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決断

貴子(きし)は、共に帰って来た者達と共に、宮近くの房へと案内されていた。何事も維心の命令通りにこなす義心であったが、こればかりは気が重かった。これで、維月様が出て行くなどということはないのであろうか。どれほどにお辛い思いをなさるのか。義心はそう思うと、自分が維月を連れてここを出て、確かに幸せにするのにと、心底思った。一体貴子との間に何があったのかは知らない。だが、人であった以上王と深い仲になっていたということはないはず。

義心は思って、空を見上げた。

ふと、光の玉が驚く速さで横切って行くのが見える。なんだろうと思って見ていると、その後を王がまたすごい速さで飛び抜けて行くのが見えた。

…月は、光になるはず。

義心は嫌な予感がして、自分も飛び上がって必死に後を追った。

しばらく飛ぶと、維心が浮いているのが見えた。光の玉はもう見えない。義心は維心に寄って行った。

「…王、いったい何事でありまするか?」

維心はこちらを向かない。義心は訝しげに維心を見た。

「王?」

そして、維心が涙を流しているのを見て、思わずその場で膝を付く形になった。あれは、維月様か。維月様は、出て行かれたのか…王のあの様子を、どこからか見ていたのか。

義心は悟って、維心に黙って頭を下げると、宮へと取って返した。ついに行ってしまわれた。完全に月になった維月様は、いくら王にでも捕まえることは出来ぬ…。

義心は自分も涙が浮かんでくるのを感じ、急いで屋敷へと戻って行った。

残された維心に、十六夜の声が降って来た。

《あいつは月だと言ったろう。》いたわるような声だ。《これで二人とも、あいつから見捨てられちまったな。過去なんて、捨てちまえばよかった…オレはずっとそればかり思ってるよ。》

維心は、何も考えられなかった。十六夜と同じ。我は貴子を斬ることが出来なかった。縦しんば宮の傍に住まわせようとした…それがそこへ、密かに通うつもりであると思われても、反論出来まい。もしも会いに行っただけだったとして、それでも深い仲になっていないと言って誰が信じるものか。自分の結界内へ入れると決めた時点で、維月が女を囲っているとみなしてもおかしくはない。そして…神の妃ならば、それを許さねばならぬ。維月はそれを許せないからこそ、出て行ったのだ。前々から、そう言っていた通りに…。

《我は、どうすればいい。》維心は力なく言った。《一番失いたくなかった維月を、己のせいで失った。どんな言い訳も聞いてはくれぬだろう。どこに居るのかもわからない。愛しているのに…》維心は堪え切れずに嗚咽を漏らした。《これほどに愛しているのに!なぜに我は貴子を斬らなんだ!なぜに近付くに任せた!我は…もう全てを失った…。》

維心は、ふらふらと宮へ向かって飛んだ。それならば、いっそこの身を黄泉へ送ってくれ。この記憶を消して転生させてくれ。こんな後悔を引きずって、これから先も生きねばならぬのなら…!


維心も、十六夜のように貴子とは会うこともなく、目を向けることも気に掛けることもなかった。

それどころか、結界の内へ入ってから、貴子が再三会うことを望んで宮へ上がろうとするので、維心は結界の外へ出すよう命を出した。それゆえ、貴子は実質1週間の猶予だけを与えられ、結界の外へ居場所を自ら見つけねばならなくなった。

女と見ると維月を思い出し、重くのしかかる記憶に耐えられなくなる維心は、侍女達も男に変え、回りに居るのは男の召使いのみとなった。

それでも維心は奥の間に篭っていることが多く、呼ばれたら出て来ると言った具合であった。最近将維は出掛けていることが多く、宮の業務が進まないので、臣下達は王を日に何度も呼び出さねばならない始末であった。

召使いが奥の間の維心に頭を下げた。

「月の宮の蒼様がお越しでございます。」

維心は顔を上げた。蒼が…。

気は進まなかったが、王がわざわざ出掛けて来たのだ。維心は居間へと出て行った。

「維心様、ご無沙汰致しております。」

蒼は出て来た維心に言って、驚いた。驚くほどにやつれている。もしかして、寿命が近付いて、老いが来たのかと思ったぐらいだ…しかし、維心の寿命は碧黎によって定められておらず、それが来るはずがないことは、蒼は知っていた。

維心は、維月に良く似た蒼の目を見て思った。やはり、会わなければよかった…。

維心は蒼から目を逸らした。

「…蒼、久しいの。何用か?」

蒼はその様子に気の毒に思った。十六夜から聞いている…維心様は、十六夜と同じように、過去の女性が戻って来たのを拒めずに居たのを見られて、そして、誤解されて、母さんから身を退くと言われてしまった…そして、もう戻って来ないのだと。連れ戻そうにも居場所は分からず、そして自分の責であるので無理強いすることも出来ず、月であるゆえ掴み所もなく、完全に手を離れてしまったと…。

蒼は、維心に頷いた。

「はい。これは維心様次第であるのですが…母さんが居る場所を、知る術がございます。」

維心は、はたと顔を上げた。だが次の瞬間、その目は光を失い、首を振った。

「もう、無理なのだ。維月は我の元へは戻らぬ。我が…維月の信頼を失のうてしもうたのでな。」

蒼は首を振った。

「それでは、母さんを他のかたにお譲りなるのですか?…オレは別に構わないけど。」

維心は眉を寄せた。良いはずはないではないか。譲りたいはずはない。だが、今はもう我のものではない。譲る以前の問題として、それは維月の選択なのだ。

「蒼、もう我にはなんの権利もないのだ。それは維月の決めることだ。」

維心があまりにも消沈しているので、蒼はキッと維心を見た。

「…十六夜も、母さんに会いに行く決心をしたのに?」維心は、驚いて蒼を見た。なんだって?「将維が、毎日ほど行っている房があったので、もしかしてと思って、オレが行ってみたのです。やはり、将維は見つけていた。人型の母さんは、将維の説得で、あの房へ留まっているのだとか…これを逃したら、また別の所へ移動してしまうかもしれません。だから、十六夜は会いに行く決心をしたのです。どうせ失っているのだから、これ以上悪いことは起こらないと言って。」

維心は下を向いた。十六夜は、決断したのか。しかし、我には…維月にこれ以上拒絶される記憶を遺したくない。辛すぎる…。

維心が黙っているので、蒼は立ち上がった。

「失礼を致しました。」蒼はわざと言った。「維心様は、そこまでは思われていなかったのですね。オレの勘違いだった。では、帰ります。」

蒼が頭を下げて出て行く。維心は、それを一瞬止めようとしたが、声が出せず、そのままその背中を見送った。

将維が、維月を探していたとは。

維心は、自分にそっくりな、自分の分身のような将維を思い浮かべた。あれは、諦めなかったのだ。元より母とは思っていなかった維月を、我に愛想を尽かしたと見るや、すぐに探して追い掛けて…。

あれならば、連れ戻すのかもしれない。維月を、再びここに。だが、それを冷静に見ることなど我には出来ぬ。将維に奪われるなど…。

維心はまた、後悔の念に襲われて頭を抱えた。我が悪い。何もかも我が…!十六夜のように、勇気が出せぬ…。

ふと、将維が飛び立って行くのか見えた。…維月の所へ行くのか?

維心は、考える暇もなく、気配を消し、それを追って飛んでいた。


将維が維月を見つけたのは、まったくの偶然だった。

必死であちらこちら探して行くうちに、人の世にまで足を延ばした。そこで、あの日の光の玉の目撃談を聞いたのだ。

それがどの方向へ飛んだのかを、蒼の所のインターネットなどで調べているうちに、いくつかの写真が出て来て、軌道がわかった。きっと、維月はあの辺りにいる…。

将維は、毎日その辺りを、しらみつぶしに探して回った。自分の気は父と似ているので、気取られて逃げてしまってはいけないと思い、気配を隠して毎日歩き回った…飛んでは、また警戒されると思ったからだ。

そして、ある日森で木イチゴを摘んでいた維月と出くわし、逃げ出そうとするのを必死で諭して、あの房へと案内された。

維月は、案外に落ち着いた生活をしていた。たまたま見つけた房を掃除して、そこを月の結界で小さく囲んで住んでいた。それでも、たまに夜になると下等な神達が覗こうとうごめいているのがわかったりして怖いのだと維月は言って、寂しげに笑っていた。

将維は、出来る限り夜維月の所へ行って、過ごすことにした。

もちろん警護のためで、維月を我がものにしようと思っていたのではない。なので小さな房のカーテンで仕切られた隣の部屋で休み、カーテン越しに通る声を聞きながら、二人で眠りに落ちるまで話していたりしていた。

そのうちに、義心も将維のそんな様子に気づき、維月を見つけた。そして、そう度々宮を留守にする訳には行かない将維に代わって、宿居するようになった。こちらも手を出そうなどとは考えておらず、やはり隣の部屋で眠りにつくまで話しているといった具合だった。

維月は、とても嬉しそうに迎えてくれたが、だがしかし、寂しそうでもあった。将維と義心は、そんな維月をなんとか出来ないかと、いつも思って見ていたのだった。


木戸の辺りに、気配がする。維月は、戸を少し開いて見た。

「…やはり維月か。」

そこには、炎嘉が立っていた。維月は驚いて戸を開けた。

「炎嘉様!なぜにこちらが…。」

炎嘉は維月の手を取った。

「頻繁に将維や義心の気がここへ来るのを、砦から感じておった。こんな結界外へ、何をしに毎日来るのかと思うておったが…主が宮から消えたと聞いて、合点がいったのよ。」炎嘉は維月を引き寄せた。「…なぜにすぐ、我の所へ来なんだ。我は主の夫の一人であると思うておったのに。」

維月は、下を向いた。

「炎嘉様…私は、誰とも会わずに過ごそうと思っておったのです。なのに、将維に見つかってしまって…あの子は私を心配して、宿居してくれるようになりました。そして義心までそれに気付いて、二人で交互に来てくれるようになったのです。なので、これは本意ではないのですわ。」

炎嘉は維月を見た。

「我は頼りにならんか?…今は王ではなくとも、我には力がある。我なら、主を守れようぞ。それに、前世であんなにハメを外した我だ、今生では主一人を守っておるであろうが。我と共に参れ。我が主を必ず幸福にしてやろうぞ。」

維月は困ったように俯いた。炎嘉様は嫌いではないけれど…でも、もう私は誰かと結婚したくない。信じられなくなる…長い年月一緒に居る神の世では、そんな長い間お互いを守って生きるのは、きっと難しいのだもの…。私にはこれ以上、愛していた人が他の人を選らぶ様を見るのは耐えられない…。

維月が涙ぐんだので、炎嘉はため息を付いた。

「…仕方がないの。まだ、そんな気にはなれぬか。」

維月は頷いた。

「申し訳ございません…。」

炎嘉は維月を抱き締めた。

「良い。我が性急すぎた」と維月に口付けた。「我は待っておるぞ。主が幸福になるのがまず一番であるゆえな。」

維月は涙目で微笑んだ。炎嘉はもう一度維月を抱き締めると、南の砦の方へ飛び立って行った。

そこへ、将維が着いた。

「…今のは、炎嘉殿では?」

将維が、炎嘉が飛び去った方向を見て言った。維月は頷いた。

「あなた達が来てくれる気を感じたのですって。それで訪ねてくださったの…。」

将維は苦笑した。

「我が来るのは、よし悪しであるのですね。蒼にも知られてしまったし。」

維月は困ったように微笑んだ。

「…いいのよ。また、住むところを探せばいいから。」

将維は、不安げに言った。

「急に居なくならないでください。我は、それでも探しだしまする。」

維月は考え深げに遠くを見た。

「そうね…。」


維心は、木の影からそっと見た。

維月は、将維を見て微笑んでいる。そしてその愛おしい気に、維心は胸が震えた…なんと愛おしいのだ。何を失っても、失いたくないと思っていた女。その姿は相変わらず美しく、手を伸ばせば届きそうなその距離に居て、微笑んでいる。間違いなく自分のものだった。愛してくれていたのに…。

維月がふと、こちらを向いた。維心は慌てて隠れた。そして、房の中へと入って行く維月を、維心はそのまま見送った…自分には、勇気がない。

そして、宮へと逃げ帰った。


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