龍の宮へ
その女神は、北の小さな宮の姫で、名を月鈴と言った。月の明るい夜に生まれたからこの名が付いたのだと、母から聞いた。
それもあってか、物心ついた頃から月が好きで、いつも見上げていた。何か月から気配がするような気がするのだが、いくら語り掛けても、月が答えることはなかった。
仕方なく月鈴は、他の人や神がするように、答えぬ月に、困ったことがあると語り掛け、悲しいことがあると語り掛け、一方的に聞いてもらっているといった感じであった。
そんな折に、月の宮という宮が出来た。
そこには月の声を聞く王が居るという。是非に会ってみたいと父王に頼んでみたものの、父王は困ったように笑うばかりで、それが叶えられることはなかった。後で知ったが、こんな小さな宮の王が、龍の宮に繋がる大きな宮である月の宮の王に目通りを願うなど、到底無理であることがわかったのだった。
月鈴がまた、毎日と同じように月を眺めていると、侍女が息急ききって駈け込んで来た。そう言えば、なんだか宮が騒がしい。
「月鈴様!大変でございまする!」
月鈴はその慌てぶりに何事かと振り返った。
「どうしたの?何かあったのですか。」
侍女は、手に何やら手紙のようなものを持って入って来た。
「はい!月鈴様があまりに月月と申されますので、王が不憫に思われて、このほど龍王妃の茶会に参加申し込みをされたのですわ。それが、とても申し込みが多くて、参加は無理だろうと言われているほどの人気の茶会でありまして。しかし、龍王妃は宮の大小を問わずに募集されたので、王も気休め程度に思われたようでございまするが。」
月鈴は首を傾げた。
「どうして月なのに龍王妃なの?」
侍女は頷いた。
「ですから、龍王妃は月なのでございます。月には二人居て、そのうちの一人、陰の月と呼ばれておるのが、龍王妃、維月様であられるのです。」
「まあ…!」
月鈴は口を押えた。月に二人も居たなんて知らなかった。侍女は先を続けた。
「それが…!ご覧くださいませ!」と手にしていた手紙を月鈴に差し出した。「大きな宮々からも申し込みがあったと聞いておりますのに、抽選とか申すものでクジのようなもので決められたらしく、幸運にも、我が宮から一人、参れることになったのでございます!」
月鈴は、その意味が頭に浸透するまで、しばらく時間が掛かった。それは…それは、我があの、龍の宮へ参るということ?!そこで、月に会ってお話しできるということ?!
月鈴は立ち上がった。
「わ、我が龍の宮へ?!」
侍女は頷いた。
「…そんな訳で、只今我が宮は大騒ぎでございまする。月鈴様のご準備は、抜かりなく致させなければなりませぬ。龍の宮は、音に聴こえる厳しい宮。作法にも間違いがあってはなりませぬゆえ、これよりはご出発の日まで、皆で月鈴様のご教育を間違いなきようにとの王のご命令でございます。」
月鈴は急に怖くなった。龍の宮は、最強の龍王が君臨する最大の宮。そんなところへ、我が一人で参るなんて。
「我は…とても無理だわ。お父様は共に行ってくださらないの?」
侍女は首を振った。
「ご無理でございます。これは女の茶会でありまするので。それに、王妃様もとても無理だと申されておられまするし、とにかく王ですら、上がったことのない宮であられるそうなので…。」
月鈴は泣きたかった。父ですら上がれないような宮に、我が行くなんて。でも、きっと断ることなんて出来ないのだわ。
侍女は考え込む月鈴を立たせて、引っ張った。
「さあ月鈴様!お時間がもったいのうございます!ささ、お早く作法のおさらいを!」
月鈴は半泣きになりながら、侍女に言われるままに準備に入った。
「茶会だって?」十六夜が言った。「皆で茶飲んで帰るのか。」
維月は苦笑した。
「違うのよ、神の世の女の茶会と言ったら、おしゃべりの場なの。まあ人の世でも変わらないけど。でも、王妃が開く茶会っていうのはね、その宮々の困りごととか聞いたりする場なの…とにかく神の世では女の発言権が無いから、なかなか聞いてもらえないでしょう?維心様が力を持っていらっしゃるから、私は皆の困りごとを聞いて、それを処理してあげることも出来ることがあるのよ。中には、夫婦の困りごととかあったりして、まあ雑談になってる時もあるのだけどね。楽しいわよ?十六夜も来る?」
十六夜は顔をしかめた。
「オレは女は苦手だ。なんだってあんなにしゃべるんだといつも思うしな。」
維月はムッとした顔をした。
「悪かったわね、おしゃべりで。維心様はいつもふんふんと聞いてくださるわよ?」
十六夜はフンと横を向いた。
「あいつは辛抱強いだけだ。オレだってお前の話ならずっと聴いて来ただろうが。だが、他の女の話にまで付き合うつもりはねぇなぁ。」
そうこう言っている間に、奥の間からきちんとした着物を着た維心が出て来た。
「維月、そろそろ時刻ではないか?」と十六夜を見た。「なんだ、主、来ておったのか。」
十六夜は驚いた顔をして維心を見た。
「おい、まさかお前まで茶会に出るんじゃないだろうな。」
維心は眉を寄せた。
「何が悪いのだ?我は先に帰る。我が居っては話せぬこともあるだろうからの。」
十六夜は背筋を伸ばした。
「じゃあ、オレも出る。お前が行くのに、オレが行かないなんておかしい。」
「どうしてそうなるのよ」維心は不満げに言った。「ここは我の宮ぞ。我が妃の交友関係を見に行って何が悪いのだ。」
十六夜も退かなかった。
「オレだって、維月の交友関係を見たい。だから行く。」と維月を見た。「おい、着物出してくれ。」
維月はすぐに侍女に命じながら、十六夜を見た。
「でも、十六夜をなんて説明したらいいのかしら。こちらは夫の龍王、そしてこちらも夫の陽の月ですって?」
十六夜は慌てて出て来た侍女達に着物を着せられながら言った。
「ここは維心の宮だから、オレはいい。まあ、月です、でいいんじゃないか?月なんだから。」
維心は維月の手を取った。
「ほんにもう、いつもいきなり思いつきでそのようなことを申す。」少し不機嫌になっている。「行くぞ。着替えは済んだであろうが。」
侍女達が息を切らしている。十六夜はとにかく形になった着物で、維心と二人で維月を挟んで、広間へと歩いて行った。
月鈴は、心配げな父に見送られ、持って居る中で一番いい着物を着せられて輿に乗っていた。連れて行くのは侍女二人だけ。これは先に決められて龍の宮から通告されていた。心細い事この上なかった。
「とにかく、おとなしくしておるのだぞ」父王が言った。「龍王妃はお優しいかたと聞く。少しぐらい粗相をしても怒ることはないであろうが、しかし、この宮の代表として参るのだ。くれぐれも、それを忘れずにの。」
月鈴は頷いた。
「はい、お父様。行って参りまする。」
数人の軍神に守られて、月鈴は飛び立って行った。父王玲師は不安げにそれを見送った。
「月鈴様、龍の宮が見えて参りました。」
軍神の一人がそう告げる。下を見ると、そこには今まで見たこともないような大きな宮が見えた。滝から続く岩肌に沿って、大きく山を覆うように作られている。そして、そこにはまた、強力な結界が張ってあった…ここに来る前にも、この龍の結界を通らねばならず、それもまた強力なものであった。それが全て、龍王一人で成していることだと思うと、非情と言われる龍王に近付いている自分が、とても恐ろしかった。
宮の門に到着すると、龍の軍神が近付いて来た。
「名をお聞きし申す。」
こちらの軍神が答えた。
「我らは王・玲師の宮より参りましたもの。皇女月鈴様でございまする。」
相手は頷いた。
「ようこそ来られました。こちらへ。」
軍神はそう答えると、先導して降りて行く。一向はそれに従って、宮の入り口にやっと到着した。
「ここからは、月鈴様と侍女のみお越しになるように。他のかたは、あちらに控えの間がございまする。」
輿から降りた月鈴は、既にここから行儀作法が見られていることを念頭に入れ、緊張して足を踏み出した。そんな月鈴を見て、龍の宮の侍女が頭を下げて言った。
「ようこそお越しくださいました。それでは、広間へご案内致します。」
月鈴は軽く返礼してその後に従った。月鈴の侍女達もとても緊張した面持ちで付いて来る。
…そこは、まさに竜宮であった。
大きな建物、高い天井、広い回廊、そして調度は見たこともないような細工を施された、とても立派なもので、踏みしめる敷物すら、その布で着物が縫えるのではないかと思われるほど、良い布が使われていた。
仕える侍女や臣下の多さは目を見張るほどで、そして何より、きっとここで案内がないと、自分は迷ってしまうと月鈴は思った。上から見ていたより、ずっと大きな宮であった。
広間へ入る戸は、また大きかった。その戸が開かれると、やはり中には緊張した面持ちの面々が座っていた。中には、知った顔も居る。だが、ここで喜んで駆け寄るのが作法上どうかというと微妙であったので、月鈴は黙って案内された椅子に座った。
広間に置かれたテーブルはこれ一つで、あとはがらんとしている。招かれた人数が少ないとは聞いていたが、自分がこの中に入ったのは奇跡に近いと月鈴は思った。
しばらくそのまま緊張して座っていると、侍女が入って来て、言った。
「王、維心様、王妃維月様、月の宮十六夜様のお越しでございます。」
一同は固唾を飲んで見守った。王が来るなんて、聞いていなかった。龍王とお目通り出来る機会など、滅多にないのに!
頭を下げる侍女達の前を、背の高い端正な顔立ちの神と、その神に手を取られた女神と、そして、青銀の髪に整った顔立ちの神が歩いて入って来た。
「本日は、我が妃の茶会へよう来られた。我はしばらく居って早々に退席するゆえ、ゆるりと滞在してもらえばよい。」
皆は驚いていた…まさか、非情と名を轟かせる龍王が、これほどに若く美しい王だとは誰も思ってはいなかったからだ。
維心はそれを知ってか知らずか、維月を見た。
「では、我が妃より話がある。」
維月は頷いた。
「皆様、本日は私のお茶会へようこそいらっしゃいました。我が王のお力添えもあり、こうしてまた皆様にお会いできましたこと、嬉しく思っておりまする。」と十六夜を見た。「こちらは、月の宮から参った陽の月、十六夜でございまする。お見知りおきくださいませ。」
月鈴は息を飲んだ。なんだろう、懐かしい気がする…あの、陽の月の十六夜様…。
維月は、侍女達に頷き掛けた。侍女達は広間から庭へ向けての戸を開けた。
「さあ、本日はお天気が良いゆえ、庭へ準備させましてございます。どうぞ庭の方へ。」
緊張気味だった一同は、ホッとしたように立ち上がると、戸を抜けて歩き出した。維月も維心から離れて歩き出す。維心は、邪魔をしないように、戸の内側に立って、眺めた。
最初は緊張気味であった女達も、維月があちこちと歩き回って話し掛けているうちに、段々と力が抜けて明るく笑って話すようになって来た。皆で明るく話す中、それを維心とは違って戸の外側付近で見ていた十六夜が、ふと、何かに気を取られたような顔をしたのが見えた。維月かと思ったが、それは若い女の神であった。その女は、十六夜を微笑んで見ている。顔見知りなのかと維心が思っていると、十六夜は目を逸らした。怪訝に思ったが、維心はその後政務があり、場を外さなければならなかったので、そのことはそれで忘れてしまった。