苦悩
維月は着物の裾をうまくさばけず膝をついた。それでも立ち上がって走り出す維月を、維心が追い付いて来て抱き寄せた。
「…維月。」
維月はぽろぽろと涙をこぼしている。維心はいたたまれなくなって、言った。
「維月…我が居るではないか。なぜにそのように悲しむのだ。」
維月は泣きながら言った。
「…知っていらしたのですね…それで、私を十六夜の傍へ行かせぬように…」
維心はグッと維月を抱き締めた。
「…すまぬ。だが、きっとあれも考えがあってのこと。主がそのように悲しむのではない。」
維月は首を振った。
「わかっております。」涙が止まることはない。「わかっているのです。私も十六夜を咎めることなんて出来ない…維心様をも愛しているのですもの。でも、目の前にすると悲しくて…どうしたらいいのか分からなかった…!」
維月は両手で顔を覆って下を向いた。維心は人目もはばからず嘆く維月に、自分の胸まで苦しくなって来るのを感じた。
「維月…我が居る。我が居るぞ。主を嘆かせる、あのように我に絡みついて来る女が居たなら、我は全て斬り捨ててくれる。安堵せよ。我は傍に居る。そのように嘆くでない…我まで苦しくて仕方がなくなる…。」
維月は涙で濡れた顔で維心を見上げた。
「維心様…。」
「維月」維心はその頬を両手で包んだ。「我が居る。」
維月はじっと維心を見つめた。なんて悲しそうな顔をなさるの…。
「はい。」維月は頷いて維心に抱きついた。「はい、維心様…!」
維心は維月を抱き留め、何度も頬を摺り寄せた。
「維月、愛している…!苦しければ我だけの妃であればよい。我は絶対に女には惑わぬ…主のために。」
維月は涙を流して微笑んだ。
「はい、維心様…信じておりますわ…。」
二人はしばらくそのまま、月明かりの庭で固く抱き合っていた。
十六夜がその場から目を逸らして立ち去ったことは、二人とも気付かなかった。
それから、十六夜は月から降りて来ることがなかった。
気配自体がずっと月にとどまったままで、地上へ降りて来ていないことを示していた。月鈴は次の日に父王の元へと戻って行き、龍の宮はまた、何事もなかったかのような様子に戻っていた。
維月は表面上明るく快活にしていたが、ふとした時にため息を付いているのを、維心は見ていた。
維月には、月鈴がツクヨミの生まれ変わった姿なのだと説明し、十六夜の弁護をしてみた。だが、維月はただ頷いて横を向いただけで、どう思ったのかは維心にはわからなかった。
それからの維心は、一層女を近づけない雰囲気を漂わせ、怖いほどであった。来客の中に王と王妃が居ても、王妃のほうには目もくれない。侍女が少しでもいつもより近くへ来ようものなら、刀に手を掛けるほどの徹底ぶりで、さすがに誰も維心の傍へは寄らなくなった。 維心は、維月が自分のことまで信用出来なくなってしまったら、またどこかへ身を隠してしまうのではないかと懸念していたのだ。記憶も全て戻らないままにどこかへ行ってしまったら、心配でまた何も手に付かなくなる。何より、維月がまた泣くのを見るのは絶対に嫌だった。
維月が自分の腕の中で笑っていれば、維心は他に何も要らなかった。気も狂うほどに愛おしい…。十六夜もそうであったはず。今頃どうしているのかと思うと、維心は気になって仕方がなかった。
「維心様、こちらを向いてくださいませ。」
維月の声に、維心はハッとして、腕の中の維月を見た。すると、柔らかい感触が唇にし、維月が自分に口付けたのだとわかった。
維心は微笑んだ。
「維月…。」
維月は拗ねたように言った。
「維心様が、何かを考えていらっしゃって、私に気付いてくださらないので。」と頬を膨らませた。「いたずらしました。」
維心は維月に回していた手に力を込めた。
「何を申しておる。我が考えていたのは、主のことであるぞ。」と鼻の頭を摺り寄せた。「それに、それでは悪戯にはならぬわ。悪戯と申すなら、こうせねばの。」
維心は維月に口付けると寝椅子に押し倒し、さらに深く口付けた。維月はびっくりしたように唇を離した。慌てている。維心はその様子に笑った。
「それみよ、驚いたであろうが。」
維月はそれが冗談だったとわかって、また頬を膨らませた。
「お人がお悪いですわ。」
維心はフッと笑った。
「本当にしてもよいぞ?」維月がドキッとした顔をしたので、維心はまた声を立てて笑った。「わかっておる。昼間から居間ではせぬと約したであろうが。主は記憶があってもなくても同じことを言うの。」
維心は身を起こして、維月を座らせた。維月はホッとしたように維心の横に寄り添うと、見上げてにっこりと笑った。維心はそれに笑い返しながら、自分は本当に幸せだと思った…そしてまた、十六夜のことが気に掛かってならなかった。
夕方、聞きなれた念の声が維心の頭に響いた。
《維心。少し時間を取れるか。》
それが十六夜の声だとわかった維心は、窓辺で夕焼け空を見ている維月の方をちらりと見た。大丈夫、気付いていない。
《いいだろう。だが、長くは取れない。維月が要らぬ心配をしてはならぬので。》
十六夜は少し、気を震わせた。
《今から、そうだな、訓練場にでも行く。あそこなら、大丈夫だろう。》
維心は思った。確かに訓練場に女が来ることはない。あんなところで逢引など出来ない…まず不安定だからだ。なので、あそこなら心配させることもないだろう。
《わかった。10分後だ。》
維心は立ち上がった。維月が振り返る。
「維心様、ご覧くださいませ。本日の夕日は、とても大きゅうございますの…それに、なんだか変わった色だこと。」
維心は維月に並んだ。
「おお、確かにの。仙人達が言うに、あれは大きな術を使った後などに出るのだとか…もしくは術が解けた時に出るのだとか。我も仙人とは付き合いがないのでの。深くは知らぬがな。」
維月はまだ夕日を見つめている。
「術が…」とつぶやくように言った。「私の記憶も、術が解けるように戻ればよろしいのに…。」
維心は維月を見た。何気ない風であっても、やはり記憶のことは気にしているのか。維心は維月の肩を抱いた。
「気に病むことはない。主は立派に務めを果たしてくれておるではないか。ゆっくりと何年でも掛ければ良いのよ。焦ることはないぞ。」
維月は微笑んだ。
「はい、維心様。」
維心はポンと維月の肩を叩いた。
「では、我は訓練場へ行って参る。半時ほどで戻るゆえ、待っておれ。」
維月は驚いた顔をした。
「まあ、このような時刻から?お手元が暗ろうございますわ。くれぐれもお気を付けて。」
維心は微笑んだ。
「大丈夫よ。我を誰だと思っておるのだ。」と維月の額に口付けた。「行って参る。」
「いっていらっしゃいませ。」
維月は微笑んで維心を見送って、また沈みゆく夕日を眺めたのだった。
訓練場へ着くと、もう、十六夜は着いていて、暗くなって行く空に浮いていた。維心は久しぶりに見るその姿に呼びかけた。
「十六夜。」
十六夜はハッとしたように振り返り、こちらへ降りて来た。
「維心、すまねぇな、急に呼び出して。」
維心は首を振った。
「良い。それで、どうしたのだ?」
十六夜は地に足を付けた。
「…維月は、どうしてる?」
維心は怪訝そうに顔をしかめた。
「主、見えるであろうが。気を探れば済むであろうに。」
十六夜は下を向いた。
「見えねぇんだ。」十六夜は暗く沈んだ声で言った。「維月はオレの力を遮断してる。オレの力を相殺できるのは、唯一維月の力だけだから…あいつが本気になれば、オレから身を隠すなんて簡単なんだ。気も読めねぇし、あいつが外へ出る時作る膜を纏ってると、姿も見えねぇ。前のように人の体じゃねぇから、より完全にオレの力を相殺できるようになったって訳だ。見たけりゃ…直に見るしか方法はねぇ。」
維心は驚いた。維月がそんなことをしていたなんて。では、あれからずっと十六夜から身を隠していたというのか。
「…元気にしておるぞ。」維心は言った。「特に悪い所もなく、気も澄んでいて別状ない。記憶は戻ってはいないが…健やかよ。」
十六夜はそれを聞いて、ホッとしたような顔をした。そして寂しげに頷いた。
「よかった。なら、いいんだ。邪魔したな。」
「良くはない。」維心が、飛び立とうとする十六夜を止めた。「主、どうするつもりだ?ツクヨミは?あれからどうしてるのだ。我も覚悟が要るゆえの。維月を一人で守れと言うのなら、我はもちろん守り切るつもりだ。主はツクヨミをとることにしたのだな?」
十六夜はキッと維心を振り返った。そして何かを言い掛けて、黙って、うなだれた。
「…ざまあねぇな。流されちまってよ。お前とはえらい違いだ。オレはツクヨミを愛しちゃいねえ。ただ、謝りたいとずっと思ってた。あいつを殺しちまったとずっと思ってたからだ。それに、あいつはオレに生き甲斐を残して行ってくれた…維月もそれに繋がって現れたんだ。だから感謝してる。オレに維月を与えてくれたことに。だが、維月を奪われちまった…あの瞬間、流されたばかりに。お前ならきっと、斬って捨てたんたろう。それぐらいの覚悟が、オレにはなかった。あの瞬間、ツクヨミを受け入れたばかりに、維月はもう、オレの所には戻らねぇ。お前という完全な男が傍に居て、その一人を愛したらいいんだ。きっと、あいつもお前も、その方が幸せだろう。オレは一人に戻るだけだ。維月を忘れることは…オレにはもう出来ねぇからよ。ただたまにこうして、様子を知りたい。それだけだ。」
維心は、十六夜の言葉に胸が苦しくなった。もし、これが自分だったらどうだろう。今思うと、我は貴子を愛していなかった。だが、自分を愛して自ら命を絶った貴子が転生してあのようにすがって来たら、斬って捨てられたろうか?…今なら、迷いなく斬る。だが、この出来事が起こる前だったなら…。
「…我とて、貴子が現れておったら、分からぬ。今なら主の事を見ておるゆえ、斬る。だが、その前なら…分からなかった。流されたやもしれぬ。愛してもおらぬのにの。」
十六夜は維心を見た。
「維心…。」
維心は苦笑した。
「我は何をしておるのか。せっかく維月と二人きりで余生を送れるというのに。」と、十六夜を促した。「とにかく、一度維月を見に来たらどうだ。今は居間に居る。気配を消せばあれには分からぬ。見るぐらいなら許されるであろうて。」
十六夜はためらった。しかし、思いきったように頷くと、維心について居間へと向かった。
維心が話す貴子のことは、迷ったら月に聞け2の「龍と月」をご参照ください。