妥協点
十六夜と維心は、将維の対へ続く回廊の前で立っていた。義心から報告を聞き、維心が慌てて洪を呼んで中へ行かせたのは、ほんの10分ほど前だった。
「なんだって待たなきゃならねぇんだよ。お前の宮だろうが?入りゃいいじゃないか。」
維心が首を振った。
「ここは将維の対だ。あやつは第一王位継承者。いくら我の宮とはいえ、入れるからと勝手に入って行くのは礼に反する。まして、我も皇子の頃やっておったが、あやつの対には別に己の結界を張っておる。破るなど宣戦布告するようなものよ。」と十六夜を見た。「ゆえに主がぽんぽん我の結界をすり抜けて入って来るのは礼儀に反するのだぞ?まあ、もう慣れたが。」
十六夜は手を振った。
「あんなもの結界なんて思ってねぇよ。いつも気付かないうちに抜けてんだからな。とにかく、早く機嫌を直さねぇと、あれはヤバい怒り方だった。気になって仕方がねぇ。」
十六夜がそこまで言うと、将維が洪と共に戸から出て来た。維心はそちらを向き直った。
「父上。」将維は頭を下げて、維心を見た。まだ、立ち合いの服装のままだ。「入って来られるのは構いませぬが、母上は会わぬとおっしゃっておりまする。なのでお話に参りました。」
維心が答える前に、十六夜が言った。
「そんなことを言ってるんじゃねぇ。とにかく話さなきゃならねぇんだ。」
将維は首を振った。
「母上は約束を違えたとおっしゃっておられます。前にぶつかり合った際に約したことだと。」
洪が横から言った。
「立ち合うぐらいなら良しと思われておったらしいのですが、罵り合いながらなど、子供のケンカのようだと…。頭が冷えるまでは戻らぬとおっしゃっておいでです。」
維心は眉を寄せた。
「ケンカなどと…あれは立ち合いの勢いであっただけのこと。我はもう、里帰りをするなとは言わぬのに。」
将維はため息をついた。
「母上にはそのように申し上げます。ですが…今はおそらく駄目でしょう。」と十六夜を見た。「母上が大変に頑固なかたであるのは、お分かりでしょう。」
十六夜は下を向いた。確かにそうだ。これ以上押しても、余計に意地になってしまうかもしれない。
「…わかった。とにかく、気が済んだら出て来いと伝えてくれ。来週の里帰りには必ず予定通りに迎えに来るからと。」
将維は頷いた。
「わかった。そのように伝えておこう。」
維心が慌てて割り込んだ。
「来週だと?我はこのままだとずっと維月と話せぬではないか。」と将維を見た。「…それより、そのように長い間、維月をここに置く訳には…、」
維心は将維を見て黙った。洪が居たからだ。しかし、洪は下を向いた。
「…王、ご心配には及びませぬ。将維様は、約したことは違えませぬ…我が一番よく知っておりまする。」
将維と維心が驚いて洪を見た。
「主…?」
維心の問いかけに、洪は頷いて、声を落として言った。
「知っておりまする。一年ほど前、将維様が月の宮で王妃様を一夜だけ妃になさったこと。だからこそ、将維様はご自分の気が強過ぎて、他の女を殺してしまわれるかもしれぬのを知られたのでしょう。我は…しかし、王がそれを許されたことに感銘を受けたのです。なので将維様がそうなさっておるように、我も内に秘めて何も申し上げませんでした。我は力が強くない分、気を読むことには長けております。将維様が王妃様の月の命の一部しか継いでおられず、ほとんどが王であるのも知っております…。」
維心と将維は絶句した。あれだけ知られぬようにと秘していたのに。黙っていても、やはり洪ほどの側近となると、わかってしまうものなのか。十六夜がフンと横を向いた。
「あんなこと、それがなんだってんだ。オレが怖いのは、維月の心の中にオレの存在が無くなることだ。体じゃねぇ。それにお前ら今じゃほとんど同じじゃねぇか。オレは別にどっちでもいい。反対はしねぇよ。維月が将維を選ぼうが、維心を選ぼうが、オレには大した違いはないからな。維月にもお前が選べと言ってある。オレが心配してるのは、維月がつらい思いをしないかってことだ。あいつが辛いなら、全力で取り返すつもりだがな。」と維心を見た。「だから、お前があいつに辛い思いをさせたら、オレは将維がいいって維月に進言するぞ。それを聞くかどうかは維月次第だが、思い当たることがあるなら、改めたほうがいいんじゃないか?下手な嫉妬は命取りだぞ?里帰りするなとか、誰の傍へ行くなとか、そんな制約されるのは神ぐらいのもんだからよ…人は自由なんだ。忘れるなよ、あいつは元々人なんだからさ。」
洪は慌てて十六夜に言った。
「そのような!王妃様はよく努力をされておられまするし、王も他の神の王に比べたら、それは王妃様をご自由にさせておられまする。普通では有りえないほど、寛大であられるのに…。」
十六夜は手を振った。
「ああ、別にいい。オレは今までと変わりないだけだ。じゃあ、帰る。」
十六夜はくるりと踵を返すと、歩き出した。維心は呼び止めようとしたが、思い直して黙った。将維は、回廊の方へ維心をいざなった。
「父上、こちらへ。一度中へお越しになられてはいかがでしょうか。その上で我も母上をもう一度説得してみまする。十六夜があのように申すのはいつものこと…お気になさることはございませぬ。」
維心は迷ったが、頷いた。そして将維について、将維の対へと入って行った。洪もそれに続いた。
回廊を抜けると、広間があり、その横の応接間に将維は維心を連れて入った。
「こちらでお待ちくださいませ。我がお連れします。」
将維は一人そこを出て行く。
維心はそこに残されて、懐かしくその対を見回した。ここは自分が皇子の頃に使っていた対。あれから何も変わらない。ここへ入ることは、ついぞなかった。ここに居た頃は、自分はいつ刺客が現れるかと気が気でなかった…そして現れた刺客を、片っ端から斬り殺した。あまり良い思い出はない。
そこの窓から見える北の庭を見ながら、維心は思いを馳せていた。
将維が、居間へ入って来た。
座って窓の外を見ていた維月は、ハッとして将維を見た。将維は維月に歩み寄った。
「十六夜は、来週予定通り迎えに来ると伝えよと」と維月を引き寄せた。「父上は…今、応接間のほうへお連れしました。お話したいようでしたので…我からそのように申し上げて。」
維月はため息をついた。
「…怒ってらっしゃる?」
将維は首を振った。
「いいえ。ただ、心配なさっておいでのようでした。」と維月を見降ろした。「どちらにしても、ずっとこちらにいらっしゃる訳には参りませぬ。我も…自分の結界の中だと、気が大きくなりまするし。このまま傍に居れば、我こそ約束を違えることになってしまう。」
維月は心配そうに将維を見た。
「将維…もう私のことなど、思ってもないのだと思っていたのに…。」
将維は苦笑した。
「あの頑固な父の複製のような我が?」将維はため息をついた。「有り得ませぬ。ですが、この外へ出ればまたいつもと同じ生活をいたしまする。ご安心を。」
将維は維月に口付けた。
「さあ、参りましょう。我はこれで我慢致しまするゆえ。父上に、そのように気強くなさってはいけませぬ。」
維月は頷いた。そして、将維について応接間へ歩いた。
維心は、気配に振り返った。
維月が、将維に連れられてそこに立っていた。維月はこちらをじっと見ている。維心は立ち上がった。
「維月…」
維心が、無駄だろうと思いながら、手を差し出す。驚いたことに、維月はその手を取った。維心はホッとして、維月を引き寄せた。
「維月、すまぬ。我はつい、意地になってしまって…十六夜相手に、あれほど手こずるとは思っていなかったゆえ。しかし、諍いを起こしたつもりはないのだ。あくまでも立ち合いで…。」
維月は頷いた。
「はい…私も意地になってしまいました。申し訳ございませぬ。でも、前の騒ぎが思い出されて、気が気でなかったので…。」
維心は頷いた。
「もう良い。我らも悪かったのだ。さあ、機嫌を直して、部屋へ帰ろうぞ。我も主と話したいのだ。」
維月は将維を振り返った。将維は微笑した。
「母上、意地を張っておられてはいけませぬぞ?」
維月はそんな将維を見て、頷いた。そして維心に手を取られて歩き出しながら、将維を振り返り振り返り出て行った。
二人が出て行ったあと、将維は視線を落として、踵を返そうとした。洪が言った。
「…なんと将維様は、我慢強いかたでいらっしゃいます…我は今まで、それを横目に見てどれほどに…。」
洪は涙ぐんで、下を向いている。将維はそれを見て苦笑した。
「洪よ、まるで己のことのようではないか。我は大丈夫よ。もう慣れた。今日は良いほうよ…この手で触れたしの。」将維は自分の右腕を見た。「…父上は1700年以上もお一人で耐えられた。我はそれに比べたら良いではないか。まだ齢50年にしかならぬ…それでもう、愛するものが傍におるのよ。恵まれておるわ。」と洪を見た。「主ももう下がれ。」
洪は頭を下げた。
「では、失礼いたします。」
洪は出て行った。将維は自分の居間へ戻って、物思いに沈んだ。
維月は維心と共に居間へ戻ると、居間の椅子へ腰かけ、話し始めた。
「維心様、本当を申しますと、本日はあちらに滞在しとうございます。」
維心は眉を寄せ、維月を見た。十六夜が言っていたことが頭をよぎる…どちらか選らぶ…。
「…将維が良いと申すか。」
維月は首を振った。
「いいえ。私はこの機会に炎託と話もしたいと思っておりましたし、将維の話も聞いてあげたいと思っておりました。なのに、維心様がいらして、将維が戻らなければならないと言うから…確かにこんな怒ったままで引きこもるのもと思ったので、戻って参りましたの。母として、少しは話を聞いてやる機会があってもよいかと思いまする。」
維心は視線を逸らした。確かに維月の言う通りかもしれないが、普通の親子とは勝手が違う。だからこそ、自分は維月を将維に近付けずにいたのに。
「では…こちらへ呼べば良いではないか。主がわざわざ行かずとも。」
維月はそれを聞いて、ため息をついて横を向いた。言うと思った。いつもそんなことを言って、私の傍を離れないから…将維は言いたいことがあっても、維心様が聞いているから本音が言えない。私は、あの子がつらくても気取ることも出来ない…。
どう言えば分かってもらえるのかと、維月は袖で口元を押さえて横を向きながら考えた。
一方維心は、維月が気分を害したと思って気が気でなかった。維月は人だった。それは十分に考慮しているつもりなのに。会ってはならぬ者など、人の世には居ないという。確かに将維は息子であるし、維月が望むことは叶えねばならぬのだろうが、だが、違う。あれは自分の分身であるのに。将維が維月を想うているのは確実だ。自分のことは、自分が一番良く分かる。あれが何をしているかなど、あやつの結界の中であればさすがに読み取れない…。
維月が口を開いた。
「維心様…本日が駄目でございましたら、月の宮へ帰る時、あちらへ将維も炎託も呼びますわ。そう言えば紫月も将維に会いたがっておりましたし、ちょうど良いですわ。」
維心は目を丸くした。義心と将維がついて行くなど…!
「そのような。義心だけでも我はどうかと思うておるのに、将維までなど…」
「あら」維月は眉を寄せた。「多いほうがよろしいのではありませんか?だって人数が多ければ、二人きりになることもありませぬ。維心様がご心配なさっているのは、結局そういうことでございましょう?」
維月の目は鋭い。これでうんと言わなければ、今すぐでも月の宮へ飛んで行ってしまう勢いだ。それに、維月の言う通り、人数が多ければ何か起こる可能性も下がる。蒼も居る。紫月も居る。義心も炎託も居て、何より夜は十六夜が居る。だが、十六夜は将維ならいいとか言っていたのだがな…。
これ以上返事をしなければまずいというところまで黙っていて、やっと維心は頷いた。
「…わかった。ではそのようにしよう。…だが我も、数日後には参るからな?それで良いな?」
維月はやっと微笑んだ。
「はい。それでは、そのように。」
維心も妥協しながらもやっとホッと落ち着き、維月を抱き寄せた。それにしても、なぜにこのような苦労を背負わねばならぬのか。王とはみんな、妃にこれほど神経を使っておるのだろうか。やっぱり我には一人で充分だと、維心は心底思っていた。




