蕾
瑞姫は、いつものように学校の図書館に座って人の世の本を読みながら、落ち着かなかった。龍王が、同じ部屋の中で同じように本を読んでいるのだ。それも、尋常ではない量の本をすっすとめくって頭に入れている…あれは、神がゆっくり読書する体勢なのだという。情報だけを頭に取り込むのなら、まとめて気で読んでしまえば済むもの。今、龍王は時間があるということなのだろう。もしお話を聞くなら、今しかない。
じっと見ていると、確かに龍王様は祖母の言った通りとても凛々しい。冷たい雰囲気も、今日は幾分和らいでいて、落ち着いた感じだ。あれがお母様の兄君、我の叔父。祖母の夫。ややこしいが、要は近しい縁戚なのだ。しかし、話したことはまだ一度もなかった。
本に集中しようと頑張ってみたものの、瑞姫にはそれは難しかった。祖母から聞いた話ばかりが思い出されて、気になって仕方がない。そっと見た龍王のその左手には、祖母と同じ指輪がささっていた。なんだかとても幸せな感じ…。瑞姫はため息を付いて本を閉じた。そして、思いきって声を掛けた。
「あの、龍王様…。」
維心は顔を上げた。瑞姫…維月の孫で我の姪、話した事はなかったな。
「…瑞姫であるの。何用か?」
瑞姫は緊張してかちこちになった。どうしてこんなに威厳があるのかしら。座ってるだけなのに。
「お、おばあ様から、龍王様のお気持ちは龍王様に聞いてと…。」
維心は、朝の事を思い出した。そう言えば、維月が我がなぜに維月を愛しておるのか、皆目見当もつかないとか申しておった。あれの事か。
「主のお陰で我はあれの気持ちを聞く事が出来たゆえの…話そうぞ。」と本を閉じた。「維月はあのように申すが、命の調整をしておる時は心を繋いでおったゆえ…維月の全てが見えておったのよ。それゆえに維月を求めた。それだけの事よ。」
瑞姫は驚いた。それは…本当に全てということ?
「生き方全てでこざいますか?」
維心は頷いた。
「そうよ。あれを構成する全てを愛しておる…維月が我の事をそう申しておったようにの。皆目見当もつかないとは、ほんにあれもわかっておらぬわ。そうでなければこれほど苦労して正妃にせぬ。」と、左手の結婚指輪を触った。「…我にとり、何ものにも代えがたい宝よ。なので、ただ一人と約しておるのだ。」
瑞姫は、維心から流れて来る暖かい気を感じて、自分も幸せな気持ちになった。我も、このように愛されたい…。
瑞姫は維心に微笑み掛けた。
「ありがとうございました、龍王様。我もそのような殿方に出逢えるように、願っておりまする。」
維心は頷いて、また本を開いた。それを見た瑞姫は、立ち上がって訓練場のほうを見ると、将維がそちらへ向かってゆっくりと飛んで行くのか見えた。将維は優しくて強くて、小さな時からとても好きだ。歳が違わないのに、なぜか将維は自分よりも大人になってしまって、雰囲気まで落ち着いてしまった…それと同時になぜか影が出来て、少し遠くなったような気もする。だが、やはりまるで兄のように将維を慕っていた。
瑞姫は、自分も訓練場の方へ向かった。
訓練場の観覧席のほうへ回り込んで見ると、義心と誰かが長い棒を持って打ち合っていた。将維は居らず、居るのは父と義心と、もう一人顔がよく見えない誰かだった。
「あれは誰かしら…?」
瑞姫はもっとよく見ようと身を乗り出した。茶色い髪は、炎嘉様を思わせる。努力の甲斐あって、その相手が見えた。
義心と打ち合っているその神は、炎嘉に似ているだけあって、やはり鳥の気が感じられた。しかし、本当に楽しそうに動いている…とても快活で明るい気だった。
瑞姫は相手がこちらへ目を向けようとしたので、慌てて隠れた。別に見ていても咎められることはなかったろうが、なぜかいけない気がしたのだ。そのうちに、棒がぶつかり合う音が止まった。
「さすが炎嘉様の血、驚くほど上達が早ようございますな。これなら、見る間に我に追い付いて来られまする…我もゆっくりしては居られませぬな。」
蒼は笑った。
「なんだ、やっぱり軍神か。オレは駄目だなあ、力にばっかり頼ってしまって。もっと武術をがんばらなければ。」
炎託は蒼を見た。
「蒼殿は月の力を持っておるのに、その上武術など必要ではなかろう。我は何事も中途半端であるゆえ…何かを身に着けねば生き残られぬ。」と、棒を義心に渡した。「有意義な時間であったわ。久しぶりに汗をかいたの。」
蒼は炎託に言った。
「何なら、ここの宮には露天風呂があるぞ。入って来たら?」
炎託は笑った。
「龍の宮にもあった。さてはそれは龍王妃の好みであるな?」と首を振った。「それはまた夜にでも参る。汗だけ流せる場所はないか?」
蒼は訓練場の回りの建物を指した。
「そこの入り口を入って右に行くと、シャワー室がある。ジョウロの口みたいなのが上についてて、下の丸いのを回すと湯が出るから。終わったら湯を止めてくれ。」
蒼はすっかり神に何を説明したらいいのか分かって来た自分がすごいと思った。炎託は頷くと、軽く頭を下げてそちらへと歩いて行った。
蒼の言った通りの場所に、それはあった。何か、蓮のようなものが上についている。炎託は言われた通り下にある丸いのを回した…その蓮から湯が出て来る。
「なんと、便利なものよ。わざわざ気で湯を降らさずとも良いとは。」
原理はわからなかったが、炎託は満足して汗を流した。
瑞姫は滅多に来ない訓練場の建物の中で少し迷った。観覧席から戻ろうとしたら、瑞姫が居ると知らなかった蒼がそこに封じの鍵を掛けてしまっていた。仕方がないので、反対側から降りたのだが、そうするとそこがどこなのかわからなくなってしまった。何しろ、自分は訓練場には縁がなく、観覧席しか来たことはなかったのだ。
日が少し暮れかけて来ている。瑞姫は慌てて歩き回った。
「きゃ!!」
何か固いのか柔らかいのか分からないものにぶつかった。瑞姫は尻餅をついて、痛みに顔を歪めた。
「痛ーい!」
尻餅をつくのは初めてではないが、ここの床は石造りなのだ。瑞姫は痛みに涙目になりながらも、ぶつかったものがなんなのかと視線を上げた。
「…なぜにこんな所に。」
そこには、上半身裸の状態で、先ほどの鳥の気を持つ茶色の髪の神が立っていた。瑞姫は思わず叫び声を上げた。
「きゃー!」
炎託はびっくりして瑞姫の口を押えた。この状況では、まるで我が襲ったようではないか。こっちが被害者であるのに。
「叫ぶでない!主の、我が悪いのではないぞ!我が湯を使っておったのに、主が来たから悪いのよ!」
瑞姫はそう言われて、回りを見た。…ここはシャワー室ではないの。瑞姫はおとなしくなった。
「も、もうしわけありませぬ。」
手の下で小さくモゴモゴとそう聴こえ、炎託は手を離した。
「ま、よいわ。我は気にせぬ。」とつい立の後ろへ行った。「何をしておるのよ。道に迷うたか?」
つい立の向こうでは、どうやら着替えているらしい。瑞姫は諦めて白状した。
「はい…観覧席にしか来たことはありませんでしたのに。父に封じの鍵を掛けられてしまって。違う道を来ましたら、ここへ出てしまいました。」
「父?」相手は、袿を羽織りながらつい立から出て来た。「主、蒼殿の娘か。」
瑞姫は頷いた。
「はい。瑞姫と申しまする。」
炎託はまじまじと瑞姫を見た。確かに将維の母に似ている…龍の気がするのは、龍王の妹の子であるからか。
「我は炎託。」炎託は言った。「炎嘉の第8皇子、華鈴の兄だ。しかしの、瑞姫殿。こんな所でうろうろしておってはならぬ。まるで将維の母のようよの。人のように歩き回るのが、必ずしも良い訳ではあるまいて。」
瑞姫は下を向いた。確かにそうだ。これが炎託様だったから良かったものの、他の神だったら…もっとタチの悪い者だったら、立ち合いの後なんて気が立っているから、何をされたか分かったものじゃない。
「こんなことになるとは思ってもおりませんでした…。炎託様、どうか外へお連れ頂けますか?」
炎託はため息を付いて歩き出した。
「もちろん放って置く気はないがな。こちらから飛んで出るしかないのよ。」と訓練場のほうを見た。「…仕方がないの。来るが良い。」
炎託は、瑞姫に手を差し出した。夜の訓練場は、気の膜が張ってあって、それなりの力がないと外へは出れない仕様になっている。もちろん、入ることは出来ない。夕方になって日が落ちたので、その膜が薄く空に見えた。炎託があまりに気が進まなさそうなので、瑞姫は悪くてしゅんとなった。ただちょっと見に来ただけなのに…。そして、おずおずとその手を取った。
炎託はその手を引くと瑞姫を抱き上げて、すぐに空へ舞い上がった。瑞姫はびっくりしたが、気が付くと、訓練場はもう下に見えた。
「まあ…!きれい!」
瑞姫は歓声を上げた。こんな夜に空を飛んだことは初めてだ。訓練場は膜に覆われてほのかに光り、そして宮は明るく光り輝き、回りに建つ家々からは光が漏れて、これが夜景というものかと感嘆した。もちろん宮からも夜景は見えるが、真上から見るのは違う。炎託は不思議そうに瑞姫を見た。
「なんと、主は己の宮も上空から見たことがなかったのか。」
瑞姫は頷いた。
「昼間はございまする。でも、暗くなってから出ることは許されませぬので…とても美しいですわ。」
炎託はしばらく黙っていたが、言った。
「見たければ、結界ぎりぎりまで上がってやろうか?」
瑞姫は目を輝かせた。
「本当でございまするか?!お願い致しまする、炎託様。」
炎託は頷いて、一気に上まで飛び上がった。ぐんぐんと地上が小さくなる。こんなに上までは、昼間でも来たことがない。瑞姫はきゃっきゃとはしゃいだ。
「…これが限界ぞ。我ではここまでだな。これ以上行くと、月の結界につかまる。」
瑞姫はため息をついて、その光景を眺めた。宮の敷地の美しさは元より、遠く人の世の光まで見える。そして天空には月が現れ、そして空には星が出て来ていた。こんな景色は、本当に初めてであった。
「素晴らしいわ…」と炎託を見た。「本当にありがとうございます、炎託様。」
炎託はためらった。こんなことをこれほど喜ぶとは。こんな素直な女を初めて見た。神の女は、皆取り澄ましておるものであるのに。思えば将維の母も、このような感じであったな。
炎託は、ふと下を見た。
「戻らねばらぬぞ、瑞姫殿」炎託は言った。「主の父は心配性よの。探そうとしておるぞ。」
瑞姫は頬を膨らませた。
「お父様は大変に心配ばかりしておるのですわ。おばあ様があのように自由に過ごされておるのに、なぜに我だけこのように宮の奥へ篭められておるものか。」
なんだか怒っている。炎託は苦笑した。
「神の王の娘は、皆そのようなものよ。」と下へ向かって急降下した。「さて、耐えられるか?」
瑞姫は驚き過ぎて声が出なかった。目を見開いて固まってしまっている。それを見て、炎託は声を立てて笑った。
「ははは、主は面白いの!」
瑞姫は怒ってじたばたした。
「もう!炎託様!」
炎託は笑いながら、瑞姫の部屋のほうの庭へ示されるままに飛んだ。そこへ瑞姫を降ろすと、炎託は踵を返した。
「ではな。早く行け、瑞姫殿。父が慌てておるわ。」
瑞姫は頷いた。
「はい。ありがとうございます。」
炎託が頷いて飛び立とうとすると、瑞姫は声を掛けた。
「あ!炎託様!」
浮き上がった状態で、炎託は振り返った。
「なんだ?」
瑞姫はためらった。なんで呼び止めたのだろう。
「あ、あの…瑞姫とお呼びください。」
炎託はきょとんとしていたが、真面目に頷いた。
「では瑞姫、またの。」
炎託は今度こそ飛んで行った。
瑞姫は不思議な気持ちでそれを見送った。




