お母さんは気が狂っている
わたしのお母さんは、たぶん気が狂っている。
「ねえ、お母さん。お祭りに行きたい」
わたしが話しかけても上の空。赤ちゃんの弟を守るように抱っこしたまま、振り向いてもくれない。育児はたしかに大変なのだろうけれど、わたしだってお母さんの子どもなんだし、少しくらい反応してくれてもいいのになと思ってしまう。わたしはしょんぼりした。慣用句で表すなら『肩を落とす』といったところか。
お母さんは弟をゆうらゆうらと揺らしながら、小さな声で子守歌を口ずさんでいた。その歌はわたしもよく歌ってもらった。もうずっと前のことだ。過ぎ去った日々をわたしは懐かしく振り返った。あの頃は弟もいなくて、お母さんはわたしだけのお母さんだった。ずっと一緒にいた。本当に、一日中ずっと。そんなわたしたち二人のあいだに、弟はいつのまにか現れた。弟が憎いわけじゃない。けっして嫌いな訳ではないのだけれど……
お母さんは絵本を読むのも上手で、わたしの好きだった絵本を何度も読んでくれた。何か用事をしていても、わたしと目が合うと「絵本読む?」と笑いかけてくれて、わたしを膝にのせてページをめくった。「いまは駄目」なんて言われたことはなかったし、ましてや無視されるなんて想像もしていなかった。
お母さんは弟に歌い続ける。子守歌のメロディは優しくて、少し悲しげ。わたしはいまでもこの歌が大好きだから、囁くようなその歌声にじっと耳を傾けていた。お母さんのスカートの裾が揺れている。歌を聴くうちに胸がぎゅうっとなったわたしは、我慢できずにまたお母さんを呼んだ。
「お母さん」
すると、お母さんがようやく振り向いた。偶然でも嬉しかった。わたしは飛び上がるほど喜んで、その拍子に転んでしまった。お母さんは「あらあら」と片手を使って起こしてくれて、そして「だめよ」と言った。
「あなたはお姉ちゃんでしょ。弟が起きちゃうから静かにね」
お母さんは、怒っているわけではなかった。けれどその落ち着いた声と顔は、わたしの望みを受け入れる気が一切ないことを物語っていた。お母さんは再び弟に微笑みかけると、体を揺らし、「いい子ね」とあやした。
諦めの悪いわたしは、それでも言ってみる。
「ねえ、お祭りに行こうよ」
すぐそこに見える夏祭り。前はよくお母さんと一緒に行った。連なる提灯、たくさんの露店。特設の舞台では歌や踊りの披露もあった。いろんな出し物の中で、わたしが一番好きなのはハワイの踊りだった。行ったことのないハワイの景色が見えるようなメロディとステップ。「フラっていうのよ」とお母さんから教わった。
舞台を観ながら振りを真似したりもして、お母さんも楽しそうだった。お母さんが笑うとわたしも嬉しかった。弟が出来るまでは毎年の恒例行事だった。わたしはただ、もう一度あの頃みたいな夏をお母さんと過ごしたかった。
「ねえ、お母さんてば」
わたしは半分泣きべそをかいていた。お母さんは何も返事をしてくれなくて、弟だけを見つめ、子守唄を聴かせていた。お母さんはたぶん気が狂っている。だって、お母さんが弟と呼んでいるそれは枕なのだから。
「お母さん……」
そのときドアが開いて、若い看護師さんが入ってきた。笑顔の看護師さんは、まるで『眠っている赤ちゃん』を気遣うように声を潜めた。
「赤ちゃん、眠ってますか?」
お母さんも微笑み返した。
「ええ。よく眠ってます」
わたしは大人二人の足元で、その様子をじっと見上げた。お母さんは病室の枕を大事そうに抱いていた。なぜお母さんは枕を赤ちゃんだと思うのだろう。ふんわり柔らかいところが似ているのかな。それに、ずっと抱いていると温かそうだしな。
看護師さんは窓辺に行くと、鉄格子の内側の窓を開けた。ふうっと風が流れ込んでカーテンを揺らした。
「わあ、見てください。お祭りが賑やかですよ」
わたしの顔に風が当たった。外の匂い。お祭りの音。懐かしさが胸に押し寄せた。フラのメロディ。お母さんの笑顔。看護師さんは外を見ながらお母さんに尋ねた。
「お祭り、行ってみませんか?」
けれどお母さんは断った。
「いいえ。ばい菌だらけの人混みに赤ちゃんを連れて行くなんて不用心ですもの。わたしはこの子を守らなくてはなりません」
看護師さんは「……そうですね」と話を合わせて、「でもきっと気分が晴れますよ。少しだけなら――」とこちらを振り向いた。
看護師さんの悲鳴が響き渡った。無理もない。お祭りの音に居ても立ってもいられなくなったわたしが、看護師さんの肩に飛びついたから。
わたしは、看護師さんの肩でフラを踊ろうと思った。ここならお母さんの目の高さだし、わたしが踊ればお母さんもきっとあの頃みたいに笑ってくれる。
看護師さんはわたしを振り払おうと泣き叫んだ。お母さんはがたがたと震え出し、金切り声で「静かにして!」と喚き散らした。
わたしは悲しくなった。やっぱりお母さんは気が狂っている。だってお母さんの声の方がよっぽどうるさいし、腕の中の弟は枕なのだから。
懐かしい音が風に乗って流れてくる。看護師さんはわたしを床に叩きつけた。硬くて冷たいセルロイド製の、古ぼけた人形のわたしを。




