記憶
月鈴は、維月に話し掛けられて、その気さくな雰囲気に自分の名の由来や、なぜにここへ来たのかを話した。維月はいちいち微笑んで聞いていたが、ふと顔を上げて十六夜を見た。
「私は月になったのは最近で、それはきっと十六夜だと思うわ。少し待って」と十六夜を呼んだ。「十六夜!」
十六夜は驚いたような顔をしたが、ためらいがちにこちらへやって来た。維月は言った。
「月鈴様よ。小さな頃から月に話していたそうだけど…覚えている?」
十六夜は月鈴を見た。
「…いや。オレに話し掛けるやつは星の数ほど居るからな。いちいち覚えちゃいねぇよ。」
月鈴はがっかりしたが、微笑んだ。
「でも、こうしてお話し出来て嬉しいですわ。」
十六夜はなんと答えたらいいのか分からなかった。だが、この気は覚えがある。なんと言っていいのか、懐かしいような…。
そう思っていると、相手は言った。
「なんだかとても懐かしいような気が致しますの。お会いしたのは、初めてですのに。」
十六夜は戸惑った。そうだ、懐かしい…。しかし、有り得ない。この気の持ち主は、もうとっくに死んだはずだ。維月が言った。
「まあ、懐かしいなんて。もしかしたら、前世で会ったのかもしれませんわね。十六夜は1500年生きておりますもの。」
微笑む維月に、十六夜はハッとして目を反らした。前世?まさか…。
そんな十六夜の様子に、維月は不機嫌に言った。
「十六夜、いくらなんでも何か返さなきゃ失礼よ?」
十六夜は維月を見て、ためらいがちに頷いた。
「なんと言っていいかわからねぇんだよ。あまり神とは接してないからな。」
維月は十六夜を怪訝そうに見たが、それ以上何も言わず、他の女の所へ話に言った。月鈴は困ったように微笑むと、十六夜に言った。
「急にこんなことを申して、申し訳ありませんわ。お月様にお会い出来て、舞い上がってしまって。」と手を差し出した。「握手してくださいませ。人の世では、そうするのでしょう?」
自分が人の世に明るいと維月が言ったのだろう。十六夜は戸惑ったが、仕方なく慎重に月鈴の手を握った。
月鈴は、その瞬間激しい目眩を感じて、ふらふらとその場へ倒れた。何だろう、頭がおかしい…。
「月鈴様!」
侍女達が大騒ぎをしている。十六夜は慌てて月鈴を受け止めた。出席者達も騒然とする中、月鈴の意識はそこで途絶えた…。
《ツクヨミ…他に方法があったはずなのに》
「お月様、ありがとう。私がひとりぼっちにならなかったのは、お月様のおかげ。最後まで一緒に、居てくれて…月音を、よろしくね。ありがとう…。」
月鈴は、目を開けた。涙が際限なく流れて来る。思い出した…。
「お加減は、いかが?」
心配そうに覗き込むその顔は、龍王妃だった。月鈴は起き上がった。そうか、自分は茶会で…。
「…ご迷惑をお掛け致しました。もう大丈夫でございます。急に目眩がいたしまして…。」
維月はホッとしたように微笑んだ。
「よかったこと。多分緊張の糸が切れたのでしょう。父上様には、ご体調がすぐれないので本日はこちらで休むとご連絡致しました。なので、ゆっくりなさって良いのよ。」
月鈴は頷いた。
「はい。ありがとうございます。」
維月は出て行った。月鈴は、よみがえった記憶に、まだ涙が止まらなかった。
私は、あの月を知っている。お月様と呼んでいた…私を助けてくれた、あの月…。
窓から、月が見える。月鈴は、そこから庭へと、足を踏み出した。
「王。」
義心が、維心の居間で頭を下げた。維心は軽く返礼した。
「報告か?」
「はい。」義心は顔を上げた。「武器庫からは、刀を数丁盗まれたのみ。それも、犯人を取り押さえまして、取り返しましてございます。」
維心は頷いた。
「ご苦労だった。下がれ。」
義心はまた、頭を下げて出て行った。維月が、維心に問うた。
「賊が入ったのでございますか?」
維心は維月を見た。
「気にすることはない。もう処理は済んだ。」と眉を寄せた。「しかし解せぬのは、なぜにあのように分かりやすい盗り方をしたものか。しかも武器庫を襲って盗ったのは刀数丁とは…我の結界を抜けるのは、宮の行事で弛くなっておる時しかない。やっと機を掴んだのに、訳の分からぬ賊よ。」
維月は、険しい顔の維心の腕を撫でた。
「維心様…。」
維心は維月の方を見ると、微笑んだ。
「案ずることはないぞ。我が居るゆえの。主は危害を被らぬ。」
維月は微笑んだ。
「わかっておりますわ。維心様はとても頼りになりまするもの。」
維心は微笑して維月に唇を寄せた。記憶が無くとも、なんと愛おしいことか…。
その頃、天空に昇った月を見上げ、十六夜は一人、思い出していた。あの懐かしい気…。あれは、間違いなく覚えがある。オレが後悔したあの夜の、あの別れから一体何百年経ったろう。本当に、そうなのか…?
ふと、十六夜は、気配に振り返った。
「月鈴…。」
十六夜は呟いた。月鈴は、吸い寄せられるようにこちらへ歩いて来た。
「…お月様…私は、あなたに会いたかった。思い出したの、最期の時も…。」
十六夜は泣きそうな顔で月鈴を見た。
「まさか、本当にお前は…」
「ツクヨミよ。」相手は涙を流しながら言った。「ああお月様、私はあなたに会いたくて、転生して来たの。」
月鈴は、十六夜に抱きついた。十六夜は、それを受けて、涙を流した。
「ツクヨミ…!オレは、お前を殺しちまった。なのに、オレに会うために転生したと言うのか…。」
月鈴は首を振った。
「あなたが悪いのではないわ。あれを封じるには、ああするしかなかった。だから私が頼んだの。ああ、本当に会いたかった。まさかこうして地上に来ているなんて…。」
十六夜は、ツクヨミを抱き締めた。あれほど後悔したことはない。オレの声に最初に気付いて、オレに生き甲斐を残して行ってくれた、ツクヨミ…。
二人はしばらく、そのままそこに佇んでいた。
維心は、眉根を寄せた。
宮で起こっていることは、意識を向ければ全て見える。十六夜の気が一向に宮から去らないので、見ていたのだ。
維月がそれに気付いて、維心を見た。
「…維心様?何かございましたか?」
維心はハッとして、首を振った。
「いや…何でもない。」
維心は思った。十六夜の記憶は、維月から見た。ツクヨミとは、十六夜が最初に話した人の女…維月に繋がる家系の、一番最初の女だ。十六夜は、闇を封じるためにツクヨミに降りて、その力の大きさにツクヨミが死んだことを、ずっと後悔していた。あの女は、その生まれ変わりだというのか…確かに記憶が戻ったようで、十六夜と話していた。
維心は、そこに十六夜は居ないのに月を見上げた。
…どうするつもりだ、十六夜よ…。
維心は、維月を見た。維月はこの事実を知ったら、どうするのだろう。維月も記憶が定かでない今、主のそんな姿を見たら、維月はなんとすると思うのだ。
維心は黙ってその様子を見守った。十六夜がツクヨミを取るというなら、我は止めぬ。維月は我が大切に守って行く。一人でも。
ふと、維月が顔を上げた。
「あら…?」
何かに気付いたかのように、首を傾げている。そして、立ち上がって、庭へと続く戸へと歩み寄った。
維心は慌てて言った。
「どうした?どこへ行くのだ。」
維月は振り返った。
「とっくに帰ったと思っていた十六夜の気配を感じるのですわ。しかも、気が乱れていて…何かあったのかもしれませぬ。この庭と続いている向こうのようですので、見て参ります。」
維心は立ち上がった。
「その必要はない。」維心は言った。「あれは月であるのだろう。我が宮で月が何かに巻き込まれるようなことはないゆえ。安堵せよ。」
維月はこちらへ戻り掛けたが、思い直したように庭を向いた。
「やはり見て参ります。大丈夫、すぐに戻りますので。」
維月はするりと戸を抜けて早足に歩いて行く。
「維月!」
維心は急いで後を追った。維月にあの十六夜の姿を見せてはいけない…。
月鈴が、十六夜の腕の中で言った。
「よかった…これでもう、一緒に居られるのね。」
十六夜はその言葉に、弾かれるように月鈴から身を離した。そして回りを見回した…誰も見ていない。
十六夜は、ためらいがちに言った。
「ツクヨミ…あれからいろいろあった。オレは、今愛してる女が居る。お前とは一緒に居られねぇ。」
月鈴は、十六夜の手を握った。
「そんな…人なの?私の子孫…?」
十六夜は頷いた。
「お前の子孫だ。最初は人だった。だが、命を落として、オレは何とかそれを助けたくて…維心に頼んで月になった。」
月鈴はハッとした顔をした。
「龍王妃…?」
「オレの妃だ。子もなした。」十六夜は言った。「だが、維心もあいつを望んで、今は二人で守ってる。オレは維月しか望まねぇ。」
月鈴は言った。
「そんな…あなたがそんな結婚をしているなんて!」月鈴は涙を流しながら叫んだ。「どうしてそんな…私の子孫は何を考えているの?それではあまりに酷いわ!」
十六夜はキッと月鈴を見た。
「維月が悪いんじゃねぇ!オレ達二人があいつを望んだからこうなったんだ。お前にゃわからねぇよ。」
月鈴は首を振った。
「いいえ、どちらかを選ぶべきよ!」月鈴は言った。「そうでないと、ずっと二人が苦しまなきゃならなくなるわ。だって、永遠に自分だけのものにならない女なのに、愛してるなんて…!」
十六夜は顔を背けた。
「オレは、例え誰のものだって、維月が永遠に傍に来ないほうがずっとつらいんだ!やっと見つけたんだ…何よりも愛している女ってのを。」と、月鈴の腕を振り払った。「もう、よしてくれ。オレはお前と一緒に居られねぇんだよ。お前はお前の、新しい生を生きるんだ。オレは維月と共に不死の命を歩く。」
月鈴はそういう十六夜の顔を見た。
「…それなら、どうしてそんなに苦しそうなの?」月鈴は言った。「いったいあなたはどれだけ我慢して来たの…そのかたの為に…。」
ツクヨミの優しい気が感じられる。たった独りだった自分に、初めて気付いてくれた。問いかけに答えてくれた。毎日共に話して過ごした…そして、その身に降りて、その大きな力ゆえに、殺してしまった。それなのに、その先の生きがいを遺してくれて、自分は孤独にならずに済んだ。その家系を守ることで、自分の居場所を得ていた。
黙り込んで涙を流す十六夜の頬に、ツクヨミである月鈴は触れた。十六夜は月鈴を見た。月鈴は同じように涙を流しながら微笑んだ。
「お月様…私はここに居るわ。今も昔も、私はたった一人で、あなただけよ。」
十六夜は月鈴を見つめ続けた。月鈴は唇を寄せ、十六夜に口付けた。十六夜がそれを受けると、維心の念が切迫した声で頭の中に叫んだ。
《十六夜!維月が行くぞ!》
十六夜はハッとして月鈴を押して離した。月鈴はびっくりしている。
「…お月様?」
十六夜の視線は、月鈴の背後で凍りついたように固まった。月鈴が振り返ると、そこには維月が立っていた。その後ろからは、維心が早足で追いついて来ていた。十六夜はかすれた声で言った。
「…維月…。」
維月は何かを言おうと口を開き掛けたが、すぐに口を閉じた。見る見る涙が溜まって来る。十六夜は維月に向かって足を踏み出した。
「維月…オレは…、」
維月はくるりと踵を返すと、来た道を走り出した。
「維月!」
維心がすぐに後を追う。十六夜も走り出した。
「待って!」月鈴が十六夜を止めた。「…龍王が追って行ったのに、なぜあなたまで追うの?」
十六夜は少し黙ったが、振り切るように月鈴から視線を逸らし、遅れて後を追った。
ツクヨミのことは、迷ったら月に聞け1のツクヨミ、ツクヨミ2をご参照ください。