“ドアマット”って、そういうことじゃない……
アーシアの一日は、罵声で始まる。
「遅い! 朝食の準備ができていないじゃない!」
義姉エレノアの声が、食堂に響き渡る。
アーシアの実父が亡くなり、使用人たちは全員解雇。継母とエレノアは彼女を使用人のように扱っていた。
「ご、ごめんなさい……!」
アーシアは慌ててパンを運ぶが、その手は震えていた。昨夜はほとんど眠れていない。深夜まで廊下の掃除をさせられ、その後は洗濯物の山に埋もれていたのだ。
「はあ……見てるだけで苛立つわね」
エレノアはパンを一口かじると、露骨に顔をしかめた。
「固いわ。こんなもの、家畜でも食べないわよ」
「す、すぐに焼き直します!」
アーシアが手を伸ばした、その瞬間――
パシンッ!
乾いた音が鳴った。
パンが床に落ちる。
「あ……」
「落としたわね。ふふ……そのまま食べなさい」
「……え?」
「あなたが落としたんでしょう?」
冷たい視線が突き刺さる。
アーシアは一瞬ためらい、それでも小さく「はい」と答えた。
埃を払うこともできず、パンを口に運ぶ。
砂のような感触が歯に当たった。
「ふふ……本当に、みっともないわね」
「本当に。まるで躾のなっていない子犬みたいね」
優雅に紅茶を口に運びながら、継母が言う。
二人のくすくすと笑う声が、やけに響いた。
毎日、アーシアは働かされ続けた。
掃除、洗濯、炊事、買い出し。少しでも気に入らなければ怒鳴られ、時には物を投げつけられる。
そして――
継母は穏やかな声音で言う。
「私たちに感謝なさい。あなたが一人でも生きていけるように、何でも任せてあげているのだから」
それを聞き、エレノアは満足げに微笑んでいた。
◇
「……まだそこ、汚れてるわよ」
夜。
床を磨き続けるアーシアの背後で、エレノアが呆れたように言った。
「はあ……本当に鈍いわね。だからあなたはダメなのよ」
ため息とともに、吐き捨てる。
「あなたみたいなのを、“ドアマット”って言うのよ」
それは、ただの侮蔑の言葉だった。
踏みつけられて当然の存在。価値のないもの。
その言葉に、ふっと笑い声が重なる。
「いい表現ね、エレノア」
背後に立っていた継母が、くすりと笑った。
「ちょうどいいじゃない。あなたには、お似合いよ」
だが──
アーシアは、その言葉を真正面から受け止めてしまった。
(ドアマット……)
その夜、彼女は眠れなかった。
頭の中で、言葉がぐるぐると回り続ける。
(ドアマットって……なんだろう……)
◇
翌朝。
「お義姉さま! お義母さま!」
玄関に響く、やけに明るい声。
「な、何よ朝から騒がし――」
言いかけて、エレノアは固まった。
隣で継母も、表情を凍らせる。
玄関の前。
そこに、アーシアがうつ伏せに寝そべっていた。
両手両足を広げ、床にぴたりと張りつくように。
顔だけをぐいっと上げ、覚悟を決めた表情を見せる。
「お義姉さま、お義母さま、どうぞ踏んづけてくださいまし!」
「……は?」
一瞬、時間が止まる。
「わたくし、ドアマットですから! 汚れを受け止めます! さあ、遠慮はいりません! さあ!」
その目は本気だった。狂気すら宿している。
エレノアと継母の背筋に、ぞわりと寒気が走る。
「ひっ……!?」
「ま、待ちなさい! な、何なのそれ!?」
「ですから、踏んづけてくださいませ! さあ! さあ!!」
「ド……ドアマットって、そういうことじゃない!」
全力で否定するエレノア。
継母も慌てて後ずさる。
「そ、そうよ! 違うわ! 違うに決まってるでしょう!」
アーシアは起き上がり、きょとんと首をかしげる。
「違うのですか……?」
「「違うわよ!!」」
二人は揃って叫び、そのまま逃げるように玄関を離れた。
残されたアーシアは、ぽつりと呟く。
「違う……?」
◇
それから三日三晩、アーシアは考え続けた。
食事もそこそこに、眠りも浅く、ひたすらに。
(ドアマット……踏まれるもの……でも違うって言われた……)
記憶を辿る。
屋敷の玄関に置かれている、本物のドアマット。
人はそこに何をするのか。
――足を、こすりつける。
(汚れを……落としてる……?)
その瞬間、彼女の中で何かが繋がった。
「……そうか」
ゆっくりと顔を上げる。
「ドアマットって……汚れを、家に入れない存在……!」
ぱあっと表情が明るくなる。
理解した。自分の役割を。
◇
それからのアーシアは、変わった。
まず、玄関に立つ。
じっと、床を見つめる。
次に、外から入ってくる客人の靴を凝視する。
「……砂、三粒」
「え?」
「そのまま入ると、廊下が汚れます」
そう言って、無言で雑巾を取り出した。
ゴシゴシゴシゴシゴシ!
「ちょ、ちょっと!?」
一瞬で靴底が磨き上げられる。
さらに、ゴミを見つければ即座に駆け寄って拾い、汚れを見つければすぐに拭き取る。わずかな埃も逃さない。
その鋭い眼光は、まるで獲物を狙う獣のよう。
その様子を――
(な、何してるのあの子……)
エレノアは柱の陰から、震えながら見ていた。
その隣で──
(これは、行き過ぎでは……?)
継母もまた、引きつった笑みを浮かべていた。
だが――
「そこ……汚れます」
「「ひっ!?」」
いつの間にか背後に立たれていて、二人同時に悲鳴を上げる。
「お義姉さま、お義母さまの靴……少しだけ」
「い、いいいいいわよ別に!」
「そそそ、そうよ!」
二人は揃って逃げ出した。
アーシアは追わない。ただ、床を見つめる。
「……守らなきゃ」
小さく呟く。
それは彼女にとっての使命だった。
やがて彼女は、汚れに対して異様なまでに敏感になっていく。
空気の流れを読み、埃の軌道を予測し、最適な掃除の手順を導き出す。
掃く、拭く、磨く。
そのすべてが、洗練されていく。
屋敷は日に日に輝きを増し――
(どうしてこうなったのよぉ……)
エレノアは遠くからその様子を見つめ、ただ震えるしかなかった。
(こんなはずでは……)
継母もまた、同じように。
自分たちが吐き捨てた一言が、こんな怪物を生み出すなんて、夢にも思わなかったのだから。
かつて快適だったはずの自宅での生活は、どこか息苦しいものへと変わっていた。
アーシアは、今日も汚れを許さない。
それが“ドアマット”の役割だと、信じているのだから。
「お義姉さま、お義母さま、その靴を……さあ! さあ!!」
アーシアの笑みは、二人の目には不敵なものに映った。
「ひ、ひぃぃぃぃい!!」
「い、いやあああああ!!」
二人の悲鳴が、屋敷中に響き渡った。
◇
その後。
かつて優雅だった継母とエレノアは、街をふらふらと彷徨っていた。
「つ、ついてない……何もついてないわよね……? ここ……ここ……!」
「見ないで……見ないでって言ってるでしょ……! わ、私は汚れてないわ……!」
二人は互いの袖や肩を何度も払おうとしたが、途中でびくりと手を止める。
「今、いた……後ろに……あの子が……」
「き、聞こえるの……“そこ、汚れてます”って……ずっと……ずっと……」
誰もいないはずの背後を振り返り、怯えたように身をすくめる。
「来る……磨かれる……や、やめて……!」
「いや……いやあああ……綺麗にしないで……!」
周囲の冷ややかな視線にも気づかず、二人はなおも叫び声を上げ続けた。
◇
一方その頃、アーシアは何一つ困ることなく暮らしていた。
「お義母さまとお義姉さま……きっと、わたくしが一人でも生きていけるように、陰から見守ってくださっているのですね」
そう信じて、今日も床を磨く。
すべてが思い通りに整っていくこの日々は、彼女にとって何よりの喜びだった。
「……完璧です」
静まり返った屋敷に、満足げな声だけが、優しく響いていた。
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