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歪んだ曼珠沙華

作者: Aldith

どこからともなく漂ってくるのは金木犀の甘い香り。抜けるような青空に浮かぶのは、真っ赤に色づいた赤とんぼ。急ぎ足で深くなっていく秋を楽しむかのように、真鍋は大きく息を吸っていた。


澄み切った空気はどこか凛とした気配を帯び、寝苦しいと思っていた夜も一日ごとに過ごしやすくなっていく。だが、この時期というのはほんの一瞬でしかない。そのことにどこか物悲しさを覚えるよりは、楽しんだ方がいいと真鍋は思い、気持ちのいい秋の空気に全身をひたらせていた。


「真鍋さん、ちょっといいかしら?」


秋の空気を震わせる鈴のような声が、真鍋の耳に心地よく響く。ちらりとそちらへ視線を向け、相手が持っているものを認めた真鍋は、気分を害したように眉をひそめていた。


「麻美さん、またその花を摘んだんですか? その花は嫌う人が多い、とあれほど教えたじゃないですか」


不満そうな色が彼の声には含まれているが、麻美はそれを気にする色も見せず、のんびりとした調子で言葉を紡いでいく。


「そうかしら。でも、この花、綺麗じゃないですか。まるで炎のようにも見えるし。それに、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)っていえばいいと思うんですけど?」


そういいながら口を尖らせる麻美の顔に、真鍋はわざとため息をついてみせる。たしかに、言い方を変えてしまうというのは方法かもしれない。彼女が口にした『曼珠沙華』という言葉には、『天上の花』という意味があるのだから。しかし、この花は不吉な花だと忌み嫌う人の方が多い。だからこそ、あえて摘まなくてもいいだろう、という思いが彼の中にはあるのだ。


もっとも、口に出されることはなくとも、思いは表情として浮かんでいる。どこか不満気な真鍋の顔を見た麻美は、クスリと笑うと髪をかきあげていた。


艶のあるまっすぐな黒髪がさらりとその指からこぼれおち、肌理の細かい白い肌をひきたてる。大きな黒い瞳はどこか潤んだような色を浮かべ、形のいい唇は三日月の弧を描く。その姿に、真鍋が思わず見とれたようになっていることを知っているのか、麻美は誘うような言葉を口にする。


「ね、ちょっとお話ししましょうよ。私がこの花を摘みたいっていうわけ、話したくなっちゃったわ」


そう言うと、麻美は真鍋の手を引っ張ると強引に腰を下ろさせていた。落ち葉が降り積もったそこは、まるでクッションのきいたソファーのよう。赤い曼珠沙華の花を腕一杯に抱えていた麻美は、その花をあたりにまき散らしていた。


色白の彼女が血の色を思わせる曼珠沙華の中に座っている。その姿は、どこか凄惨な雰囲気を与えないでもないというのに、彼女の口の端には変わらぬ微笑みが張り付いている。その姿に背筋がゾクリとした真鍋だが、逆らえないというような顔をして彼女の隣に座っていた。そんな彼の顔を覗き込みながら、麻美はクスクスと笑うだけ。


「麻美さん、話したいことがあるんじゃなかったんですか?」


麻美の態度に、気分を害したような真鍋の声が冷たく響く。しかし、彼女は気にする様子もなく首をすくめ舌をペロリと出すと、彼の表情をうかがうような上目遣いでゆっくりと口を開いていた。


「ええ、話したいことあるわ。このことは、誰かにきいてほしいんだもの」


そう言いながらも、麻美はすっと真鍋の顔から視線を外す。そして、彼女の周囲に散らばっている曼珠沙華の花を愛おしそうに拾いながら、言葉を続けていた。


「これを見ていたら、あの日のことを思い出すの」


「あの日のこと?」


麻美の口調が微妙に変化していることに、気がついた真鍋だが、それを指摘するよりも、彼女が話そうとしていることの方が気になって仕方がない。あたりにたちこめる金木犀の甘い香りがますます強くなっていき、二人の体を包み込んでいく。


その気配が秋の深まりを告げ、二人の目の前を赤とんぼがのんびりと飛んでいる。その中に広がる、血の海を思わせる曼珠沙華の絨毯とそこにたたずむ麻美の姿。あまりにも奇妙なアンバランスさを真鍋は感じているが、そのことを口にすることができない。彼は彼女が口にした『あの日のこと』という言葉の意味だけが知りたくなっていた。


「麻美さん、あの日のことって?」


なかなか話そうとしない彼女の様子にじれったさを感じた真鍋が、誘い水をかけるように問いかける。そんな彼の姿に、麻美はまた肩をすくめると視線をどこか遠くへとやっていた。


聞いてくれ、と彼女から言ったにも関わらず、なかなか話しだそうとはしないその姿。そのことに、真鍋は段々と苛立ちだけを強くしている。二人の間には緊張感をはらんだ空気が広がり、針でつつけば弾ける風船のような危うさだけが大きくなっていく。


「麻美さん、話したくないならもういいですよ。僕だって、いつまでもあなたに付き合っていられるほど、暇じゃないんですから」


いつまでも態度の変わらない麻美に業を煮やしたように、真鍋はそう告げる。そのまま立ちあがると、彼はズボンについていた落ち葉をパンパンと軽く払い、その場を離れようとした。その彼を見た麻美は急に顔色を変えたかと思うと、低い声で呟いている。


「あなたも、やっぱり同じなのね」


その声は注意していないと聞きとれないほど小さい。それでも、真鍋の耳には届いていたのか、彼の足が止まる。それを見た麻美は勢いよく立ちあがると、彼の胸倉をその小さな手で思いっきり叩く。


「あの日もそうだったじゃない。私のことなんて丸っきりみてない。まるで切れた電球を取り換えるみたいに私にサヨナラ言ったじゃない。でもね。私はそんなことで簡単にサヨナラするような軽い女じゃないのよ。そのことも分かってなかったの?」


それまでの穏やかな口調が一変して激しさを含んでいる。いや、それよりも感情を抑えることができなくなったように、彼女は荒々しく言葉をぶつけていく。堰を切ったような勢いの言葉と殴られる胸倉。思ってもいなかったことが続くことに、真鍋はグラリと傾いた体をなんとか立て直そうと必死になっていた。


「ねえ、覚えてないの? あの時、あなたは私のことをあっさりと捨てたの。ええ、でも、そんなこと、認められるって思ってるの? そんなことが認められるはずないじゃない。だから、私はあなたをあの色の中に沈めたの」


そういうなり、麻美はニッと唇を釣り上げる。さきほどまではサンゴのように見えていたそれが、血のように赤い。その微笑みは、仏像などによくみられるアルカイックスマイル。笑っているはずなのに感情の見えない顔に、真鍋は背筋が凍るような思いしか抱けない。


「麻美さん、誰に向かっていってるんだい? 僕は君にサヨナラなんて言ったことはないだろう?」


その言葉に、麻美は信じられないというような表情を浮かべるだけ。その口元に浮かぶ微笑みの弧はますます大きくなり、今では下弦の月のようにもなっている。その頬笑みのまま、彼女は真鍋の手を離すまいというように握りしめると、耳元で囁いていた。


「今、言ったじゃない。それも忘れちゃったの? でも、いいのよ。私から離れることなんてできないんだもの。そんなこと、させたりしないわ。ええ、本気でそんなこと思ってるのなら、あなたをもう一度、あの時と同じようにこの色の中に沈めてあげる」


途中で言葉を挟むことなど許さないように、麻美は言葉を真鍋に叩きつける。その言外の意味に気がついた彼は、背に虫が這うようなザワリとした悪寒だけを感じている。


麻美の今の言葉を信用するなら、彼女は罪を犯したと告げているのと同じ。そのことを確認したい彼は、声が震えるのを無理矢理におさえつけ、問いかけの言葉を口にする。


「麻美さん……君は……人を殺したのかい?」


真鍋の声は、微かに震える。その声を耳にした麻美はコクリと首を傾げると、何事もなかったように応えていた。


「あら、そうだとしたらどうするの?」


その様子にはどこにも悪びれたところがない。まるで、ゴミが落ちていたから捨てたのよ、というような調子。感情の見えないアルカイックスマイルと、艶めかしさを感じさせる唇が紡ぐのは、現実とは思えない言葉。


それを耳にした真鍋の体が硬くなるのを、麻美は月の弧をますます深くしながらみつめるだけ。その口がまたゆっくりと開かれる。


「真鍋さんはそのことを知って、どうなさりたいの?」


先ほどまでの激情が嘘のような穏やかな声。急に彼女の態度が変わったことに驚きながらも、真鍋は応えなければいけないのだ、ということを本能的に悟っている。


「どうしたいんだろうね。でも、こんなことを話して、無事に済むと思ってるのかい?」


真鍋のその声に、麻美は肩をビクンと震わせる。その震えが恐れからだろうかと手を差し伸べかけた真鍋の耳に、乾いた笑い声が響いてきた。


カラカラというそれは秋の空に響いていく。微かに漂っていた金木犀の甘い香りも、赤とんぼが飛ぶ姿もかき消してしまうような狂おしさをはらんだ音。それが、隣にいる麻美の喉から発せられていることに気がついた真鍋は、何も言うことができなくなっていた。


ひたすらに笑い続ける彼女は、息をするのも忘れたようになっている。苦しさの余り、しゃがみこんでしまったが、それでもその視線はしっかりと真鍋の顔から外されることがない。


「ねえ、私がここから出られないってあなたは知ってるんじゃない。ここの扉は、絶対に私を外に出さないんじゃない。だったら、いくら話しても大丈夫よね? あなたは私をここから出さない。ううん、出せないんだもの」


艶めかしい表情で真鍋を見つめながら紡がれる言葉。そういいながら、彼女は摘んでいた曼珠沙華の花弁をむしっていく。みるまに彼女の周りには緋色が溢れだし、その中に埋もれたようになっていく。


そんな彼女にむかって、真鍋が手を差し伸べ、何かを言いかけた時。彼の背後からおどおどしたような若い女の声がきこえていた。


「先生。そろそろ、午後の診察のお時間です。診察室に戻っていただけませんか?」


その声に、真鍋は差し伸べかけた手をグッと握ると、後ろを振り返る。そこにいたのは、大人しそうな表情をした若い看護士。その姿にふっと息を吐いた彼は、麻美に向けるのとは違う表情で応えていた。


「わかったよ。戻るから、そんな顔をしない。あ、彼女はあのままでいいからね。気がすめば部屋に戻るだろうから」


そう言うと、真鍋は白衣の裾を翻し、麻美のそばを離れていく。そんな彼の姿も目に入らないように、彼女は曼珠沙華の赤い花弁をちぎり続け、まき散らし続けていた。


目にも鮮やかな緋色が埋め尽くし、金木犀の甘い香りが息苦しさも感じさせる。真鍋のことを呼びに来た若い看護士はこの光景に魅入られたように立ちつくすだけ。その彼女の前で、無心ともいえる様子で花をちぎる麻美の姿は、あまりにも非現実的。その姿に、若い看護士は背筋が寒くなるのを抑えることができなくなっていた。

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