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ヒューマンドラマ

“ドアマット”って、そういうことじゃない……

作者: 黒井 新
掲載日:2026/04/11

 アーシアの一日は、罵声で始まる。


「遅い! 朝食の準備ができていないじゃない!」


 義姉エレノアの声が、食堂に響き渡る。


 アーシアの実父が亡くなり、使用人たちは全員解雇。継母とエレノアは彼女を使用人のように扱っていた。


「ご、ごめんなさい……!」


 アーシアは慌ててパンを運ぶが、その手は震えていた。昨夜はほとんど眠れていない。深夜まで廊下の掃除をさせられ、その後は洗濯物の山に埋もれていたのだ。


「はあ……見てるだけで苛立つわね」


 エレノアはパンを一口かじると、露骨に顔をしかめた。


「固いわ。こんなもの、家畜でも食べないわよ」


「す、すぐに焼き直します!」


 アーシアが手を伸ばした、その瞬間――


 パシンッ!


 乾いた音が鳴った。


 パンが床に落ちる。


「あ……」


「落としたわね。ふふ……そのまま食べなさい」


「……え?」


「あなたが落としたんでしょう?」


 冷たい視線が突き刺さる。


 アーシアは一瞬ためらい、それでも小さく「はい」と答えた。


 埃を払うこともできず、パンを口に運ぶ。


 砂のような感触が歯に当たった。


「ふふ……本当に、みっともないわね」


「本当に。まるで躾のなっていない子犬みたいね」


 優雅に紅茶を口に運びながら、継母が言う。


 二人のくすくすと笑う声が、やけに響いた。


 毎日、アーシアは働かされ続けた。


 掃除、洗濯、炊事、買い出し。少しでも気に入らなければ怒鳴られ、時には物を投げつけられる。


 そして――


 継母は穏やかな声音で言う。


「私たちに感謝なさい。あなたが一人でも生きていけるように、何でも任せてあげているのだから」


 それを聞き、エレノアは満足げに微笑んでいた。



「……まだそこ、汚れてるわよ」


 夜。


 床を磨き続けるアーシアの背後で、エレノアが呆れたように言った。


「はあ……本当に鈍いわね。だからあなたはダメなのよ」


 ため息とともに、吐き捨てる。


「あなたみたいなのを、“ドアマット”って言うのよ」


 それは、ただの侮蔑の言葉だった。

 踏みつけられて当然の存在。価値のないもの。


 その言葉に、ふっと笑い声が重なる。


「いい表現ね、エレノア」


 背後に立っていた継母が、くすりと笑った。


「ちょうどいいじゃない。あなたには、お似合いよ」


 だが──


 アーシアは、その言葉を真正面から受け止めてしまった。


(ドアマット……)


 その夜、彼女は眠れなかった。

 頭の中で、言葉がぐるぐると回り続ける。


(ドアマットって……なんだろう……)



 翌朝。


「お義姉さま! お義母さま!」


 玄関に響く、やけに明るい声。


「な、何よ朝から騒がし――」


 言いかけて、エレノアは固まった。

 隣で継母も、表情を凍らせる。


 玄関の前。


 そこに、アーシアがうつ伏せに寝そべっていた。

 両手両足を広げ、床にぴたりと張りつくように。

 顔だけをぐいっと上げ、覚悟を決めた表情を見せる。


「お義姉さま、お義母さま、どうぞ踏んづけてくださいまし!」


「……は?」


 一瞬、時間が止まる。


「わたくし、ドアマットですから! 汚れを受け止めます! さあ、遠慮はいりません! さあ!」


 その目は本気だった。狂気すら宿している。


 エレノアと継母の背筋に、ぞわりと寒気が走る。


「ひっ……!?」


「ま、待ちなさい! な、何なのそれ!?」


「ですから、踏んづけてくださいませ! さあ! さあ!!」


「ド……ドアマットって、そういうことじゃない!」


 全力で否定するエレノア。


 継母も慌てて後ずさる。


「そ、そうよ! 違うわ! 違うに決まってるでしょう!」


 アーシアは起き上がり、きょとんと首をかしげる。


「違うのですか……?」


「「違うわよ!!」」


 二人は揃って叫び、そのまま逃げるように玄関を離れた。


 残されたアーシアは、ぽつりと呟く。


「違う……?」



 それから三日三晩、アーシアは考え続けた。


 食事もそこそこに、眠りも浅く、ひたすらに。


(ドアマット……踏まれるもの……でも違うって言われた……)


 記憶を辿る。

 屋敷の玄関に置かれている、本物のドアマット。


 人はそこに何をするのか。


 ――足を、こすりつける。


(汚れを……落としてる……?)


 その瞬間、彼女の中で何かが繋がった。


「……そうか」


 ゆっくりと顔を上げる。


「ドアマットって……汚れを、家に入れない存在……!」


 ぱあっと表情が明るくなる。

 理解した。自分の役割を。



 それからのアーシアは、変わった。


 まず、玄関に立つ。

 じっと、床を見つめる。


 次に、外から入ってくる客人の靴を凝視する。


「……砂、三粒」


「え?」


「そのまま入ると、廊下が汚れます」


 そう言って、無言で雑巾を取り出した。


 ゴシゴシゴシゴシゴシ!


「ちょ、ちょっと!?」


 一瞬で靴底が磨き上げられる。


 さらに、ゴミを見つければ即座に駆け寄って拾い、汚れを見つければすぐに拭き取る。わずかな埃も逃さない。


 その鋭い眼光は、まるで獲物を狙う獣のよう。


 その様子を――


(な、何してるのあの子……)


 エレノアは柱の陰から、震えながら見ていた。


 その隣で──


(これは、行き過ぎでは……?)


 継母もまた、引きつった笑みを浮かべていた。


 だが――


「そこ……汚れます」


「「ひっ!?」」


 いつの間にか背後に立たれていて、二人同時に悲鳴を上げる。


「お義姉さま、お義母さまの靴……少しだけ」


「い、いいいいいわよ別に!」


「そそそ、そうよ!」


 二人は揃って逃げ出した。


 アーシアは追わない。ただ、床を見つめる。


「……守らなきゃ」


 小さく呟く。


 それは彼女にとっての使命だった。


 やがて彼女は、汚れに対して異様なまでに敏感になっていく。


 空気の流れを読み、埃の軌道を予測し、最適な掃除の手順を導き出す。


 掃く、拭く、磨く。


 そのすべてが、洗練されていく。


 屋敷は日に日に輝きを増し――


(どうしてこうなったのよぉ……)


 エレノアは遠くからその様子を見つめ、ただ震えるしかなかった。


(こんなはずでは……)


 継母もまた、同じように。


 自分たちが吐き捨てた一言が、こんな怪物を生み出すなんて、夢にも思わなかったのだから。


 かつて快適だったはずの自宅での生活は、どこか息苦しいものへと変わっていた。


 アーシアは、今日も汚れを許さない。


 それが“ドアマット”の役割だと、信じているのだから。


「お義姉さま、お義母さま、その靴を……さあ! さあ!!」


 アーシアの笑みは、二人の目には不敵なものに映った。


「ひ、ひぃぃぃぃい!!」


「い、いやあああああ!!」


 二人の悲鳴が、屋敷中に響き渡った。



 その後。


 かつて優雅だった継母とエレノアは、街をふらふらと彷徨っていた。


「つ、ついてない……何もついてないわよね……? ここ……ここ……!」

「見ないで……見ないでって言ってるでしょ……! わ、私は汚れてないわ……!」


 二人は互いの袖や肩を何度も払おうとしたが、途中でびくりと手を止める。


「今、いた……後ろに……あの子が……」

「き、聞こえるの……“そこ、汚れてます”って……ずっと……ずっと……」


 誰もいないはずの背後を振り返り、怯えたように身をすくめる。


「来る……磨かれる……や、やめて……!」

「いや……いやあああ……綺麗にしないで……!」


 周囲の冷ややかな視線にも気づかず、二人はなおも叫び声を上げ続けた。



 一方その頃、アーシアは何一つ困ることなく暮らしていた。


「お義母さまとお義姉さま……きっと、わたくしが一人でも生きていけるように、陰から見守ってくださっているのですね」


 そう信じて、今日も床を磨く。


 すべてが思い通りに整っていくこの日々は、彼女にとって何よりの喜びだった。


「……完璧です」


 静まり返った屋敷に、満足げな声だけが、優しく響いていた。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。


誤字報告、ありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
おもしろいです! ドアマットヒロインとは、こういうヒロインのことをいうのかぁー…。
壊れちゃったかー
なるほど⋯⋯? 未だにドアマットヒロインが分からないので、 こういうものだと理解を更新してみようと思います(たぶん、違う、あはは笑)
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