ」
「まったくです」
死屍司教の犯行声明と、フームード連邦政府の公式な死界級災害宣告から四日。その人災に対して各国も様々な努力を尽くしたが、テロがあったり戦争が起こったりで結局陣の破壊までには至らなかった。だから、現在人類は存亡の危機にさらされている。
幸いなことにこの三日間は雨が降り続いていたのでまだ起動してはいないが、いつそうなるかは時間の問題だろう。
分岐路での道の選択が分かれたので、じゃあまた、と挨拶をしてブライトは再び走り出す。老女もほほ笑みながら会釈をすると、いちに、いちに、と掛け声をかけながら去って行った。
そうしてまたしばらく走っていると、今度は道端にしゃがみ込む青年に出会う。
「お。おはざーす。これは丁度良いところに会いましたっすね」
「おはようございます。何か用事でしょうか」
「ええ。ええ。まあ、仕事というかなんというか、そういった感じであるんすけど」
この青年は二日前にこの村に行商に来た人だ。が、商品の売買を済ませいざ帰ろうかという時に、山間部にあるこのエンダ町と外部をつなぐ道が長雨によるがけ崩れで通れなくなってしまい、帰るにも帰れなくなった間の悪い商人だ。仕方ないので現在は町長の家に居候しているのだが、そんな彼がブライトに用があるという。
「いやー、僕今仕事ができないじゃないっすか。だけど、だからと言って真昼間からぐうたら寝ているだけというのもつまらない。ってわけで荷物の整理をしていたんすけど、そうしたら魔法屋からあなた宛ての荷物を預かっていたのが転がり出てきまして、これはしまった届けなきゃいけないと慌ててあなたの家に向かっていたところだったんですよ」
「はあ、なるほど。しかし、その割には急いでいるようには見えなかったのですが。あ、いや、嫌味ではないですよ」
「いえいえ、気にしないで全然オッケーっす。忘れてしまいこんでいた僕が悪いんすから。……ちなみにこんな道端で座り込んでいたのは、面白い花が咲いていたので、つい」
そう言って青年は立ち上がるとブライトに小包を渡し、ぺこぺこと謝りながら去って行った。おっちょこちょいではあるが気の良い青年だった。
青年の話によると、都市の方では暴動が起きているがそれを抑えるための人たちが足りず、半ば無法地帯と化しているらしい。恐怖により人心は荒み、強盗や暴行といった犯罪は氾濫し、暴力団のような組織が幅を利かせている。終末系の漫画の中のような有様らしい。
この町のあまりの平和さから、ブライトにはその出来事にあまり現実味を感じられない。だが、そうなってしまう人の心は、十分に理解はできた。ブライトだって同じように周囲に狂気が満ちた時、そちら側に行かないという自信はないからだ。
さらさらと流れる小川の横を走る。うなじを焦がそうとするかのように元気を出してきた太陽の光をきらきらと反射する小川は涼やかで、あと三十若かったら迷わず飛び込んでいただろう。
道を挟んで小川の反対側にある背の高い草花の生えた畑からガサガサという音がし、そこから皺だらけのよく日に焼けた老人が顔を出す。
「おや、今日も走っているのかい。若いってのはいいのう」
「いや、僕も年ですよ。最近、肩こりと腰痛がひどくて」
「なに、まだわしの半分も生きてないじゃろう。まだまだ若いわい。羨ましいのう」
「ははは、敵いませんね」
話によるとこの老人は齢百を超えているという。だが、ブライトなんかとは比べ物にならないくらいパワフルで、その証拠にブライトがこの道を通る時は必ず畑で汗を流している。おそらく毎朝日も昇らぬうちから畑仕事をしているのだろう。
そのことを指摘してみても、年寄りは朝が早いからの、と返されるだけなのでブライトは苦笑するしかない。
「おお、そうじゃ、この野菜を持っていきなさい。この前の大雨でよく育っての」
「わあ、いつもありがとうございます。ほんとに見事な野菜を育てますね。店頭に並ぶ形の綺麗なものより、こちらの方が断然美味しいですよ」
「なに、人間も野菜も多少は捻くれていた方が味があるんじゃよ」
「ははは、そうかもしれません。ただ――僕もひねくれ者なのですが――私の場合、学生時代は苦味ばかりでしたよ」
ブライトは老人に礼を言い、走り出す。と言っても、ここまで来たらもう家は目と鼻の先なのだが。
他の街ではこんな時にはこんなくだらない会話はできないだろう。
だがこの町にいるのは、どこか浮世離れした夫人だったり、いろいろと抜けている青年だったり、何事にも動じない好好爺だったりする。達観した学生だったり、厭世的な富豪だったり、敬虔な教徒(もちろん死屍司教ではない)だったり――家族を愛する心優しい写真家だったりする。
そういう人々が集まってできた他より特別に平和な町なのだ。
そうこうしていると、ブライトは我が家に辿り着く。
「ただいマンゴラドラ」
ブライトはいつものように玄関の扉をくぐった。
「あら、おかえりなさい」
「おかえり―」
入ってすぐの部屋にいたのは、ブライトの愛する妻と娘。妻のルコは台所で朝食の準備を、娘のリンは居間の床でストレッチをしている。
ブライトはベーコンの焼けるいいにおいを嗅ぎながらもらった野菜を机に置き、音声放送収集器をつける。そして椅子に座って内容を聞き取ろうとするのだが、流れてくるのはザーザーという雑音ばかりで、人為的なものは何も聞き取れない。
「ふむ、相変わらず首都の方は機能してないようだね」
「そうねぇ、新聞も届いてないし、そうみたいね。……あら、またお野菜をもらったの? やっぱり、今度しっかりお礼をしにいかないと」
何がいいかしら、とフライ返しを持ったまま考え始めたルコをよそに、ストレッチを終わらせたらしいリンが机の野菜を見て顔を輝かせた。
「あー! うどんげじゃん、そっかもうこんな季節かーこれ大好きなんだよ、食べていいよね、いただきます!」
「それは僕も……ま、いっか」
その白い根菜はブライトも好きなのだが、口をはさむ間もなくリンがかっさらっていく。五本あったうどんげの内、三本が一瞬で持って行かれた。
残る二本のうち片方を手に取り、ブライトは食べようとするが、
「僕も、いただきま」
「あら、これはみんなの分ですよ」
気付いたらルコに二本とも取り上げられてしまっていた。
精一杯の笑顔を妻に向けるブライトだが、にっこりと逆に微笑み返される。その変則的なにらめっこに勝ったのは、やはりというべきかルコだった。
ブライトは意気消沈しながらも、雑音を垂れ流す音声放送収集器のスイッチを切った。
「はい、できましたよ」
「むほっ、ほっほまっへ、あお、うん……あー美味しかった!」
揺島家の食卓である長方形の机の上に朝食が並ぶ。パン、ベーコン、スクランブルエッグ、ブライトのもらってきた野菜と、たっぷりの水。普段と全く変わりのない朝食だ。
そして、そのまま席に着くとともに食事を始めようとする妻と娘に対して、ブライトは疑問の声を上げる。
「あれ、ミホシはどうしたんだい?」
ミホシはブライトの息子。リンの弟。揺島家の長男だ。揺島家の朝食の時間は決まっておらず、料理と家族が揃えばすぐに食べている。しかし、まだミホシが二階の自室から下りてきていない。なので、いつもなら呼ぶか待つかするはずなのだ。
そんなブライトの疑問には、口の端にうどんげの食べかすをつけたリンが答える。
「ミホシはねー、今考えているところでわかんないところがあるからって、山卸さんちに突撃したっぽいよ」
「またかい? 分からないところをほっとけないのは仕方ないとして、もう少し時間を考えるようにしないと。まだ六時にもなってないんだよ」
「絶対に天煌起動までにロジックを解明してやるっ、って息巻いてたよー。ねえ、あの子ってひょっとして天才? 私は天才のお姉ちゃんになっちゃうの? やだー、恥ずかしい、インタビューとかきたらどうしよう。テレビデビューだよ」
「あの子は研究者肌なのよねぇ。しかも、分からないことが絶対に耐えられないタイプの」
「まったく、誰に似たのやら」
「お父さんでしょ」
「あなたじゃないかしら」
「……僕だね」
少しの沈黙の後納得したようになずいたブライトは、既に食事を始めていた女性陣に続いて朝食を食べ始めた。
リンは先ほど丸三本も食べたにもかかわらず、切り分けられたうどんげを大量に自分の皿によそう。その様子をものほしそうに見つめるブライトの視線には気づかない。
未練たらたらなブライトの様子に気づいたのか、リンはブライトの方に目を向けた。少し分けてくれるのか、と心躍らせたブライトだったが、リンの焦点はブライトの皿の横の小包に向けられていた。
「んんん? お父さん、なーにそれ」
リンが指差すのは商人の青年に渡された小包だ。
「あー、なんだろうなぁ。いろいろと注文はしてたから、どれが届いたのかわからないよ。多分、アレだと思うんだけど」
世間の混乱のせいで世の中の様々な物事が滞っている。郵便配達などそれの最たるもので、何が届いたかなどさっぱりわからない。
だが、それをもったいぶってると解釈したリンは顔を輝かせる。
「なになに? なんか面白いもんでも注文したの? ね、ね、今開けてみてよ」
「今ご飯食べてるところでしょう? 後にしなさい」
「いや、いいよ。僕も気になるし、開けてみよう」
ルコからの制止がかかるが、ブライトも気になっていたので開けてみることにした。ひょっとしたら中身は、ブライトが待ち望んでいたものかもしれないからだ。
「魔法屋からって言ってたから、もしかしたら――」
ブライトはガサガサと包み紙を破く。食事中なのでルコは軽く顔をしかめるが、スイッチの入ったブライトを止めることはルコにもできない。ルコはさっさと諦めると、その中身へと思考を切り替えた。
紙袋を破き、緩衝剤をほどいて、薄い防水性の布を取り払う。そうして出てきたのは、大人の男性が片手で掴めるほどのサイズの直方体の物体だった。
外面は黒くて艶があり、繋ぎ目がほとんどない。直方体の一つの面には四角い小窓、その反対側には丸いレンズがついている。押しボタンらしきものもいくつかついていた。
紛れもなく、ブライトが待ち望んでいた魔道具だ。
「あー! お父さんまた新しい画像記録器買ったんだ! また目的も忘れて衝動買いしたんじゃないでしょうね!」
「これは父さんのお小遣いで買いました。ね、母さん」
新しいものに目がないブライトは、ちょくちょく仕事道具を買い替えている。それが自分のお小遣いの範囲ならば良いのだが、以前おつかいの最中に衝動買いしたことがあったので、それ以来家族内での扱いはこんな感じだ。
ブライトの声にルコは頷くが、リンは非常に不満そうだ。
「画像記録器ならまだ新しいのがあるじゃん」
「ふふふ、これはただの画像記録器ではないのだよ。なんと、つい最近軍からおろされたばかりの一級品! 耐熱耐圧耐衝撃だけでなく保存用の固定陣も刻んであり、静止画だけでなく動画も撮れる優れもの。その名も、映像記録器なのだっ」
水平にした手のひらに映像記録器を乗せ、お得ですよ、とばかりにポーズをとるブライト。ルコはそれをにこにこと眺めているが、リンはやや呆れ気味だ。
「またそんなんなんだねー」
「おや、意外と冷静な反応」
「いっつもそんな感じだからね。しかも半分くらいは騙されてて偽物だし」
「これは大丈夫。信用できる業者から極秘で横流……おっほん」
「それ危ないパターンじゃん」
リンからのつっこみは聞こえないふりをするブライト。やましいことをしているという自覚はあるのだろう。
「てゆーかお父さん、仕事は?」
「してるさ。次の撮影に向けての骨休めを」
じっとりとした視線を娘から受けるが、ブライトは全く気にしない。ルコはそんな二人をにこにこと眺めている。
和やかに食事をする三人。おしゃべりをしながらも食べ続けていたリンはその中でもいち早く食べ終わり、両手を上にあげてぐっと背伸びをする。
「あー美味しかったー! よし、じゃ、町内の平和を維持するために行ってきまーす!」
「あ、リン」
「一人では行動しない。危ないと思ったら逃げる。無茶は絶対にしない。分かってますよー! 危ない目にあったことなんてないけどね!」
「リ」
「大丈夫。今日はピクニックなんでしょ? 十時までには帰ってくるから!」
バタバタと騒々しく家を飛び出してゆくリン。ルコの言葉もブライトの言葉も途中で遮っているが、しかししっかりと内容は把握している。
「あの慌ただしさはあなたに似たんでしょうね」
「あの元気の良さは母さんに似たんだろうね」
そう言って仲の良い夫婦は顔を見合わせて笑うのだった。
「こんにちは、ブライトさん、ルコさん。お話はいろいろと聞いています。すみません、家族水入らずの邪魔をしてしまって。リンが、じゃなくて、リンさんに拉致、じゃなくてリンさんに誘われたので……すみません」
申し訳なさそうに頭を下げる青年に、ブライトは完全にフリーズしていた。
晴れたら家族四人でピクニックに行こう、という計画を立てていた。動きやすい運動靴に長ズボン。シャツの上に上着を羽織って、日焼け対策に帽子を用意。弁当水筒ブルーシートと見晴らしの良い丘の上でさわやかに昼食をとる。そんな予定を今日決行する予定だった。
しかし、予定は未定。思わぬところでその計画に妨害が入ったわけだ。
「えーっと、彼氏。ミキヤ。一応将来の家族候補だから連れてきた」
照れくさそうに頬を染めながらの紹介と共に、言ってて恥ずかしくなったのかミキヤの背中をど突くリン。自分で言っといて結構精神的なダメージを受けているようだが、それよりも家族の衝撃の方が大きい。
驚きに目を見開き、口に両手を当てているルコ。麦わら帽子のつばの下から遠い目をしているミホシ。そして、本気で怒り狂っているときのような無表情のまま固まっているブライト。
がさつでそこらの男どもより男らしいリンに恋人がいることは、家族にとっては青天の霹靂だった。
「あの……ブライトさん、大丈夫ですか? やっぱり邪魔なら、帰りま」
声をかけられてようやく再起動したらしいブライトは、表情はそのままにミキヤの両肩をガッと掴む。それは特に乱暴な動作ではなかったが、表情が表情だけに迫力がある。
「よそよそしいな。お義父さんと呼びたまえ」
え、と表情を緩めるミキヤ。やはりリンの家族なのか、と安堵しかけた瞬間、続いて言葉を振りかけられる。
「そう言ってきた馬の骨をぶん殴るのが夢だったんだ」
「やめい!」
「やめなさい」
笑顔を凍りつかせるミキヤを守るようにリンのチョップが脳天に落ち、ルコの手刀がわき腹に入る。うごあ、とブライトは悲鳴を上げてよろめくが、誰もブライトの心配はしなかった。
その様子をじーっと眺めていたミホシが、ぼそりと爆弾をぶち込む。
「……お義兄さん」
フリーズするブライトと顔を茹で上がらせるリンを元に戻すのに、また少しばかり時間がかかったのだった。
結局ミキヤを加えた五人で山を登り始める揺島一家。そうして、一家のピクニックは始まった(ミホシがブライトにお前は? と聞かれ、数式のびっしりと書き込まれた紙を取り出したことは余談である)。
山登りとは言っても、片道二時間もかからない行程。ちょっとした丘を登るといった方が正しいかもしれない。山頂からは村を一望できるので、そこで昼食をとる予定だ。
リンがぎゃあぎゃあ騒ぎながらミキヤを引っ張り回し、ミホシは無表情のまま自慢げにルコに花の解説を聞かせている。時々リンがルコに飲み物をねだっては、ミホシとミキヤが何やらこそこそ相談している。ブライトは一人、一歩引いた場所で映像記録器を回している。
「ねえねえ、これなんて言う花? ただの雑草? あ、今なんか虫がいた、虫! 捕獲する? 食べる!? から揚げにしよう! と思ったけど油がない!」
「姉ちゃんはね、基本的に自分勝手な姫様タイプだから、一番近くにいる人に被害がくるんだ。だから大変かもしれないけど、頑張って。うん、僕は応援してるよ。……どんまい」
「あらら、お義母さんって呼んでくれてもいいのよ? こんなに大きな息子がいきなりできちゃうなんて、人生は不思議なものねぇ。あら、ってことはミホシが頑張れば可愛い娘がいきなりできちゃうのかしら? それはいいわね。できればおしゃれの話をできる娘がいいわ」
「ええ、あはは、そうかな。ところで、今どのくらいですかね。ええ、ちょっと疲れてきてしまいまして。これでもリンに、リンさんに振り回されて体力はついてきたと思うんですけど、昔から運動は苦手で」
「あ、霊芝だ。これ美味しいんだよ。とってこ。え? 毒々しい? これはこーいう色なんだよ。いいじゃん、栄養価が高くて脂肪分は少なくて、頭痛肩こり痛風何でも聞いちゃう万病の長」
「ね、ほら、私の弟も中々やるでしょ! こいつこー見えて頭がいいんだぁ。いつも宿題手伝ってもらってるし、ミキヤに教えてもらうようになるまではテスト勉強教えてもらってたし、一家に一台ミホシだよー」
「ねえねえ、リンのどんなところが気に入ったのかしら。お義母さんとっても気になるわ。なれ初めとか教えてもらえるかしら。進展も知りたいわ。どうなの? もうキスぐらいしたの? この子大胆なくせにうぶだからひょっとしたら手もつないでないんじゃないの? って流石にそれはないわよねぇ」
「父さん、これ何。今気づいた。また新しいの買ったの? 無駄遣いはよくないって、いつも母さんに怒られてるはず。学習しないの?」
「あらあら、あなたそんなに私ばかり映さなくてもいいのよ。恥ずかしいからって自分を映そうとしないのは、写真でも映像でも変わらないのねぇ」
「えー、あー、その、何でしょうか。いや、目つきが怖いというか……ブライトさん、怒ってますか? いえ、すみませんすみません」
「父さん父さん、撮ってる? 撮ってる!? いえーい。ヤッホー。これを見てる誰か、元気ですかー?」
ブライトは何もしゃべらず、ただ映像記録器を回し続ける。その間も絶えず五人は歩き続け、風景は変わり続けた。
歩き始めて一時間と四十分ほど経過した頃、五人はようやく目的地に着いた。
四人は空腹を訴えるリンにせっつかれて早速食事の準備を始める。弁当は元々多めに作っていたし、ブルーシートも詰めれば一人分くらいのスペースはできる。なので、突然参加したミキヤも居づらい思いをせずに済んだ。
ところが、さて食べ始めようとルコが弁当箱を取り出したとき、リンは疑問の声を上げた。ブライトが弁当のふたにおにぎりとおかずをとるなり、自分たちとは少し離れたところへと離れていったからだ。
「あれ? 父さんはこっちに座らないの?」
ブライトはおにぎりを一つとると、ちっちっ、と指を振りながら言う。
「父さんには皆を撮るという大事な役目があるので、少し離れた場所に居なければいけないのです」
「えー、何それ」
「まさか、仕事? だったらやめて。顔出しはNGだから。先に事務所を通して」
「あの、カメラだけそちらに置いてこっちに来たらどうですか?」
「まったくもう。恥ずかしがり屋さんなんだから」
リンとミホシはもくを言うが、ブライトは曖昧に微笑んだまま答えない。恐る恐るといった様子で誘ってくるミキヤに対しても同じだ。それを見たルコは笑いながら溜息を吐き、諦めたように首を振った。
映像記録器を構えたまま、続けろ、とでも言うように手を振るブライトに、四人は結局そのまま食事を始めた。
天気は晴れ。背景である空の所々には白い雲が浮かび、遠くに連なる山々は命の季節に相応しい鮮やかな色合いをしている。今居る丘の端によって下を見下ろせば、すり鉢状の谷底にある自分たちの村が見えるだろう。いつものように営みを続けている人の姿も、見えるだろう。
空よりも青い敷物。大きな弁当箱。笑いあう家族。明るすぎて眩しい風景と、帽子のつばによって影のできている目元。
ブライトは、談笑しながら弁当を食べる四人を、たまにアングルを変えながら映し続ける。おにぎりを頬張り、から揚げを口に入れ、漬物を加えながら、黙ったまま映し続けた。
猛然と料理を書き込むリンの勢いが収まってきたころ、お腹をさすりながらミキヤは立ち上がった。
「ああ、もうお腹いっぱいです。僕はもういいです」
「あら、まだ食べていいのよ? 余った食べ物はリンのお腹の中に納まるだけなんだから」
「いえ、僕ももう十分すぎるほどに食べました。とても美味しかったです。ありがとうございます」
そう言って、そんなんだからひょろいんだよ、というリンの言葉を笑いながらごまかすと、映像記録器の邪魔にならないよう画面外へ移動した。
ミキヤは映像記録器を岩の上に固定して少し離れたところで伸びをしているブライトの方へと近寄る。
「ブライトさん」
「……どうしたんだい」
にこやかに微笑んで対応するブライトに、ミキヤは申し訳なさそうに謝罪した。
「あの、本当に今日は邪魔をして申し訳ありません」
それを見てブライトは苦笑する。自分の娘が選んだ相手なのだから大体の予想はついていたものの、ミキヤが想像以上想像以上に良い子だったからだ。
「ははは、大丈夫さ。僕はそこまで気にしてないよ。まあ、リンの恋人と聞いて驚いたのは本当だけどね」
「ですが」
「最初のは少し混乱しただけさ。照れ隠しだよ照れ隠し」
ブライトは手を振りながらにこやかに微笑む。そうは見えなかったぞ、と突っ込むことはミキヤもしない。ブライトがそう言うならば、そういうことだったのだ。
ブライトが無言で差し出してきた手を握り返し、ミキヤはそこで初めて緊張を緩めて笑った。
弁当を食べ終えて片づけを始めている三人からさらに一歩離れ、遠くの空を眺めたながら、ミキヤに背を向けまま、ブライトは問いかけた。
「君に一つ聞いておきたい。君は、死ぬのが怖くないかい? ……違うな、天煌を、これから起こる災害を、どう思っている?」
そのあまりにも唐突な質問にミキヤは目を見開く。そして、何を考えているのかとブライトを凝視するが、ブライトは背を向けまま何も言わない。ミキヤの答えを待っているのだ。
ミキヤは正しくその意図を理解する。その言葉はつまり、試験なのだろう。ミキヤがどのような人物なのかを、その質問で見極めようとしているのだ。間違えることはできない。
ありきたりな言葉でごまかすか。聞こえの良い言葉を吐いてみるか。そんな選択肢がミキヤの頭をよぎる。しかし、ブライトの声の底にある本気に気付いてしまえば、そんな選択肢はすぐに消え去った。
ミキヤは自分の心の中にある本当を、ゆっくりと吐き出す。
「……人っていつか死ぬじゃないですか、絶対に。皆それは知っているはずでしょう、たとえば小さな子供でも。今回の件はただ、大勢の人の死、いつか来る時期が一斉に訪れるだけです。それを事前に知ることができただけ。だから、特別なことと言ったらその二つだけです。つまり、そこまで特別なことじゃないんです。ああ、もちろん、死ぬのは嫌です。ですけど、最後の瞬間がいつ訪れるかわかってて、それまでの時間を、そのときを、好きな人と一緒にいれるっていうのは、やっぱり結構幸福なことだと思うんです。まだ死ぬ準備はできてないし、まだまだ生きていたいけど、これって結構幸せだと思うんです。これは世間の人からはずれた考え方なのかもしれないけれど、けど、僕はそう思うんです」
ミキヤは一息にそれを言い切る。ブライトは黙ってそれを聞いた。
ブライトはその言葉を吟味するよう顎に手を当てる
そして、長い長い無言の後、短く。
「そうか。すまない」
とだけ呟いた。
本当に悔しそうに、そう呟いた。
そのあまりにも辛そうな反応に、ミキヤはひどく驚いてしまう。なぜなら、この家の人々は今の事態を理解できていないのではないかと思うほど穏やかで、そんな負の感情とはまるで無縁の人だと思っていたからだ。
しかし、すぐにミキヤは自分の間違いに気づく。ブライトがたとえどんな人であろうと、ブライトは父親だ。リンとミホシの姉弟を、大事に大事に育て上げた親だ。だから、子の心配をするのは当たり前だということに、今さらながら気付いた。
「あの、ブライトさんは、怖くないんですか」
気づいたら、そんな質問がミキヤの口から飛び出していた。
ブライトは驚いたように眉を上げた後、優しい顔をして逆に問い返す。
「人が死んだら、いったい何が遺ると思う?」
「……魂、とか」
ミキヤ少し口ごもった後、いつものリンとの会話のように思いついたことをそのまま言う。すると、ブライトには鼻で笑われてしまった。
「君はロマンチストだね。私の娘には日頃から馬鹿にされていないかい? そんなもんじゃないさ。もっとはっきりとしたものだ」
まるで自分たちの様子をのぞいていたのではないかと思うほど正確な指摘に、ミキヤは顔を赤くする。そして、その赤さを振り払おうとするように頭を振ると、ブライトの目を真正面から見つめる。
「じゃあ、何ですか?」
「決まってるさ。肉と、皮と、骨と、血と」
足、腰、原、胸、と、ブライトは自分の体を順番に指差すと、最後に自分の頭を指して言った。
「記憶だ」
その言葉に、ミキヤは様々なものを感じた。
驚きと納得。喜びと嫌悪。ブライトの仕事への誇りと、それに対する憧れ。――そして、死への恐怖。
ブライトの目は、ミキヤが見た人々の中で、最も本気の目をしていた。
「それは名誉であったり、汚名であったり、功績であったり、罪であったり、子供であったり、創作物であったり、人によって様々だけど、それこそが後の世代まで残るものであり、その人の真に生きた証しだと思う」
少し離れた場所で今も役目を果たし続けている映像記録器を指差す。
「その記録器はね、現役の軍用なんだ。ありとあらゆるものから中の情報を守るよう設計されている。そして、それに加えて強度を上げるように個人的に色々と手も加えている。どんな災害がきても、この記録器は壊れない」
だから、とも、つまり、ともブライトは言わなかった。
「さあ、リンが呼んでいる。早く行ってあげてくれ。じゃないと私が怒られてしまう」
ただ、そうやって苦笑をして、ミキヤをしっしと追い払った。
食事を終えたミホシがブルーシートを畳もうとして持ち上げ、リンがそれに飛び込むことで邪魔をしている。二人は口論を始めるが、結局ミホシが渋い顔をして譲っている。ルコはそれらを楽しそうに眺め、そこに困ったような顔をしてミキヤが近づいて行く。それに顔を輝かせるリン。ふくれっつらのミホシ。やはり楽しそうなルコ。くすぐったそうなミキヤ。
それを、やや離れた場所から見守るブライト。
世界はもうじき滅ぶという。
人々はもうすぐ死に絶えるという。
しかし、それでも笑うことを止めない人々の。
そんな、幸せな休日。
強い日差しから守るように片手を額に当て、前方で戯れる家族を眩しそうに見つめる。
「うむ、絶景なり」
ブライトは満足そうにそう呟き、回しっぱなしのカメラの画の中へとゆっくりと入って行った。




