女神を賭けて
志心にとって、あんな女は初めてであった。傍に居るだけで、その気を感じて満たされる…そんな事は、今まで感じた事がなかったのだ。心底傍に置きたいと望み、正妃として生涯傍に置こうと決心し、そのためには相手ともう少し心の交流をして、相手にも自分を受け入れてもらえてから、体を繋ごうと思ったのだ。
なので、一夜共に過ごしても妃だと言われる王の身分を利用して、ああ言い張ったが、実は手を出してはいなかった。まさか、龍王妃であったとは。
リスクは大きい。虎のように滅ぼされる可能性も高い。だが、退けなかった。しかし、一族の事を思うなら、退くべきなのであろうな…。
志心が物思いに沈んでいると、伯が頭を下げて入って来た。
「王…維月様よりの打診でございまする。維月様は軍神であられ、己よりも強い者に嫁ぐと申され…王に、立ち合いして頂きたいと、申されておられます。」
志心は目を丸くした。なんと、あれは軍神であったのか。そういえば聞いたような気もする…龍王妃は類い稀なる軍神。それは、陰の月であるから…。
「女からの挑戦に背を向ける訳には行かぬの。受けると申せ。」
伯は言い出しにくげに言った。
「しかしながら…維月様は今や龍王でなければ歯が立たぬと言われるほどの腕前でありまする。王、もしも負ければ、諦めねばなりませぬぞ。」
志心は眉を寄せた。
「何を申す。我とて勝てぬと決まった訳ではあるまい。受ける。そう、申せ。」
伯は渋々頭を下げて、出て行った。
その背を見送った志心は、立ち上がって部屋を出た。
向かった先は、維月の部屋であった。維月は、そこには居なかったが、その前の庭に出て、ベンチに座ってぼーっとしていた。龍王の気配はもう宮にはない。あれもかなり多忙な身、無理に出て来たのだろう。月はいつでも降りて来られるので、傍に居なくても安心は出来ない。だが、志心は今はただ、維月と話したかっただけだった。
「維月。」
志心の声に、維月はびくっと肩を竦めた。おそらく龍王や月に散々何か言われたのであろうな…。志心は維月が気の毒になったが、歩み寄った。
「志心様…。」
維月はこちらを振り返って、立ち上がった。志心はその手を取って、庭の向こう側を示した。
「あちらへ歩こうぞ。主と話しがしたい。」
維月は頷いた。今は我に逆らえない。志心にはそれがわかっていた。宮同士の政治のことなど、己が婚姻の理由にはしたくなかった志心だったが、今はそれがありがたかった。それがあるから、維月は我の話を聞こうとする。
しばらく歩いて滝の前まで来ると、志心は維月をそこの脇にあるベンチに座らせた。
「主に、まずは謝らねばならぬ。」志心は言った。「主はただ、我を猫であると思うておったの。知っておるぞ。我は主が眠ってからこの姿に戻った。それから主を抱き寄せ、口付けた。」と維月を見た。「それだけだ。」
維月は驚いた顔をした。
「え、志心様…?」
志心は苦笑した。
「我は、主を正妃にしようと決め、そのためには主ともっと知り合って、主が我を受け入れる心の準備が出来た後に体を繋ごうと思うたのだ。ゆえに、我は主に手出ししておらぬ。」と横を向いた。「王とはの、何もせずとも一夜でも共におったら妃にせねばならぬものであるのよ。だからそれを利用しようと思うた。龍王妃であるとは知らなんだしの。わかっておったら、おそらく先に既成事実を作ろうと考えたであろうよ。だがまあ、維心殿も主も、共にわかっておろう。何もなかったのだ。」
維月は志心を見つめた。それは、言わなくてもよかったことだったのに。志心様は、きっと本当に私を気に入ってくださって、そしてゆっくり待ってくださろうとしていたのだ。なのに私は…立ち合おうなんて。
「志心様…私は、そのようには思っておりませんでした。ただ、神の王であられるから、これまで私、皆にそれは強引に妃に妃にと言われて来たのですわ。それで、きっと志心様もそんなおつもりであるのだとばかり…。」
志心は微笑んだ。
「そうであろうな。主の気は、ほんに特殊であるのだ。我はそれに酔って、昨夜はあまりに心地よいので久方ぶりによく眠れたものよ。あれから臣下に調べさせて知ったが、炎嘉殿や箔炎殿も主を望んでいるらしいではないか。いずれも力のある神ばかり…しかも王よ。あやつらは己の思うようにならぬことはなかったゆえ、主も思うようにしようとするのであろう。龍王は苦労しておろうな。」
維月は少し小さくなった。維心様には、本当にいつも気苦労をお掛けしてしまって。それでも匙を投げずにお傍に置いてくださるその根気に、頭が下がるばかり…。
志心は、維月の手を両手で握った。
「維月よ。おそらく我では主には勝てぬ。だが我は、諦めるつもりはないぞ。我もまた王であるからだ。今は我の妃として居らねばならぬであろう。なので主もこうして我について、庭へ出て参ったのだろうからな。我は主に手は出さぬゆえ、立ち合いまでの間、おとなしく我の宮へついて参れ。しばらく傍へ置こうぞ。こうして話そうぞ。もっと我のことを知って欲しいのだ。我も主のことを知りたいゆえ。」
維月は迷った。月に戻れば、それをしなくても済むのだ。だが、志心はとても誠実であってくれる。昨夜も、本当なら私はこのかたの妃になってしまっていただろう。だが、待とうという誠実さを、このかたは持っているのだ…話したいとおっしゃるのなら、白虎の宮へ行こう。
「…その、夜のお相手は出来ませぬ…立ち合いに勝たれたら、妃になるお約束。それでもよろしければ、私は志心様の宮へ、立ち合いまでの数日参りまする。」
志心はその言葉に、本当に嬉しそうに笑った。それが維心の笑顔とだぶって、維月は心を痛めた。私の「気」…。本当にどうしたらいいのかしら…。
志心が肩を抱いて来る。維月はおとなしく従いながら、考えた。
龍の宮では、維心から立ち合いの話を聞いた将維が、黙っていたかと思うと、言った。
「…では、それは公開するべきです。きっと母上は勝たれるでしょう。我でもまだ勝てぬほどです。志心殿の腕前は我も知りませぬが、父上に匹敵するかもしれぬほどのもの。きっと負けはしませぬし。」と、ふと、炎託のことを思い出した。「瑞姫も…その立ち合いをするべきではないでしょうか。それで夫となる神を決めれば良いのです。募集したらいかがですか。」
維心は目を丸くして将維を見た。なぜにそういう話になるのだ。
「そのような…あれはまだ成人もしておらぬゆえ、今少し宮に留めると蒼が言っておったのだぞ。」
将維は頷いた。
「しかし、結婚までは刀を握らせぬと申してもおるでしょう。あれほどの腕であるのに、もったいない限りでありまする。それに、夫となる者があれよりも弱ければ皆に示しも付きませぬゆえ。」
維心は、それも一理あると思った。蒼に進言してみようか…と思っていると、誰かがズカズカと居間へ入って来た。
「維心!邪魔をする。」炎嘉だ。「主、維月を志心に取られたとは本当か?」
維心は眉を寄せて横を向いた。また面倒なヤツが来た。
「主、我の臣下であるのだぞ。少しは遠慮せんか。」
鬱陶しそうに言う維心に構わず、炎嘉は言った。
「そのようなことは今は言っておる時ではないわ。何を落ち着いておるのよ。なんでも月の宮で一夜過ごしたらしいではないか。」
月の宮には炎嘉が居たこともあって、情報の流れは早いらしい。維心は手を振った。
「ほんに寝ておっただけよ。今も我は維月の様子を見ておるが、志心が維月にそう言っておった。何もしておらぬとな。」とちょっと眉を寄せた。「まあ、厄介なことに、維月の心が欲しいと申しておるように我には聞こえるの。」
炎嘉はフンと鼻を鳴らした。
「何を悠長な。主な、そのようなことだと、維月は取られてしまうわ。あれは稀少な女ぞ。わかっておろうが。」
維心は横を向いたまま言った。
「主なぞに言われずともわかっておるわ。あれは我が妃。誰にもやらぬ。だが、政治的なことが絡んで来るゆえ、我も慎重になっておるだけよ。虎を滅ぼしたばかりであるのに、考え無しに白虎までとは思うておらぬゆえな。でなければ、立ち合いなどを許すつもりもないわ。」
炎嘉は維心をじっと見た。
「…やはりそうであったか。あれは噂ではないのだな。維月に勝てば、維月はそこへ嫁ぐという。」
維心は驚いた。噂と。そんなことが出回っておるのか。
「…炎嘉、主、何を考えておるのだ。これは志心に限ったことであるぞ?こら、聞いておるのか!」
炎嘉は踵を返して居間を出て行こうとしていた。
「そんなもの!我にだって権利はあるぞ!箔炎も今頃己が宮の訓練場で汗を流しておるわ。我もこうしてはおれまいて!」
「こら炎嘉!我の話を聞かぬか!」
炎嘉は飛びように走って出て行った。維心はその背に、嫌な予感がした。
将維が維心に言った。
「…母上は本当に輝夜姫になられるようですね。」
維心は呆然と考えた。なぜに龍王である我が、正妃を誰かにやるために立ち合いなどをさせねばならぬ。それはおかしい。絶対におかしい。
維心の表情を見た将維は言った。
「いっそ、座興であると余裕を見せたらいかがでしょうか?」維心は将維を見た。何を言っている。「今のところ、母上に勝てるのは父上か十六夜だけ。その十六夜も、甘い所があるので、たまに一本取られているのを目にします。全勝しているのは父上のみです。我の見たところ、炎嘉様では母上に太刀打ちできませぬ。しかも月のエネルギー体であるので、一度月に戻れば、すぐに疲れは回復されます。父上の絶対的な力を見せて、他の母上を望む神達を押さえつけてしまわれたら良いのですよ。自分より強い妃など、王であるなら迎える訳には行きませぬし。瑞姫のことも同時に行えば、暇つぶしの座興ぐらいにしか、他の宮からは見えないでしょう。」
維心はまじまじと将維を見た。この息子は、我の複製であるにも関わらず、たまに驚くようなことを言う。これも、人の世を広く知って、学んでおるせいか。それなら、我の対面も保たれ、維月を望む神を抑えることも出来るかもしれぬ。維心は頷いた。
「では、宮の遊興、催しとしてこの立ち合いを行うこととする。蒼と瑞姫にも知らせよ。参加者を募れ。日時を定めよ!」
瞬く間に事が進んで行く。将維は炎託の元へ走った。炎託、己の欲しいものは、己で掴め!必ず瑞姫に勝つのだ!




