再会
一瞬にして窓が勢いよく開かれ、維心がその部屋の床に降り立った。険しい顔で維月の腕を掴むと、維月が袿を着ていないのに目を止め、そして、腰ひもが少し緩んでいるのを見て取った。
「…主」維心は食いしばった歯の隙間から、唸るように言った。「よもや間違いがあったのではあるまいな!!」
その剣幕に、維月はただ恐ろしくて震えた。
「な、何も」維月は小さな声で言った。「本当に何もございません。」
維心は光る眼を細めた。
「…直にわかることよ。わかっておろうな?我は怒らぬ訳ではないと申しておいたはず。」
維月は目を伏せた。物凄い怒りの気で、自分が吹き飛ばされそうな気がする。
「ただ…一人になりたかっただけでございます。」
「一人ではないであろうが!」
と、維心は箔炎に向き直った。箔炎も襦袢姿であるのを見て取ると、その気はさらに膨れ上がった。
「我が妃を手に掛けておらぬとしても許さぬ。」
維心は刀を抜いた。維月が慌てて遮った。
「おやめください!私を助けてくださっただけです!斬るのなら私をお斬りくださいませ!」
「うるさい!黙っておれ!」
箔炎はため息を付いた。
「…こんな劇的なことになろうとはの。」特に怖がっている風でもない。「我の顔がわからぬか、維心。」
維心は訝しげに箔炎を見た。そして、途端に、スッと気が収まって目の色が戻って来た。
「…箔炎?」維心は刀を降ろした。「まさか…ここは、鷹の宮か…?」
騒ぎに駆けつけて来た軍神達と、窓の外の龍の軍神達で、気が付くと回りは騒然となっている。箔炎は維心に言った。
「主の、妃の教育ぐらいしっかりいたせ。もう少しで我が寝取る所であったわ…龍王妃だと叫ぶゆえ間におうたが、危ないところであった。」
維心はまだ呆然としている。
「主…まだ生きておったのか。あまりに動きがないゆえ、もうとうに死んでおるものだと…。」
箔炎はフフンと笑った。
「そうよのう、あの折り我は500歳であったしの。死んでおってもおかしくはない。だが見ての通り」と箔炎は両手を上げて見せた。「我は生きておる。主と同じ、この姿のままな。1500歳であるぞ。」
箔炎は袿を手にして、維月に着せかけた。維心は眉を寄せて維月の腕を引いた。
「…我に目通りを願ったは主か。同じ名を付けた子孫であると思っておった。なぜにそんな回りくどいことを。」
箔炎は横を向いた。
「フン、主の守りが強過ぎて、話が出来んかったのではないか。それでなくても我ら鷹は若い王達や神達には知られておらぬ。こうでもせんことには、主に会えんかったのでな。」と維月を見た。「が、案外にこうして会えたがの。それにしても妃があんなところに落ちておったとは。我が軍神が見つけておらねば、どうなっておったと思うのだ。しっかり監督せんか。」
維心はばつが悪そうに横を向いた。
「…ある出来事のせいで今、少し記憶が混乱しておっての。教えておったことも忘れておることがあるのだ。」
箔炎は側の袿を手にとって羽織った。
「それにしても、あの頃から考えられぬ有り様よな、維心よ。妃の脱走にあれほどの軍神を引き連れて自ら動くとは…」と維月を見た。「まあ、こんな女を見つけたなら無理もないわ。我とて一目で気に入ってしもうたぐらいよ…その辺の王の妃だったなら、今頃は我のものであったわな。」
維心はキッと箔炎を見て維月を腕に抱え込んだ。
「誰にもやらぬ。」
箔炎は手を振った。
「わかっておるわ。主、炎嘉も退けたのであろうが。噂には聞いておるよ。」
維心は窓の方を向いた。
「とにかく、明日にでも我が宮へ参れ。もう日程どうの言うてられぬわ。話があるのであろうが。」
箔炎は頷いたが、言った。
「別に我は今でも良いがの。」と、さらっと言った。「鳥の残党がうるさいゆえ、言っておこうと思ったたけでの。」
維心は振り返った。
「なんと申した?鳥?」
箔炎は頷いた。
「主、一人討ち損じたであろうが。迷惑この上ないわ。」と息をついた。「炎託よ。」
維心は眉を寄せた。
「…記憶が混乱しておる時であったゆえの。誰を討ち損じたかもわからなんだ。我の記憶の後に生まれた者は、その時知らなかったのよ。」
箔炎は頷いた。
「ま、我は今、主に申したぞ。ではな、維心。」
維心は首を振った。
「もっと詳しく話さぬか。明日、宮へ来い。」と、維月をガッツリ抱えた。「ではな。」
維心はそのまま飛び立って行った。箔炎はため息をついてそれを見送った…またゴタゴタに巻き込まれるのか。面倒な。
維心は飛びながら、維月に言った。
「…わかっておろうな?今夜は眠れると思うな。」
維月は怯えて身を縮めた。
次の日、昼近くなって箔炎は龍の宮に訪れた。慣れた神と同じように居間に通され、待っていると、維心が部屋着のまま奥の間から出て来た。
「…待たせたの、箔炎よ。」
箔炎は顔をしかめた。
「維心、いくら旧知の仲とは申せ、その格好はなんだ。まるで適当に着て来たようではないか。」
維心はふんと鼻を鳴らした。
「主に今さらかしこまることもあるまい。適当に着て来たのよ。」
箔炎はじっと維心を見た。
「まさか主、今の今まで奥で…」
維心は面倒そうに手を振った。
「妃の教育をせよと申したのは主ではないか。あれには二度とあんなことはせぬと思わせねばならぬ。これで当分はおとなしくしておるだろうよ。」
箔炎は呆れたように背もたれにもたれ掛かった。
「相変わらず、逆らう者には容赦ないの。しかし無理矢理に妃にしておるなど、主らしくもない。ほとんどの王はそうであるがな、主に限ってはないと思うておった。」
維心は顔をしかめた。
「人聞きの悪い。確かにあれも我を想うておるわ。ただ、元は人であったからの…少々難しいのだ。こうと決めたら、言うことを聞かぬ。」
箔炎は困ったような表情をした。
「どの王もそう思い込んでおるよの。これでは、あのように噂されておっても仕方がないの。」
維心は、箔炎を見た。
「…噂とはなんだ。」
「宮に居ったら主にあんな噂は耳に入らぬな。龍王は月の妃を無理に乞うて我がものにし、月が穏やかな気質ゆえ仕方なく任せておるのをいいことに、ついに正妃にしてしもうたと。」維心が驚いたように黙ったのを見て、箔炎はため息を付いた。「我は真実ではないと思うておったが、そうではないの。主はあの妃を溺愛しておるではないか。片時も傍を離さぬと聞いたぞ。」
維心は、下を向いて言った。
「…確かに、傍は離さぬが…。」
箔炎は手を振った。
「まあの、王とは回りが見えておるようで見えておらぬものよな。己がどう思われているなどと考える必要もないしの。あの妃であるなら、我であってもそのようにしておったであろうよ。なので、気にするでないわ。」
維心は黙った。維月を愛している。だから十六夜と妥協してでも傍に置いて来た。だが、回りからはそう見えておるのか。我が、この力をもって無理にこうしておるのだと…。維心はそっと奥の間を伺った。維月…確かに我は昨夜主を力尽くで押さえ付けた。話しを聞けばよかったのか。だが、我の龍の血はそれを許してくれず、怒りの気ばかりが湧きあがってしもうて…。
維心は、後悔した。維月は泣いて許しを乞うていたのに。我は、我から逃げた維月を、傍に留めて捕えておくことばかり考えて…これでは、ほとぼりが冷めたら、また出て行ってしまうかもしれない。そしてその度に、心はどんどん離れてしまうかもしれない…。
維心が深刻な顔をして黙っているので、箔炎は維心の顔を覗き込んだ。
「…維心?ただの噂ぞ。気にするでない。主らしゅうないぞ、どうしたのだ。1000年の間に、主は腰抜けになってしもうたか?」
維心は、ちらりと箔炎を見た。
「主にはわからぬわ。本気で女と向きおうたこともない主に。」
箔炎はため息を付いた。
「いい加減にせよ。我に八つ当たっても事態は変わらぬ。」と表情を引き締めた。「そんなことを話しに来たのではない。炎託のことよ。あやつは我に、力を貸せと言って参った。我は断ったがの。」
維心は座りなおした。
「奴はまた、我に向かって来るつもりでいるのか。」
箔炎は頷いた。
「一族を皆殺しにされたのであるからな。月の宮の華鈴にもどうやら連絡を取ろうとしたらしいが、月の結界が強力で叶わなかったと聞いた。炎嘉は力を貸さぬことがわかっておるので、連絡を取っておらぬ。それから」と維心の目を見た。「龍の宮の武器庫が荒らされたらしいの。」
維心は驚いて箔炎を見た。箔炎はそれを見て笑った。
「何も知らぬと思うてか。我らはの、情報だけは逐一軍神達に調べさせて報告させておるゆえ。万が一にも火の粉が掛からぬように、警戒はしておったのよ。主らの諍いになど興味はない。本来なら、これも言わぬつもりでおったわ。だがな、後々こちらがなんだと言われとうないゆえな。」と懐から巻物を一つ、維心に放って寄越した。「我が軍神が捕えようとした一団が持っておったものよ。逃したが、これを落として行きおった。仙術の巻物よな。」
維心はそれを紐解いて、中を見た。それは、仙術の一部が書かれてある巻物であった。
「…彎の房から持ち去られた物の一つであるな。」
箔炎は頷いた。
「実はあの戦のどさくさに紛れて、我が軍神に命じて鳥の宮と虎の宮からこの巻物とやら、山ほど持って帰っておるのよ。なので我も一目でこれが何なのかわかった。主、仙術で狙われておるぞ。何をしてくるのかは不明であるが、この巻物は命の章。変なことにならねば良いがの。我も今の太平の世が続いてもらわねば、戦乱になるのは面倒であるのでな。主には死んでもらっては困る。」
維心はそれを見て、愕然とした。これは、確かに掛けられ方によっては困ったことになる…。
「よう、知らせてくれた。」維心は巻物を戻しながら言った。「討ち損ねたのは我の責。何としても始末は付けるゆえ。」
箔炎は頷いた。
「我とて炎嘉の生きて居る時であれば、考えたかもしれぬがな。その後は知らぬ。浅はかな判断しか出来ぬものを助けるいわれはないわ。まして炎嘉は転生して龍になっておるではないか。もう、我は鳥族には興味はないの。」
維心は箔炎を眺めた。あれから、少しも変わらぬ。まさかまだ、生きておったとは。
「…それにしても、懐かしいの。まさか主と再び話す時が来るとは、思いもせなんだ。」
箔炎はフッと笑った。
「龍に付けだの鳥に付けだのうるさかった時であれば、こうやって話すこともなかったであろうがな。主のおかげで太平よ。我も少しは役に立っておこうと思うただけだ。我はあれから人の世でも暮らしたし、いろんなことを学んだぞ。巻物を手に入れたゆえ、最近では仙術にも明るくなった。主より物知りであるやもしれぬ。」
維心の表情に少し影が差した。
「人の世か。」
箔炎はふと気づいて、微笑した。
「人はのう、難しいものよ。我はあやつらの考えも学んだが、あまりに神と相容れぬので驚いたわ。人の女の横暴さには呆れたしの。」と顔を上げて、奥の方へ目を向けた。「がしかし…維月は我の知っておる人とは違っておった。人にもいろいろあるのだと思ったわ。」
維心は鋭く箔炎を見た。
「本当に維月には手を出しておらぬな?」
箔炎は笑った。
「出そうとしたが、止めた。皆殺しにされては敵わぬわ。しかしあの気はなんと我らをそそるものよ…」と箔炎は思い出して、目を細めた。「おお唇は、美味であったぞ?」
維心が眉を寄せたかと思うと、気がゆらりと立ち上った。箔炎は慌てて首を振った。
「まだ龍王妃と知らなんだからよ。あやつがそう叫んでからは、何もしておらぬわ。しかし冗談ではなく炎託もうろついておるのであるから、重々気を付けねばならぬぞ。」
維心はため息をついて、頷いた。
「わかっておる。我もあやつと、少し話さねばならぬわ。」
箔炎は立ち上がった。
「さて、用は済んだ。本当は維月を一目でも見たかったが、主がその様子では叶わぬな。維月も今、それどころではないであろうしの。」
維心は箔炎を睨んだ。
「主までも何を言うか。あれは誰にもやらぬ。なぜに皆、維月維月言うのよ…。」
箔炎は笑って歩き出した。
「訳は主が一番よく知っておるであろうが。あの気には抗えぬ。我ですら初めて見る気であったわ。思い出すだけで手にしたくなるものよの。」
維心は仏頂面で箔炎を見た。
「我が妃であるのに。皆お構いなしよ。」
二人は並んで歩きながら、昔を思い出しつつ、出口に着くまで話しに花を咲かせた。