一から
維心は、月を見上げていた。
今日は、やっと二人の気配が無くなった…きっと、維月が人型になることが出来たのだ。今頃月の宮で蒼と対面しているはず。
維月が月へ戻ってから、維心はずっと月を見上げて来た。維月の気が月にすることは、維心を和ませた。死んだのではない、月に居るのだ。ゆえに毎日、月を見上げて、維月の名を呼んだ。返って来る声はなくとも、呼ばずにはいられなかった。会いたくてたまらない…この腕に抱き寄せたい…。
維心はひたすら、月を見上げてその気持ちを抑えた。小指にある結婚指輪は、必ず維月の指に戻すのだから。人型になれたなら、もうすぐ会える。維月…。
十六夜は、エネルギー体の維月が眠っているのを起こさないように起き出すと、一人龍の宮へと飛んで来ていた。思った通り、維心は起きていて、居間の明かりは暗めにしているものの、月を見上げて座っていた。十六夜は、その窓辺に舞い降りて、維心を見た。維心は十六夜の姿を見とめると、驚いて弾かれたように椅子から立ち上がった。
「十六夜!」
維心は急いで窓を開け、十六夜を見上げた。十六夜は窓枠に手をついて入って来た。
「維心」と目を合わせた。「維月が人型になった。」
維心は頷いて、十六夜の目を見返した。
「それで…」
記憶は、と言い掛けて、維心は戸惑った。聞くのが怖い。何もわからなくなって、もしかして維月ではなくなっているかもしれない…。
十六夜は悟って、言った。
「維月は間違いなく維月だ。だがな、記憶がはっきりしているのは30歳ぐらいまでで、それ以降は断片的に何かの拍子に出て来る程度で、まだ混乱している。」
維心は頷いた。それならば、我のことは覚えていまい。思い出すまで、会うことは叶わぬ…。視線を落とした維心に、十六夜は言った。
「…維心、明日維月をここへ連れて来る。あいつにはお前のことを話したんだ…ほんとはもっとゆっくり話すつもりだったんだが、月の宮ことを話してる時にお前の名が出てな。維月はそれを聞いて、覚えていないのに涙を流した…それに、お前にはわかるか?なぜか左手を見ていたぞ。維月にも、なんで自分がそんなことをしたのかわからないようだった。」
維心は顔を上げた。そして自分の左手を見た。維月は、覚えている。きっと底に沈んでいるだけで、思い出す…結婚指輪を確認したのだ。我のことを、深い所で覚えている。
十六夜は、維心の左手に光る結婚指輪を見た。そう言えば、維月も同じものをしていたのに、体を失った時に置いて来たのだろう。今は、維心の薬指と小指に刺さっている。維月が無意識に確認していたのは、これが自分の指にあるかどうかだったのだ。
「維月は、お前に会いたいと言っている。ここで暮らして、記憶を取り戻して行きたいと。」
維心は涙ぐんで頷いた。
「もちろん、待っている。臣下には状況を話しておく。何も心配することはないと伝えてくれ。」
十六夜は慎重に頷いた。
「…あのな、維心。本当に何も覚えてないんだ…神が居るってこと自体も最初は知らなかったんだからな。月で実体化の練習をしながら、教えて行ったんだ。思い出した訳じゃねぇ。あいつは人の維月だ。中身は人の記憶しかない。教えたから知っていることもあるが、本当に不安なはずなんだ。オレも毎日様子を見に来るが、くれぐれもよろしく頼むぞ。」
維心は覚悟したように一つ、深く頷いた。
「わかっておる。大丈夫、少しずつ思い出して行けばよいゆえ…我の中にある維月の記憶を戻すという方法はどうなのだろう?」
十六夜は首を振った。
「オレの中にある記憶を移そうとしたが、ダメだった。まるで他人事みたいに見える、と維月は言っていた。オレのやり方が悪いのかもしれないが…お前も一回試してみてくれてもいいがな。」
「やってみよう」維心は同意した。「しかし…今の維月にとって、我は見ず知らずの男であるはず。いきなり心をつなぐのは無理であるだろうな…。」
十六夜は、維心を見た。
「維心…。」
十六夜は、維心の気持ちを考えるとつらかった。もしも自分であったら、辛くて仕方なかっただろう。だが、維月と小さな頃から一緒だった自分は、記憶に残っていた。そして、その愛情も健在だった。
維心はその視線に気付いて、苦笑した。
「そのような目で見るでない、十六夜。もし記憶が戻らなくとも、もう一度維月に愛してもらえば済むのだ。我らは、また一から始めることが出来る…そう思うて、ゆっくり維月に接することにする。幸い我は寿命が定められておらぬ。何年でも待っておれるわ。」
十六夜は頷いて、また窓を向いた。
「じゃあ、また明日な。」
十六夜は空へと飛び立って行く。維心はそれを見送った後、期待と不安を胸に、それでも明日を待ち遠しく思いながら、月を見て夜を過ごした。
次の日の朝、十六夜に連れられた維月は、月の宮に置いていたであろう、維心が作らせた着物を着て龍の宮の庭へ降り立った。その姿は、人の頃より若干若く、維月の記憶がその頃のものであるのが見て取れた。維月は最初、不安そうに十六夜に寄り添っていたが、回りを見ているうちに、覚えがあると思ったようだ。少し緊張した面持ちだったが、しっかりした足取りで、維心の居間へ入って来た。
十六夜が、言った。
「維月…どれが維心かわかるか?」
そこには、維心と将維、それに洪が立っていた。維月は迷いなく維心を見ると、言った。
「維心様…?」
維心は満面の笑みを浮かべると、頷いて手を差し出した。
「よう帰った、維月。待っておったぞ。」
維月は、胸の奥から激しい感情が湧きあがって来るのを感じた。会いたかった…維月はそう思った。でも、このかたが誰なのかわからない。それなのに、とても会いたかった。そしてまた、記憶の無い別の維月は思っていた。なんて綺麗な顔のかたなのかしら…これが本当に王…?
維月がぼろぼろと涙をこぼしているので、維心は歩み寄って来た。
「何を泣いておるのだ、維月…我はここに居るではないか。」
維月は、維心の手を取った。なぜだろう、すごく安心する…。ここへ戻って来たかったような気がする。
「はい。申し訳ありません、維心様…一刻も早く思い出すように努力いたしますので。」
維心は頷いて、将維を指した。
「覚えておるか?将維よ。」
維月はじっと将維を見つめた。
「…とても維心様に似ておりますわね。」
維心は頷いた。
「我と主の第一子、将維だ。我らには6人の子が居る。最後の子はまだ生後3カ月ほどよ。」
維月は驚いた。6人も生んだの?…確かに、このかたのお子ならそれぐらい生んだかもしれない…。維月の瞳は興味深げに将維を見ている。将維は困った。まるで、他人のような視線。母はやはり、自分を記憶にとどめて居なかった。少し若くなっているその外見は、どう見ても自分より年下だった。その母は、言った。
「将維…なぜかしら、私、あなたと…。」
維月は首をかしげた。何か思い出しているらしい。維心はその肩を抱き寄せた。
「無理をせずとも良い。ゆるりと思い出せば良いのよ。」と今度は洪を見た。「重臣の洪よ。もしも我が居らぬ時に何か困ったことがあったなら、これに言えばよい。」
洪は頭を下げた。
「王妃様、我は承知致しておりまする。なんなりとお申し付けくださいませ。」
維月は返礼した。
「ありがとう、洪。」としばらく黙って、言った。「ああ維心様、他に臣下は、公李と、兆加?」
維心は驚いた顔をした。
「…覚えておるのか?そうよ維月、公李と兆加だった。だがの、公李は死して、今は居らぬ。ゆえにほとんどが洪と兆加よ。」
維月は明るい表情になった。
「なんだか思い出せそう!なんだか断片的なのですが…急にパッと出て来て、そして消えてしまう…。」
維心は微笑した。
「焦らずとも良い。」と十六夜を見た。「十六夜、主はどうする?我は維月に宮の中を見せて回ろうと思っておるが。」
十六夜は腕を組んでそれを見ていたが、首を振った。
「オレは行かねぇよ。宮の中は全部知ってるもんな。じゃあ、オレは任せて、帰るかな。」
維月が不安そうな顔をして振り返った。
「十六夜…?もう行くの?」
十六夜は苦笑した。
「なんて顔してやがる。また明日も様子を見に来るよ。あのなあ維月、お前が今感じた通り、ここはお前の居場所だったところだ。だから、安心していいんだよ。維心に会えて嬉しかったろう?その感覚を大事にしな。お前の勘は間違っちゃいねぇ。」
維月は頷いた。
「ええ…。がんばるわ。十六夜、また明日ね。」
十六夜は微笑んで維月の頬に触れた。
「ああ。念でも話せるんだから、安心しな。」
十六夜は、維心を見た。
「じゃあ、頼んだぞ。また明日も来る。」
維心は頷いた。
「任せておけ。」
十六夜は月に向かって飛び上がって行く。維月は、十六夜が恋しかったが、いつでも会えるのだからと自分に言い聞かせて、それを見送った。