苦悩
将維は目を覚まして、ハッとした。日が昇り始めている…ということは、自分はあのまま…?
隣りを見たが、誰も居なかった。将維は月の宮にある水道というものの使い方を知っていたので、顔を洗って、着替えた。なんでも自分のいい時にいいように出来る月の宮は、なんだか将維の性に合っていた。
昨日のことを思い出し、将維はため息をついた。自分はこれほどに堪え性がなかっただろうか?…まさか、この自分が約したことを違えるなんて。しかし、昨日は何かに憑かれたかのように、抑えが利かなかった。これが龍の血か…。将維は再び深いため息をつくと、上って来た朝日を見た。
「そんなこと言ったって知らねぇぞ。オレが段取り付けた訳でもない。たまたまそうなって、将維の抑えが利かなかっただけだろうが。事故みたいなもんだ。いいじゃねぇか、あいつと初めてそうなったんなら大騒ぎするのも分かるが、二回目だろ?」
維月がぷんぷん怒って言った。
「あなたって私の夫なのにほんとドライよね。まあ月だから、体がなんとかってどうでもいいことなんだろうけど。違うの、維心様がどう言うのかと思うと、将維が心配で…心を繋がなかったらわからないことだけど、維心様は定期的に繋ぎたがるから…。将維の気持ちもわかるし、私、どうしたらいいのか。」
十六夜は困ったように笑うと、維月の肩を抱いた。
「どの道分かることだから、言っておくって?…いや、聞かれたら言えばいい。お前は気にするな。維心だってわかってるんだよ、心のほうが大事だってことはな。だから心を繋いで見たがるんだからよ。だがなあ、オレみたいに最初から体がない生命体ならいざ知らず、龍だからなあ…。将維と争いにならない為にも、とにかく黙っておけ。将維には釘を刺して…てか、お前が言えないなら、オレが言っといてやろうか?」
維月は首を振った。
「私が言うわ。でも…確かに、今度は厳しく言ったほうがいいかも…。あの子が仕事も臣下の統率も頑張っているから、つい仕方がないかと流されてしまったけれど。一度感情のスイッチが入ると、龍って抑えがきかないのよ…維心様もそうだから…。」
十六夜はため息を付いて頷いた。
「知ってるよ。戦の時も見てた。激情で一気に攻めなきゃ維心の性格であれだけの神を殺すなんて出来ねぇよな。じゃあ、オレも気を付けて見てることにするよ。お前と二人きりになりそうになったら、オレが行く。それでそんな状況にはならねぇだろう。」と、ふと顔を上げた。「…ああびっくりした。あいつほんと維心に気が似て来たんだよ…いつも維心かと思う。だが、将維だ。戸の外に来てる。」
維月は振り返った。今日は起きるのを待たずにこちらへ帰って来た…肝心の話が中途半端で…。
ためらいがちに、戸が開いた。
「邪魔をする。入っても良いだろうか…?」
十六夜が答えた。
「ああ、いいぜ。入りな。」
将維は戸を開けると、こちらへ歩み寄って来た。十六夜は微笑した。
「お前ほんとに維心そっくりだな。気の区別が付きにくくなってて焦る。で、なんの用だ?」
将維は維月を見た。
「話している所悪いんだが、母に話があって。」
十六夜は、維月を見て頷いた。
「そうか。じゃ、オレは庭にでも出てる。済んだら呼んでくれ。」
十六夜は立ち上がって、すいっと飛んで出て行った。十六夜は出て行っても、見てると言ったからには、こちらを見ているはず。維月は将維に向き直った。
「謝る為に来たのだ。」将維は言った。「我は…正気を失ってしもうた。本当にすまなかったと思っていまする。」
維月は戸惑っているような将維があまりに不憫で、厳しく言うつもりが、出た言葉は気遣う言葉だった。
「…それだけ我慢して来たということでしょう?龍の血は元々激しくて…それを抑えるのに、維心様だっていつもたいへんな苦労をされていたの。ましてあなたはまだ50歳少しにしかならないのに。本当は成人するまで、そんな激情とは無縁の宮の中で静かに暮らすものなのに…。ごめんなさい。愛していないのではないのよ、将維。わかっているでしょう?」
将維は苦笑した。
「はい。子として…ですが、蒼とはまた違う気持ちで想ってくださっている。我にはわかっています。」と、その頬に触れた。「わかっているのです。ですから、つらそうな顔はなさらないでください。我は大丈夫ですから…。」
こちらを気遣う将維の首に、維月は抱きついた。こんなにいい子なのに…望みを叶えてあげられたらいいのに…。
「将維…愛しているのよ。形は違っても…」
将維は維月を抱き留めて、頷いた。
「はい。我も愛しております。」
維月は将維の頬に頬を摺り寄せた。将維はホッとしているように息を付くと、同じように頬を摺り寄せ、言った。
「…これからは、あのようなことはないように致しまする。必ず守りまする。お気を煩わせることのないように。お許しがあるまでは…。」
維月は頷いた。
「わかったわ。さあ、これを最後に、今度の事は忘れましょう。」
維月は将維に口付けた。将維はそれを受けて、気が安定して落ち着いて行くのを感じていた…大丈夫、自分は演じ切れる。子としての自分を、これまで通りに…。
十六夜はそれを遠目に見て苦笑した。どう見ても、維心にしか見えねぇ…。将維、お前はつらいな…。
朝日はもう、高く昇ろうとしていた。
昼過ぎ、蒼は驚いて叫んだ。
「…維心様!」
維心は、遠慮がちに蒼の居間の入り口に立っていた。本来なら明後日、他の供の龍と共にこちらへ来るはず。なのに今は一人で、侍女達や軍神達にも気取られずにここへ来て、奥の宮のこんな所にまで入って来ている…蒼は、本当に月の宮の防衛は、ほとんど維心には意味がないことを知った。これがもしも敵なら、大変だっただろう。
それよりも、なぜここに維心様が?蒼は慌てて駆け寄った。
「どうなさったのですか、供も連れず。明後日来られる予定でありまするでしょう?」
維心はためらいがちに居間へ足を踏み入れた。
「邪魔をする、蒼よ。」維心は言った。気を抑えている…気配が読み取りにくい。「我は維月に…その、話があって。」
蒼は苦笑した。僅かな間も我慢が出来ないのか。
「仕方ないです、来てしまったのですから。そんなに気を抑えなくてもよろしいですよ。母さんは気取っても怒ったりしません。今は瑞姫のところに行っておりますが、ご案内しましょう。」
蒼は侍女に頷き掛けた。侍女は頭を下げて先触れに行く。蒼は立ち上がって、維心を伴って歩いた。
「それにしても、今回はたくさんの龍達が来て、こちらも華やいでおりますよ。将維はこっちの宮の女達には絶大な人気を誇っておりますし…義心も同じくです。少し浮き足立っているような気もしなくもないですけど。」
維心は笑った。
「ほう?あやつはそのように人気があるのか。想像もつかぬ。」
蒼はフフッと笑った。
「将維は維心様にそっくりであるのに、穏やかで誰にでも優しいですからね。よく聞いてみると、結構キツイ一言を放っている時もあるんですけど、許されるっていうか。」
維心は頷いた。
「それは得をしておるの。」
目の前の回廊から、維月が慌てて走って来る。侍女から知らせを受けたのだろう。
「蒼!維心様が…?」
「母さん!」と蒼は苦笑しながら後ろを振り返った。「来ちゃったんだって。遠慮して気も抑えちゃってるけど。」
維月は不思議そうな表情で見ている。そんな維月に、維心は手を差し出した。
「おお維月…我はどれほどに主に会いたいと思うておったか…。」
維月はまだ維心をじっと見つめている。蒼は維心の様子に、相変わらずだと苦笑した。
「維心様の対へ行ってもらっても良いです。もう、準備は出来ておりますので。」
維心は少し黙ったが、首を振った。
「いや…そこに見えておる北の庭へ出ようぞ。」と維月の手を取った。「さあ、維月。」
維月は戸惑いがちに頷いた。蒼はそれを見送ってから、自分の居間へと戻って行った。
将維は、その知らせを学校の図書館で瑞姫から聞いた。
「なんと申した?父上が?」
瑞姫は頷いた。
「そうですの…我がおばあ様とお話ししておりましたら、侍女がそのように申して入って参りまして…お母様は慌てて出て行かれましたわ。」
将維は眉をひそめた。父上の気配は、しなかった。将維はなぜか胸が騒ぎ、踵を返すと、蒼の居間へと向かった。
蒼は、そこで書物に目を通していた。将維は言った。
「蒼、父上が来られたと聞いた。本当であるのか?」
蒼は頷いた。
「さっき供も連れずにそこに控えめに立ってらしたんだよ…よっぽど恥ずかしかったのか、気取られないように気を抑えて、気配を隠して。今、母さんと北の庭へ出ているはずだけど。それがどうかしたのか?」
将維はもう一度気を探った。そして、顔色を変えた。
「…父上ではないぞ。」将維は駆け出しながら言った。「我と全く違う気だ!」
「ええ?!」
蒼は驚いて将維を見たが、既にその姿は消えていた。父が居らぬ今、我が守らねばならぬものを!将維はその気を北の庭の中に探った。
その少し前、維月は維心に手を取られて北の庭へ出ていた。なんだか、お手の感じがいつもと違う…。それに、いつまでも気配を隠していらして変だ。維月は維心に問うた。
「維心様…?何かありましたのでしょうか。」
維心は首を振った。
「何も。ただ主に会いに参っただけよ。」
維心は突然に維月に口付けた。維月はびっくりしてそれを受けたが、違う。やっぱりこれは違う…。うまく言えないが、将維のほうがまだ維心様だ。そして、維月は慌てて唇を離し、左手を見た。…指輪がない。
「…誰?!」維月は後ろへ退いた。「あなたは維心様ではないわ!」
相手はため息を付いた。
「…もうバレてしもうたか…まだ口付けただけであるのに。」と相手は見る間に金髪金目になった。「主に会いとうて参った。ここなら維心は居らぬゆえな。」
「箔炎様!」
維月は叫んだ。そうだ、箔炎様も力のある神…今まで知らなかったが、炎嘉様や維心様の友人なのだもの!
「こちらへ、維月。」箔炎が言うと、維月はそちらへ引き寄せられた…気の力だ。「気取られたとあっては、もう時もないであろう。今一度我にその唇を与えてもらおうぞ。」
維月は顔を背けた。箔炎様がこんな所にまで来るなんて…!箔炎は難なく維月に口付けた。維月が十六夜を呼ぼうと思った時、何かの力がグイと自分を持ち上げるのを感じた…目を開けると、将維が維月を抱えて浮いていた。
「将維!」
将維の目は、青白く光っている。箔炎は驚いたようにそれを見上げた。
「維心…!?主、こんなに早くここへ…」
将維は険しい目で箔炎を見た。
「我は将維、父ではないわ。箔炎殿、このような所業、許されると思うてか。」
箔炎はじっと将維を見ていたが、フッと笑った。
「そうか、主、それは母であるぞ?その気…間違いなく維心が維月を取り返しに来た時と同じもの。」と、将維に背を向けた。「やってられぬわ。ほんに敵の多いことよ…維心が来るのを感じる。我は去ぬ。維心を二人も相手に出来ぬわ。」と維月をチラリと見た。「またの、維月。我は諦めぬ。機を待とうぞ。」
ものすごい気が舞い降りて来るのが分かる。箔炎はその場から、一瞬のうちに消えた。
蒼が息を切らせてそこへたどり着いた時、気を激しくわき上がらせた維心がそこに到着したところだった。
「…維月は?!」そして将維の手にある維月を見て、ホッと胸を撫で下ろした。「おお維月…!よかった。我は気が気でなかったぞ。将維が居って助かった。」と、いつの間にか側に浮いていた、十六夜を見た。「主は何をしておるのか。あんなものを易々と中へ入れおってからに。その上ただ見ておるとはどういうことよ。」
十六夜はふんと横を向いた。
「結界を抜けたのは気付かなかった。気付いて来てみたら、将維が助けてたし、オレの出番はないかなと。お前が近付いてるのも知ってたしな。」
維心は地上に降り、将維から維月を受け取った。
「もう良いわ。我はここへ来たし、もう維月の傍におる。離れておると、気が気でないわ。」と、維月の髪に頬を寄せて、呟いた。「…聞かねばならぬこともあるしの。」
維心は、そのまま何も言わずに自分の対の方へ歩き出す。十六夜は、その後ろに付いて歩いた。
維心の対の部屋へ入ると、維心は十六夜を振り返った。
「…なぜに主も来るのよ。我は維月に話があるのだぞ?」
十六夜は首を振った。
「何を話しに来たのか分かってるぞ。お前が暴走しないように見張っておいてやる。お前は将維よりタチが悪いんだよ…感情を抑え切れねぇだろうが、こと維月が絡むとな。」
維心は眉を寄せてそっぽ向くと、維月を寝椅子に座らせ、自分も隣に座った。それを見た十六夜が、前に座る。
「そんなことよりも」維心は口を開いた。「結界をなんとかしろ。箔炎はどんな結界でも超えて一瞬にして移動することが出来る…だが、変遷する結界には入れない。我の結界は常に同じに見えて違う。刻一刻と変化させて波長を合わせられないようにしているのだ。ゆえに誰も潜入出来ぬのよ。主は一定であるから、どんなに強い結界であろうとも、箔炎には抜けられる。あやつでなくても、同じような能力を持つ者なら抜けて来ようぞ。心せよ。」
十六夜は感心した。
「それでお前の結界は動いて見えるんだな。わかった、やってみよう。」
意外にも素直な返事が返って来たので維心は驚いたが、また表情を引き締めて維月を見た。
「維月」と、両手を取った。「主が我を見分けたのを、飛びながら見ておったぞ。」
維月は頷いて、ちらっと維心の左手を見た。ちゃんとそこには、結婚指輪があった。
「はい。おかしいな、とは思っておりましたが…すぐに気付かずに申し訳ございませぬ。」
維心は首を振った。
「よい。無事であったのだからな。」と目を伏せた。「…将維が、居ったゆえ。」
維月は、ピクッと反応した。維心様…きっと、私の気をずっと読んでいたのだわ…。ならば、昨夜のことも分かったはず。きっとそれを聞きたいのに違いないー。
維心はじっと維月の目を見ている。維月はその目を見返した。維心はしばらくそうやって見つめていたが、下を向いてため息をついた。
「…もうよい、あれは済んだことよ…我の分身であるしの。我も止めなんだ。止めようと思えば出来たものを。」
維月は目を丸くした。
「維心様…?」
維心は顔を上げ、思い切ったように言った。
「我はずっと主を通してこちらを見ておった。なので昨日のことも何がどうなってそうなったのかも、知っておる。主は見る時は言えと申していたのに、我は言わずに見ておったのよ…なので、もうよい。気に病むでないぞ。」
維月は下を向いた。確かに、維心様はいつでも私の目から、もしくは他の人の目からものを見ることが出来る…それを知って、見る時はおっしゃってくださいと申し上げた。でも、昨日はそのまま見ていたのだ。ならば、きっと悩まれたはず。こちらへ来るべきなのか、そのままにすべきなのか…。
維心様は、そのままにすることを選ばれたのね。
「維心様…昨夜そのようなご決断を。」
維心は維月を抱き寄せた。
「だがの、我はやはり譲位しても主を置いては行かぬぞ。良いな?」
維月は涙目になりながら頷いた。
「はい、維心様。私が共に参るのは、維心様でございますから。」と維心の頬に触れた。「あちらの世に参るのも、共でございましょう?」
維心は微笑んで、涙が零れ落ちそうな維月の目の横に唇を寄せた。
「そうよの」と十六夜をちらりと見た。「…まあオマケも付いて来るがな。」
十六夜はフフンと笑った。
「オレは維月と一緒に行く。どこにでもな。何度も言うが、オレと離れたいんなら、維月を諦めろ、維心。」
維心はしっかりと維月を胸に抱き直して、十六夜に背を向けた。
「そう何度も言わずともわかっておるわ。主も連れて参ると言っておるではないか。」維心は維月に視線を戻した。「それより我は主に会いとうて…やはり一夜も離れられぬわ。」
「ストップ!」と十六夜が立ち上がって二人の間に割り込んだ。「あのな、維月は昨日里帰りしてから、オレと時間がほとんど取れてないんだよ。お前は毎日一緒に居るんだから、ここに来てる時はオレを優先だ、維心。さ、維月、行くぞ!」
十六夜は維月を引っ張って歩き出した。維月は維心を振り返った。
「でも、十六夜!」
「明後日まで、顔見るだけで我慢しろ!…明後日は譲ってやるから。」と、維心を見た。「オレはなんか間違ったことを言っているか?」
維心はグッと黙ると、渋々頷いた。
「確かに、そうだ。わかった。しかし、明後日は我に。」
十六夜は苦笑して維月の手を引いて、歩き出しながら言った。
「ああ、それは約束してやる。」
そして、維心の対を出て行った。




