後悔
十六夜は気配を消したまま、維心と共に居間の横のカーテンへと歩み寄った。維心も念のため気配を消し、その分厚いカーテンをソッとめくった。
維月は、窓際の椅子に一人腰掛けて、月を見上げていた。何を思っているのかは分からない。だが、じっと見上げるその横顔は、憂いを帯びていた。
十六夜はその愛おしい気と姿に、息を飲んだ。ずっと感じられなかったその気と、ずっと見てきたその姿は、記憶よりずっと愛おしかった。もう二度とそれが自分に向けられることはないのだと思うと、苦しくて涙が浮かんで来た。愛している…。十六夜は心の中で繰り返し叫んだ。維月を愛している。もうオレを見てはくれないのか。同じように愛していると言ってはくれないのか…。たった一度の事なのに。オレは…維月を失った。維心のように出来なかったのだから、比べられて、愛想を尽かされても当然だ…。
十六夜は、維心を振り返った。
《悪かったな。帰るよ。》
維心も念で答えた。
《もう良いのか?》
十六夜は頷いた。
《見ててもつらいだけだ。維月がこんなに近いのに…オレには声を掛けることも出来ねぇ。》
維心は小さくため息をついた。
《…諦めるのか?お前の覚悟はそんなもんだったのか?》維心は苦笑した。《主が我に言ったことよ。行くがいい。話して参れ。それでもダメなら、諦めよ。何もせずに諦めるなど、主らしくもない。》
十六夜はためらった。維月は目の前に居る。維月に触れたい。抱き締められたい…。
しかし、十六夜は首を振った。
《あいつはあんなにオレを拒絶してるのによ。》十六夜は言った。よく見ると、維月はほんのり膜に覆われていた。《お前達が争ってた時は、維月は怒ってなかったし、お前に会いたそうだったから、オレはああ言ったんだ。今は違う。》
と、十六夜は歩き出した。維心はその後ろ姿に言った。
《十六夜…本当に諦めるつもりか。》
十六夜は振り返らず答えた。
《諦められねぇよ。死ぬほど愛してる。今見て余計に思った。だが、あいつに拒絶されてまでつきまとうつもりもない。》と、出て行きかけて、言った。《頼む、維心。お前の寿命が尽きる最後まで守ってやってくれ。そして向こうへ連れてく前に、教えてくれよ。》
維心は頷いた。十六夜…それはどれほどにつらいことか。我には想像も付かぬ…。
十六夜は、出て行った。
維心は、気配を戻して居間へと入って行った。維月がこちらを振り向いて、嬉しそうに笑った。
「維心様」と駆け寄って来る。「もう用事はお済みですか?」
維心は頷いて、居間の定位置へと維月をいざなった。維月は素直について来る。維月を隣に座らせた維心は、維月に言った。
「維月…我は訊かねばならぬ。主、十六夜のことは、どう思っておるのか。」
維月は驚いた顔をして、下を向いた。
「…もう、忘れるつもりでおります。十六夜には、新しいかたが出来たのです。まして、それは初代の月の当主の生まれ変わり…十六夜があれほど気に掛けていたかたなのですから。立派なかただったと聞いております。私はそんなに誉められた人生を送っておりませんでしたし。十六夜ともケンカばかりでした。」と維心を見た。「十六夜はやさしいから、私がどうしているのか気に掛けてくれるでしょう。でも、こんな私と何十年も居てくれたのだから、もう私のことは忘れて、これからはせっかく会えた、初代の当主と過ごしてもらいたいのですわ。私は維心様と居て幸せです。十六夜にも、幸せになってもらわなければ。」
維心は眉根を寄せた。では、嫌いになった訳ではないのか。ただ自分を忘れて、幸せになって欲しいと…。
維心は言った。
「誤解ということはないのか?我は十六夜が…そのように簡単に心変わりをするなど、思えないのだが。」
維月は首を振った。
「心変わりではありませんわ。元々あちらが先であったのです。私は最近共に居ただけのこと。思えば、ツクヨミの血族だから、十六夜は私を傍にと思ったのかも…。」
維心は、歯がゆかった。そうではないのに。だが、我があまりに言うと、維月が何かを疑うのではないか…。維心は、ため息をついた。
「…ほんに…男女の仲とはままならぬものよ…。いくら我の力をもってしても、すれ違いは避けられぬ。」
維月はその言葉の意味を考えているようだったが、結局首をかしげた。そして、維心に身を擦り寄せた。
「…いろいろと…申し訳ございません…。私は、結局は、十六夜にも維心様にも、迷惑ばかり掛けて来たのですね。」そう言うと、体を離した。「その上記憶まで無くして…」維月は立ち上がると、ふいと横を向いた。「では、湯殿へ行って参ります。」
維心はその様子に、何か不安になった。覚えのあるこの感じ…維月は何かしようとしている。
維心は立ち上がって、腕を掴んだ。
「維月、ならぬ。我の傍に居るのだ。主に出来る我への奉仕は、それよ。離れてはならぬ。」
維月は驚いたように維心を見た。
「な、なぜにそのような…」
維心は腕を引いて維月を抱き締めた。
「我が伊達に主と50年以上も共に居ったと思うてか。主が何かをしようとしている時の気は、もう知っておるわ。もうあちらこちら探し回りとうないゆえの。」と、維月をじっと見た。「良いな?いくら我でも怒る時は怒る。我から離れようものなら、力づくでも連れ戻して、その身に思い知らせようぞ。分かったな?」
心持ち光る青い目に、維月は震えた。本当に怒っている。出て行こうと思ったのを、知られて…。維心様は、おやさしいけれど、本当に恐ろしいかたなのだもの…。
「はい、維心様。」
維月は小さな声でそう言った。維心は維月を抱き上げ、奥の間へと連れ去った。
月鈴は、ひたすらに月に話し掛けた。そして願った。今一度会って話したいと。だが、月は何も答えない。確かに気配はあるのに、全くこちらの呼び掛けには反応しなかった。意識的にこちらを見ないようにしている気がする…。月鈴は思った。
龍の宮へと招かれたとあって、近隣の小さな宮々では、今や頻繁に月鈴に会いに来る客が増えた。行きたくても行けない、雲の上のような宮。下々の神には、憧れの場所であるのだ。
月鈴も、記憶が戻らなければ、楽しく話していたはずだった。
だが、月に会って、記憶が戻ってしまった。そして愛する月は、他の女を愛していると言った…もはや自分など、過去の屍であるのだ。
それでも、月鈴はただ、月の幸せを祈った。愛していると言った女は、自分の子孫でありながら、二人の夫を持つ心無い女だった。月は苦しそうだった…どうにかそれを、楽にしてやれる方法があるのなら…。月鈴はそう思っていた。
今日も宮には来客があり、是非に龍の宮の話を聞きたいと、顔も知らない神が月鈴に会いに来ていた。その神は命を司るという龍王に、とても関心があるのだと言った。
「月鈴様には、龍王にも月にもお会いになったとのこと。是非にお話を聞きたいと、参じましてございます。」
月鈴は困った。龍王とは話しもしていない。ただ、姿を見ただけだ。月鈴が黙っているので、相手は自分を疑っていると思ったらしい。そして、話し出した。
「月鈴様、我はたくさんの術を学んでおりまする。命のことは、大変に奥が深い…龍王はあの世への道を開き、あちらへ送ることも出来る。大変に力を持った神であります。」
月鈴は頷いた。相手は、先を続けた。
「我は転生のことも学びましてございます。あちらへ行ったのち、いくらかして許されるとまた、こちらへ生まれ変わることが出来る。その際一切の記憶は消されまするが、稀に強く願うとそれを持ったまま転生することがあるそうです。龍王の友人である鳥の王だった炎嘉様は、その例でありまする。それから龍王は、その妃と共に逝くことを約しているとか…龍王は、不死の者の命さえ、切り離すことが出来るのです。共に逝けば、あちらは過ごしやすい地であるとのこと。我も我が妻とはそう約して、しかし、龍王にお頼みすることも出来ぬので、術で命を切り離すことを考え、そして、同じように共にと望む者で試して、成功致したのでございます。」
月鈴は身を乗り出した。確かにあちらは過ごしやすかった。何度ここに月が居たらと思ったことか…。その思いに耐えきれず、転生することを願い、強く強く、再び月に会って話すことを願った。その結果が、これ…。
「本当に、それほどに想いあっておるとは、羨ましい限りでございます。」
月鈴は、差し障りのない答え方をした。相手は頷いた。
「はい。ですが…」
相手は、顔をしかめた。月鈴は促した。
「…何か問題でも?」
相手は首を振った。
「いや…これは王女様にお話しすることではありませぬな。」
月鈴は気になった。
「我は気に致しませぬ。どうぞお話しくださいませ。」
相手は、少し戸惑ったような顔をしたが、心持ち声を落として言った。
「…それが、龍王妃は月の片割れであるのでございます。龍王は、ぜひにと乞われて、既に月の妃であったかたを妃に迎えられ、子を6人も儲け、ついに正妃にしてしまわれた。月は穏やかな性質のかたなのでしょう。龍は激しい性質であります。きっと仕方なく自分の妃を預けておるのでしょうな。しかも、共に逝けるなら逝きたいはずの妃は、龍王が死する時に共に連れて行かれてしまう。こんな理不尽なことはありますでしょうか…小耳にはさんだのですが、月は龍王に命を切り離して欲しいと頼んだことがあったようです。不死の身とは、本当に良いものでもないのですな。」
月鈴は、その話に愕然とした。では、月は、龍王に妃を奪われたのか。そして月は、死にたいと望んでいるのか…。
「…でも、龍王が切り離す以外に、不死の身が死ぬのは無理ではありませぬか。」
月鈴は言った。相手は首を振った。
「いえ、先ほど申しました通り、私が術を掛ければ命は切り離せまする。例外はありませぬ。」
「それは、難しい術であるのですか?」月鈴は言った。なるべく、何気なく聴こえるように口調を和らげた。「なんだか、そんな簡単に出来るとは思われないのですけれど。」
相手は誇らしげに肩をそびやかした。
「いえいえ、私が術を掛けた短剣で、どこでもいい、傷を付けるだけです。簡単なものです…少し傷を付けるだけなら、苦しまずに済むだろうと、考えてのことでございまする。苦労致しました。」
月鈴は思った。その短剣を手に入れれば…きっと、月は喜んで手にするだろう。あれほどに辛そうだったのだ。あんな月を見るのは、つらい。私もまた、月と共に、あの世のあの場所で暮らすことが出来れば…。
月鈴はふと、相手を見た。そういえば、名を聞いて居なかった。
「失礼でございますけれど、お名を聞いておりませんでしたわ。」
相手は微笑した。
「これは失礼を致しました。我は箔炎。鷹でございまする。」
月鈴は驚いた。
「鳥…?!」
箔炎は首を振った。
「まさか。鳥は滅ぼされてございます。同じ鳥でも、我らは分岐した鷹。関係はございませぬ。」
月鈴はホッと胸をなでおろした。
「そうですの…。」
しかし、どうやってこのかたに短剣をもらおう。私には夫も居ないのでそんな口実も出来ない。それに、この人が望んでいた、龍王のことも何も話せていないのに、何かを頼むのは気が引ける。
箔炎は、そんな月鈴の様子を見て、首を傾げた。
「もしかして、月鈴様はその短剣にご興味がおありなのですか?」
月鈴は見透かされたようで、少し赤くなりながら頷いた。
「…どんなものなのか、とても興味がございます。女は、不思議なものを好むものでございます。」
箔炎は笑った。
「ははあ、確かにそうでありまするな。我が妻もそうでありました。私がこの短剣を携帯しておるのを知ると、危ないから気を付けろとそれはうるそうて…ま、知らぬからですが、これは剣を抜かねば何も危ないことはありませぬ。では、そのうちの一つをお見せ致しましょう。」
箔炎は、懐から鞘に納められた短剣を出した。金の柄の付いたもので、その辺りにあるありふれたものだ。だが、それはほんのりと青白く光っていた。
「これが…。」
箔炎は頷いた。
「そうです。これがその短剣でございます。抜くのは危ないのでこのままで。」
月鈴はそれを手に取った。確かに、何かの力を感じる。それがなんの力かはわからなかったが、月鈴の見たことのない力であった。
「我はこんな研究ばかりしておるので、一族の間では変わり者で通っておりまするが、今日は月鈴様に興味深く聞いていただいて大変に気持ちの良いものでございました。」箔炎は言って、月鈴からその短剣を受け取った。「長くお邪魔してしまいました。そろそろお暇を。」
月鈴は焦った。こんな別れ方をしたら、今度いつ会えるかわからない。それは、この短剣を手にする機会がなくなるということだ。月鈴は言った。
「…そんなに、月や龍王にご興味がおありなら、どちらかにお会いできるように、もし駄目なら、せめて月の宮や龍の宮へ入れるように、私が働き掛けてみましょうか?」
それが出来るかどうかはわからなかった。だが、月はきっと、聞いてくれるはず。もし駄目でも、一度行ったことがあるので、侍女や軍神を通して龍の宮には紹介出来るはず。相手は、驚いたような顔をした。
「おお、そんなことが出来るのなら、こんなに嬉しいことはありませぬ。どちらもかなり守りが固く、ツテが無ければ決して近寄れない宮でございますのでね。では月鈴様、どちらへご紹介いただけまするのか?」
箔炎は言った。月鈴は少し困った。どちらが可能かわからない。問い合わせてみないと…。
「数日、お待ちくださいませ。そののち、お答えできるかと思いまする。」
箔炎は軽く頭を下げた。
「思わぬお申し出、感謝いたしておりまする。ではその際、我は鷹の王であるとおっしゃってくださいませ。さすればすぐにお受け下さるはず。我は、龍王にも月の宮王にも、全く面識がございませぬのでな。取り次ぎを頼もうにも、知り合いが居らなんだのが正直なところ。ありがたい限りよ。」
月鈴は驚いて相手を見た。確かに、この神は力がある…それを隠している。しかし、いくら小さな宮とはいえ、王だったなんて。
月鈴も慌てて頭を下げた。
「まあ箔炎様、王であられたとは…最初からそのようにおっしゃっていただけたら…。」
箔炎は笑った。
「いきなり来て王だと言っても、誰も信じませぬでしょう。我は、龍王にどうしても知らせねばならぬことがある。なので急ぎお取次ぎ願いたいのです。だが、月の宮の王でも構わぬ。龍王と繋がりがあるのでの。では、月鈴様、よろしくお願い致しまするぞ。」
月鈴は頷いた。
「では、三日後にはこちらへいらしてくださいませ、箔炎様。」
箔炎は頷くと、応接間を出て行った。
外へ出ると、供の軍神が膝を付いて箔炎を迎えた。
「王、守備はいかがでありましょうか。」
箔炎は頷いた。
「なんとかな。そこへ持って行くのに、我はかなり話したぞ。半年分は話した気がする。」と眉をひそめた。「それにしても解せぬのは、術そのものより命を切り離す短剣に異常に興味を持っておるようでの。そっちのことばかり聞くのよ。月の話までしたわ。月が気になるようであるの。」
軍神は同じように眉をひそめた。
「月でございまするか。」
箔炎は頷いた。
「あんなゴシップでも頭に入れておいてよかったことよ。安心させるために、妻の話までしたぞ。」
軍神はびっくりしたように、箔炎の後を歩きながら言った。
「ええ?!一人も妃が居られぬのに?!」
箔炎は不機嫌に先を歩きながら言った。
「ふん、作り話をせよと申したのは主であろうが、定。ああ疲れたことよ。また三日後に参らねばならぬわ。」
箔炎が飛び上がったので、軍神達はそれに倣って飛び、宮へと飛び去って行った。