白虎の宮に
龍の宮でも急ピッチで立ち合いの準備が進められた。
なぜなら立ち合いまでの間、維月が虎の宮へ滞在することになっていたからだ。本来ならこんな行事などの準備は半年近く掛かってするもの。それを、維心の命で二週間後と定められた。それがギリギリであったからだった。
維心がイライラするだろうと皆が思っていたのに、案外そうでもなく、落ち着いていた。維心自身もそんな己に驚いたが、毎日一度は維月が光になって月に戻り、そして龍の宮へ維心の顔を見に戻って来ることも大きいと思った。
それに、気を繋いでいるので、いつでも維月の動きが分かる。維月は白虎の宮で、特に不自由もなく過ごしていた。志心もその言葉通り維月に何をするでもなく、ただ毎日話して過ごしているのも見ていて知っていた。
維心は思った。おそらく十六夜はこんな気持ちで居るのだろう…心さえ繋がっていれば、心配は要らない。
確かに妬ける時もあるのだが、身が傍にあって他に心が行っているなら、身が遠くても心が傍にある方が良いと思えるのだ…そう、今も維月があちらの宮から自分を呼んでいるのが分かる。心の中で、名を呼んでいる。維心は同じように心の中で維月に呼びかけた。維月…。
ホッとしたような気が返って来る。維心もホッとした。結婚してすぐに比べたら、なんと安定した心持ちであることか。我らの間には、最早誰も割り込めぬよの、維月…。
…その通りですわ、維心様…。
風に乗るように、繋がった意識から維月の心が流れて来た。維心はその繋がった気を感じて、一緒に居るよりも一緒のような気がした。
志心は、二週間という制限の中で、維月と分かり合えたらと思っていた。毎日を共に過ごし、志心はいろいろな話をした…自分の生い立ちや、王座に就いてからのあれこれ、そして王としての責務のこと…。
維月は、何事もよくわきまえて聞いていた。王妃であるだけあって、王のこともよく理解していた。なんでもよく見ていて、自分がしてほしいと思うことを先回りして準備しておくことが、自然に出来る。こんなに頭の良い女は初めて見たと思った。
聞くと、維月は元は人だった。月を操る種族の当主で、今の月の宮の王を生み、育てた後一度死して、陰の月の命を貰って世に戻った。人の体で命を繋いでいたが、つい最近それを失って、エネルギー体になった…。
何よりも驚いたのは、維心が最強の龍王であると、最初知らずに嫁いだと言うことだ。神の世自体を知らぬまま、これが普通と嫁いだ先が最大の宮、龍の宮だったのだと。今でも実感が無いのは変わらぬようだ。維月が維心を語る時、とても愛おしそうな目になる。皆に恐れられている龍王が、実はどれほどに己を律し、そして葛藤して刀を取るのか…本当はどれほどに優しい気質であるのか…。維月はその言葉すら愛おしいように、あの心地よい気を放出させて維心を語った。それが深い愛情からであることは、志心にもわかった。
志心はため息をついた。
「…主と維心殿の間に割り込むことは、出来ぬのかも知れぬ。主を妃に迎えたければ、立ち合いで主に勝つよりないの…。」
維月は志心を見上げた。
「申し訳ございません。」維月は、乞われるままに維心の話をした自分に後悔した。「維心様とは…たくさんのことがありました。それで、私はとても愛するようになったのです。宮に入る時は思いもしなかったのに。なので、もう他へ嫁ぐつもりはないのですわ。ですが、約した通り、もしも私に勝つかたがいらっしゃったなら、そこへ嫁がねばと思っております。今はだた一人、維心様だけに私は勝てないのですわ。」
志心は苦笑して頷いた。
「龍王に勝てる神は居らぬ。龍王は考え事をしながらでも、立ち合いに負けることはないと聞いておるゆえな。我も主が月へ戻っておる間、訓練場で体を動かしておるが、とても主に追い付けそうにないの…せめて、我と立ち合おうて少しでも戦えるように力を貸してくれぬか?それぐらいなら良いであろう?」
維月は少し不公平かもとは思ったが、龍の宮の者達は元より自分と立ち合う機会があったのだ。少しぐらいなら大丈夫だろう。
「はい。では、甲冑を準備いたしまする。」
志心は頷いて、維月の手を取って歩き去った。
維月は、白虎の宮の湯殿で、浴槽に浸かりながら思い起こしていた。
志心は、確かに王であるだけあって、筋も良くすばしこくすぐに自分の流れについて来た。宮の他の白虎に恥ずかしくないようにと、スピードは極力落として立ち合った。維月の思った感じでは、腕前は義心と対等か少し上。自分がスピードを全開にしたら、きっと将維ほどもついては来れない…。維月は本番で、どうしたら志心に恥をかかせず済むのかと悩んだ。
完全に月になった自分は、日々自由にその力を使えるようになって来ている。それでも維心には、勝てる気がしなかった。あのかたの、天性の闘神としての能力には敵わない。いくら隙をつこうとしても、勘づかれてしまう。実体を持つ者の中で、やはりあのかたこそ最強なのだと、しみじみと思っていた…今まで、なぜ他の神達があれほどに恐れるのか分からなかったけれど。闘神として関わってみて、やっと維月にはわかったのだった。
今も、心の隅には維心の意識がある。居間で一人、月を見上げているのが見える。維月は無性に会いたくなって、目を閉じた。維心様のお側に、行きたい…。
「維月?!」
驚いた維心の声が、はっきり聞こえた。維月は白虎の宮に維心様が来るなんて何事かと目を開けて…固まった。
そこは龍の宮の維心の居間だったのだ。
維心が慌てて自分の袿を脱いで駆け寄って来る。
「風呂に入っておるなと思うておったのに…そのような格好で。どうしたのだ?」
維心は布をまとっただけで湯に濡れたまま椅子に座っている状態の維月に、袿を着せかけた。
「私…維心様にお会いしたいと思って。そしたら、ここにおりました。」
維心は苦笑した。
「無意識に力を使ったのであるな。光が飛び込んで来たかと思うと、主がそこに座っておったのだ。驚いたぞ。」
維月は自分がしたことに驚きながらも、嬉しくて維心に身を擦り寄せた。
「維心様…嬉しゅうございまする。お顔が見たかった。」
維心は微笑した。
「昼間にも一度帰って来たではないか…ほんに主は我慢の出来ないことよの。」
維心はそう言いながらも、維月を抱き寄せた。
「このような格好で戻って来おって。さあ、時が惜しい。来るがよい。まさかこのまま帰るとは言うまいな?」
維月は少し恥ずかしくなったが、おとなしく維心に抱き上げられて、奥の間へと入った。
白虎の宮の部屋に、着物を来た状態で、維月は実体化した。志心がそれを振り返った。
「…遅かったではないか。」
志心は、自分が龍の宮へ帰っていたのを知っているはず。だが、何も言わずに維月に歩み寄って来た。
「…お待たせしてしまいました。」
維月は帰っていたことは何も言わず、差し出された手を取った。志心はフッと笑った。
「そのように険しい顔をせずともよい。わかっておるよ…しかし、我には主を咎める権利はないのでな。」
志心は維月を自分の寝室のほうへいざなった。維月は固くなりながらも、それについて歩いた。いくら何もされないからと言って、十六夜でも維心でもない男と同じ寝台で寝るのは、さすがに維月も緊張した。
ここ数日と同じように並んで寝台に横になると、志心は横から維月を抱き寄せた。この気に包まれて眠るのは、本当に癒されて安らぐ…。そして、今日はその中に維心の気も感じた。今まで維心と共に居たこと、そして維心がつい先ほどまで維月の身を愛していたことを知らせるこの気…。龍王で強大な力を持つ維心の気は、無視出来ないほどに強く維月から立ち上る。これは他の神の比ではなかった。志心は、維月をいきなり組み敷いた。
「し、志心様…?!」
維月は驚いて志心を見た。大丈夫、いざとなれば光に戻れば済むこと。神が月のエネルギー体の自分に無理強いすることは、不可能だ。志心はしばらくそうして険しい顔をしていたが、すぐに目を逸らした。
「…龍王の気が残る主に、我から手出しなど出来ぬ。その気が我を食らうからだ。安心するが良い。」
維月はハッとした。では、先ほどの維心様の気が、私の中に残っているのね…。神の男は、そうやって己の女を他の男から守るのだという。ただ、相手よりも自分の気が弱いと、相手はそんな気など関係なくその女を奪うことが出来るという。力社会とは、こんなところからも出来上がっているのだ。ならば維心の気が残る維月を、志心がどうにか出来る訳はなかった。
志心は起き上がって寝台の淵に腰掛け、頭を抱えた。維月はその姿に、どうしたらいいのかとおろおろした。志心は誠意を示してくれていた。維月は、無意識だったとはいえ、維心の所へ帰ったことを後悔した。確かに維心を愛していて、あちらが夫なのだ…しかし神の世では、略奪されるのが常。自分の落ち度でこうなって、志心はそれでもこちらの気持ちを優先してくれていたのだ。維月は、小さな声で言った。
「申し訳ございませぬ、志心様。私は月とは言っても、まだ力の使い方がはっきりとはわかっておりませぬ。己の力の限界も知りませぬ。ゆえ、湯殿で我が王のことを思い浮かべた際、無意識にあちらへ飛んでしまっていたのですわ。これからはこのようなことがないように致しますので…お許しくださいませ。」
志心は顔を上げずに黙っていたが、首を振った。
「…我にはわかっておったこと。龍王にも月にも敵わぬ。そんな主を望んだことが、そもそもの間違いであったのだ。それを思い知らされておるような心地よ。」
維月は下を向いた。そんなつもりはなかったのに…。しかし、神の世では力は絶対なのだ。だからこそ、血気盛んな神の王達を押さえ付け、統治することが出来ているのが維心なのだ。その気の圧力だけで、相手を威嚇して抵抗出来なくさせてしまう。そう、今がそうのように…。
維月は志心の手を握った。
「志心様…私は元は人でありました。なので考え方は人でありまする。力社会の神の世ほど、力が全てな考え方ではないのですわ。愛情こそが、私の男性を選ぶ全て。私が維心様を愛しておるのは、龍王であるからではありませぬ。力であるなら、私が持っておるのですから、別に相手が弱くてもよかったのでございます。私はその人柄と生き方、考え方全てを見て愛情を感じるかたを夫に決めました。なので、志心様が望んでくださったことは、間違いであったとは思いませぬ。もしも私が志心様を愛していたなら、龍王に乞われようと志心様を選んだことでしょう。ただ、私は維心様を愛していた…それだけのことなのです。なのでそのように、ご自分を卑下なさらないで下さいませ。」
志心は、維月の手を握り返した。
「維月…主はどの神の女とも明らかに違う。惹かれてならぬ…どうすれば良いのかわからぬほどに。我は己からだけではなく、主からも愛されたいと望んでやまぬのよ。」
維月は困ったように志心を見た。
「志心様…私の心にはもう、月と維心様の二人が居り、これ以上誰かを愛することは出来ませぬ。あのお二人を忘れることも出来ませぬ。私は不死でありますが、維心様と共に世を去って逝きまする。どうかそのように、私のことを思い詰めないで下さいませ。誰であろうと、私の心にこれ以上は入れないのですわ。」
志心は、思い詰めたように維月を抱き締めた。
「それでもよ。」志心は言った。「かつて龍王が主と月の絆の間に割って入ったように。龍王のように、主と一年でも共に過ごすことが出来れば。」と維月を見つめた。「我をその心に受け入れて欲しいのだ。」
志心は維月に深く口付けた。維月は困った…確かに維心様もその昔同じことを言った。でも、あれは運命だった。今は、そう思う。私はどうしたら、この「気」を止めることが出来るの…。どうして神はこれに惑うの…。
その日は、新月だった。




