さ迷う月
月は紅く色を変え、上空の気は激しく乱れて渦を巻いていた。維月と十六夜は維心の居間へ運ばれ、並んで寝かされていた。意識はなくとも、十六夜の手は断固として維月の手を離さず、そうして並べるより他なかったのだ。
二人の命を繋ぎ止めようと、月からはものすごい量の力が、まるで滝のように二人に流れ込んで来ていた。二人共に出血は止まって表面上何の問題もなかったが、身の内では何かが二人の命を奪おうとうごめいて、それと戦う二人の息は激しく乱れていた。
義心が、入って来た。
「王、女の方は命を落としました。」と二人に目を向けた。「こちらは…。」
維心は険しい顔で言った。
「月が何とか保とうと力を送り込んでいる。」と上空を見た。「だが、どこまでもつか分からぬ。気の調整に使っていた力まで動員しているようだが、それでもこれよ。月が居なくなるとどうなるのか、我にも検討は付かぬし、月がどこまで保とうとするのかも分からぬ。全ての力を送り込んで来たら、地は激しく乱れよう。その際の神、人の被害は想像も付かぬ。」
義心は頷いて、短剣を差し出した。
「これは、虎の持っていた仙術を施した短剣です。あの武器庫を襲われた際、賊はこれを持ち出しておったのです…それを偽装するため、わざと他の刀も持ち出した。我がこれのことを見落としていたのが原因です。」
維心は首を振った。
「我も忘れておった。」と、月鈴の持っていた方の短剣も見た。「…同じ術ぞ。確か前に月の宮で我を襲おうとした折り、これは少し傷を付ければ身の内より蝕まれて命を落とすと聞いた…今二人は危険な状態ぞ。月でなくば、今頃はひとたまりもなかった…。」
維心は維月を見た。やっと手元に戻って来たのに。我を許すと言って微笑んでいた。それが一瞬のうちにこのような事に…。
十六夜が眉を寄せた。維月の方の気が急速に落ち込んで行く。維月の息が少しずつ力なくなっている…と、十六夜から、維月の方へ気が流れ出した。
維心は思った。十六夜は戦っているのだ。維月を守ろうと、意識はなくとも必死に戦っている。
箔炎が言った。
「…我の責ぞ。たかが小娘と侮って、厄介払いにあのようなものを与えたばかりに…維月ばかりか、月までもこのような事に。」
維心は箔炎を見た。
「力を貸せ、箔炎。その小娘も何かに拐かされて覚醒し、そしてあのような行動をとりおった。これは我と月を始末しようとした輩の責ぞ。捕らえた奴らの他にも、残党は居るはず。まずは我は、奴らの記憶を根こそぎ奪って片っ端から見て全容を調べる。主は巻物の山から、これの解き方を探せ。一刻も早く!まだ、月が二人を保っておる間に!」
箔炎は、ためらいがちに二人を見たが、頷いてくるりと踵を返して走り去った。それを見て維心は維月の頬にソッと触れた。
「死ぬでないぞ。逝く時は共よ。」
そして義心に頷き掛け、地下牢へと早足に向かった。
十六夜は維月と二人、真っ暗な空間に浮いていた。
下を見ると、何人かの人や神が、己の「門」に向かって歩いているのが見える。ここは、黄泉への道の空間なのだと、十六夜は思った。
維月が身を震わせて十六夜に身を寄せる…おそらく、ここで過ごした辛い時を思い出したのだろう。十六夜は維月を抱き締めた。
「オレが一緒だ、心配ねぇ。お前を一人、こんな所へ送らず済んでよかった…。」
維月は黙って頷いた。十六夜は、最後にツクヨミが笑いながら自分を刺していたのを思い出した…オレが死にたいと思っていると思ったのか。辛い想いをしていると…。
ふと、下を見ると、暗い門の前に、月鈴が立っているのが見えた。門の前で回りを見回している。門の中は暗く、前に見たことのある明るい場所ではなかった。オレを刺したからか…?十六夜は顔を背けた。黄泉の理には、自分も太刀打ち出来ない。その証拠に、自分達はここでこうして浮いている…。
ふと、月鈴が叫んだ。
「お月様!どこに居るの?今度こそ共に逝くはずなのに!」
十六夜が見かねて声を掛けようと口を開くと、人影がそれを止めた。
「我が行く。」
張維…維心の父だった。ここの番をしていると聞いていたが、今もそうなのか。
張維は月鈴の所へ降りて行った。
月鈴は張維に気付き、たじろいた。
「あなたは…番人様。」
張維は頷いた。
「月は主と共に逝かぬ。逝く場所が違うからだ。それに本来不死であるはずの月を、術でこのような場所へ連れ込んだ罪、軽くはないぞ。」
月鈴は怯えた目を向けた。
「それは…楽にしてあげるためです!あのような結婚を強いられて辛そうな月を、今度はこちらで私が幸せにしてあげるのです。」
張維は険しい顔で言った。
「それは月が望んだ事ではない。独り善がりな判断で、今地上は危険な状態になっておる。月が命をとりとめようと、全ての力を向けておるため、地の均衡を保っていた力も無くなり、気が激しく乱れこのままでは大惨事になるであろう。…何人の神や人が犠牲になるか、想像も付かぬ。」
月鈴は震えた。まさかそんなことが…。
「ではまだ、お月様は生きておるのですか。」
張維は頷いた。
「今はまだの。黄泉の空間から引き戻そうと、月の力が引っ張りあげておる…そこに。」
張維は上に浮かぶ十六夜と維月を見た。そこには遥か上空から伸びる光りに包まれた二人が浮いている。月鈴はそれを見て叫んだ。
「お月様!」
微笑んで手を伸ばして来る。十六夜は維月を抱く手に力を込めて、顔を背けた。
「…そこには逝けねぇ。オレは維月と戻る。逝くとしても、維月と共に逝く。お前とは逝けねぇよ。言っただろう、オレは維月を愛してるんだ。お前はお前の人生を生きろと。なんでこんなことしやがったんだ。」
月鈴は見上げながら言った。
「辛かったんでしょう?だから共にと。ここが穏やかな所だと知っていたから。」
「穏やか?」十六夜は答えた。「…その中のどこが穏やかなんでぇ。」
月鈴はハッとして門の中を見た。確かに前に行った所とは違う…。張維は言った。
「残念なことよ。何度も転生して真っ当に生きておったのに。此度は楽に過ごせぬ。だが、あのような輩に利用されてこうなったのもまた事実。長くは苦しまずともよいであろう。さあ、責務を果たし、次は真っ当に生きるのだぞ。逝け。」
張維は手を上げた。月鈴の体は宙を舞い、門へと飛び込んだ。月鈴は出ようとしたが、あちらに一度入った者は戻れない。月鈴は門の中から十六夜を見上げた。
「あなたと共になら、どんな場所でもいいわ!こちらへ来て!」
十六夜はそちらを見なかった。門が消え始める。張維は言った。
「仮にあれが死んだとしても、行くのは主と同じ場所ではない。穏やかな所だ。諦めて全て忘れて浄化されよ。」
門が消え行く。
「お月様…!」
その叫びを最後に、門は消失した。張維は十六夜達に寄って来た。
「…早よう戻らねば、影響がすさまじいゆえ地が主達を月から切り離そうぞ。今や月は主らにほぼ全力を注いでおる。時間の問題だ。」
十六夜は途方に暮れた。
「戻るったって、どうすることも出来ねぇじゃねぇか。この術が解けなきゃ、オレらは戻れねぇ。」
張維は苛立たしげに頷いた。
「ほんに人とはなんという術を編み出しおったのか。維心め、早よう何か手を打たねばならぬに、何をしておるのだ。」
維月が小刻みに震えだした。十六夜は眉を寄せた。
「維月…そうか、こいつはオレより力が弱ぇから…。」
十六夜は維月に口付け、直接自分の気を流し込み始めた。維月は青い顔をして、ぐったりしている。十六夜は思った。…維心、早くしてくれ!でなければこいつと二人、先に逝っちまうぞ!
維心は、地下牢にこめられた貴子について来たと言っていた男達の所へ降りていた。維心が封を解いて中へ入ると、一人を除いて思わず後ろへ退いた。それを見た維心は、下がらなかった一人に言った。
「主が首謀者か。炎託であろう。」
維心は手を上げて、全員の姿を現す呪を唱えた。思った通り、鳥の気がする。維心には、全員に見覚えがあった。
「長明の姿がない。ヤツは主付き武官だったはず。別動か。」と義心を見た。義心はすぐに頭を下げて走り去って行く。維心は炎託を見た。「我は急いでおる。月が地の保護をしていた力をも注いであれらを助けようとし始めたゆえ、地が滅びそうなゆえな。あれの解き方を教えよ。」
炎託はフンと鼻を鳴らした。
「知らぬ。殺すなら、さっさと殺せ。」
維心は表情を変えなかった。
「急いでおると申したはず。良い。」と手を翳した。「殺す?我はそんなに寛大ではないわ。記憶をもらう。脱け殻となって生きるが良い。」
炎託は目を見開いて避けようと身をよじった。だが、維心は容赦なく全員に力を向けて一気に記憶を抜き取りに掛かった。
「やめろ!本当に知らぬ!」炎託は叫んだ。頭が上に引き抜かれるようだ。「あれは解けぬ術と聞いた…虎の見付けた術だ!解き方は虎しか知らぬ!その虎はもう居らぬゆえ、虎の持っていた巻物を見るより他ない!」
維心はフンと笑った。
「我は全容を知らねばならぬ。主は話すまい…そんな悠長に構えておる暇はないのよ。記憶を見るのがてっとり早いわ。」
何かが引き抜かれて行く。炎託は頭を抱えた。
「やめよ!殺せ…記憶を取るぐらいなら殺せ!」
「なぜにそんな配慮をしてやらねばならぬ。おおそうよ、ぼんやりと意識は残る程度にしておいてやろうぞ。」と維心は目を光らせた。「己が何かも分からず、のたうち回れば良いわ!」
維心は力を込めた。回りの部下達は既に倒れ、意識はない。炎託は維心の手に光の玉がいくつも飛び込むのを目にして、そしてそれが何を意味するかも分からなくなった。
維心はその玉を持って急ぎ居間へ取って返しその途中、義心を呼んだ。義心は軍神達に炎託の別働の仲間を探すよう指示を出し、急ぎ維心の所へ駆けつけた。
「これを取る前に炎託が言っておったのだが、虎がこれに関わる巻物を持っておったらしい。術の解き方はないと聞いておったらしいが、その巻物に解き方が記してある可能性がある…急ぎ西の砦へ参り、虎の墓所に葬った律と真の墓を暴き、懐に巻物がないか調べよ。」
虎の宮に残っていた巻物は維心が全て龍の宮へ運ばせている。箔炎が持ち出させた巻物は今、箔炎が調べている…そして、箔炎が賊から押収して持っていた巻物は自分の手の中にある。この中にもしないとしたら、逃げ延びてあの短剣を持っていた、律と真が巻物を持ち出していたとしてもおかしくない。
義心は頭を下げ、また急いでその場を去った。急がなければ、気の乱れが激しくなって来ていて、上空は飛べなくなってしまう。何より、地が震えて今にも大きく崩壊しそうな感覚が拭えないのだ。
維心は小走りに居間へ駆け込み、十六夜と維月を見た。そして足を止めた…碧黎と陽蘭が、二人を覗き込んでいたのだ。
「…来ておったのか。」
碧黎はこちらを向いた。
「我が子の危機に駆けつけぬ親がおるものか」と前と同じことをわざと言い、また二人に視線を戻した。「だが、今回ばかりは我らにもどうにも出来ぬな。術で自然の理を捻じ曲げていて、我らの力は及ばぬ。これ以上、月がこれらに力を注ぎ続ければ地は崩壊しよう。我は時期が来たら、これらを月から切り離さなねばならぬ。」
陽蘭は横で涙ぐんで立っている。愛おしそうに十六夜を見て、その髪に触った。
「どうにも出来ぬとは…親らしいことは、何もしてやれなかった。」
碧黎が、その肩を抱いた。維心が首を振った。
「そうはさせぬ。」維心は五つの記憶の玉を浮かべた。「なんとしてもこの術を解く。一度に全てを見る。我にはそれが出来るゆえ。最近のものだけを見るので、時間はかかるまい。義心も箔炎も炎嘉も、皆が方法を探っておるゆえ。今少し決断は待て。」
碧黎は維心を見た。
「…長くはもたぬぞ。今は我がなんとか調整しておるが、月の力は想像以上に強い。月は自分とつながる命を保とうと必死なのであろうな。まさかここまで全てを掛けてこれらを留めようとするとは思いもせなんだ。」
天空にある月はさらに血のように赤黒く、大きく見えた。気の放流が上空を渦巻いている。今頃人や神は、訳が分からず不安に空を見上げておることであろう…既に被害を受けているものも居るかもしれない。維心は碧黎に頷き掛けて、意識を玉に集中させようと目を閉じた。




