隙間
「はぁ……今日も疲れた」
社会に出て一年。
憧れていた会社に入社したが、理想とかけ離れた現実に、八つ当たりするように肩から下げたバックを乱暴に床に置いた。
着替えもせずにそのままベッドに横たわり、天井を見ながら大きなため息をひとつ吐き出す。
そして、肺に溜まった鬱憤を部屋にぶち撒け、少しだけ体が軽くなるのを感じると、瞳をゆっくりと閉じる。
ベッドの奥へと飲み込まれるように、全身が沈む感覚が心地よく、それに身を任せていると、しわくちゃな祖母の顔が瞼の裏に浮かび上がった。
柔和な笑みで、私の頭を愛おしそうに撫でながら、話しかける。
「佳奈やい……"隙間"の向こうの世界って知ってるかね」
「隙間の世界?」
「知りたいかい? でもこれを聞いたらね――」
懐かしいな。
「助かりたい時は――」
確か盆の夏に遊びに行った時に話してくれた、隙間の世界の怪談。
祖母に抱きつきながら話を聞いていたことを覚えている。
「そうさね。隙間の世界にいる住人は、生きてる人間に憧れてるのさ」
当時の私はこの話を聞いて怖くて、隙間を見ることができなくなっていた。
大人になって思えば作り話だと分かっているが、幼少の頃に感じたことは今でも引きずっている。
子供の頃ほどじゃないが、無意識に隙間を視界に入れないようにしていると思う。
それもこれも悪戯好きな祖母のせい。
私を困らせて楽しんで……でも、大好きだったな。
次の休みにでも――
「――やば! 寝てたっ!」
意識が急に現実に引っ張られると、跳ねるように飛び起きて、スマホの画面を見た。
「もう、2時!? やっちゃった〜」
急いでお風呂入らなきゃ。
はぁ〜……最悪。
――――
「どうしてあんな夢を見たんだろう……」
湯船に肩まで浸かり、祖母との夢を思い返す。
懐かしさと子供の頃に感じた不気味さが、胸の奥にへばりつき、少しだけ気分を押し下げる。
「せっかくなら、楽しい夢がいいのにな〜」
はぁっと、湯船の心地良さを感じながら天井を見上げると、換気扇のカバー僅かにずれて"隙間"が生まれていた。
「あんなところに、隙間なんてあったっけ?」
普段意識してなかったが、夢のせいかその隙間が異様に気になってしまう。
目を離せずにじっと見つめていると、突然扉の方からパキリとした木が鳴るような音がした。
その瞬間、呼吸が詰まり動けなくなる。
湯船で温まっているはずが、全身を虫が這うように総毛立ち、体が大きく震えてしまう。
「……怖っ……上がろう」
浴室から出ると、急いで部屋に戻る。
「一度気になると……ちょっと」
部屋の至る所には隙間がたくさんある。
カーテンと窓の隙間。
入口の扉にある隙間。
半開きになった、収納の扉の隙間。
スマホとケースのわずかな隙間。
その隙間の奥からじっと見られているような、視線が喉元にまとわりついて、無意識に呼吸が浅くなる。
ガシガシと適当に髪を乾かす間も、テーブルにできた染み凝視して誤魔化すが、ふとした拍子に首筋を得体のしれない気配に撫でられるような気がしていた。
半乾きだけど……気にしない。
真っ暗にすれば、隙間なんて見えなくなる。
そう思い、ベッドに飛び込んで部屋を暗くすると目を閉じた。
――――
スマホから鳴るけたたましい音、が鼓膜を叩くと急いで飛び起きる。
……うるさいな。
はぁ〜、これから仕事かー。
背伸びをすると、節々からポキポキとした音が鳴る。
「ふぁ〜。準備するか〜」
大きく口を開けると、目尻に涙が集まり頬を垂れて筋を作る。
それを手で拭うと、ようやくベッドから出る覚悟ができた。
クローゼットに手を伸ばす。
「……あ」
勝手に声が漏れて、伸ばした手が止まってしまった。
隙間……。
なんか奥の方で。
いや、見ちゃだめ。
慌てて視線を下に逸らして、勢いよくクローゼットを開けた。
恐る恐る顔を上げると……いつもの光景が目にはいる。
……普段なら気にしないのに。
昨日の夢をずっと引きずってしまう。
「なんか……嫌だな。早いけど仕事に行こう……」
少しずつ思い出してきた昨日の夢に、部屋の空気がいつもより重たくて暗く見えてしまう。
それがまとわりついてくるようで、逃げるように会社に向かうことにした。
――――
「おはようございます」
職場に到着すると、同僚の姿がちらほらと。
乱雑に置かれた書類の山に、各々の机にはたくさんのファイルが置かれている。
就業前にも関わらず、たまに聞こえるキーボードを叩く音が、今日は私に安らぎを与えてくれるようだった。
私の挨拶に軽い会釈を返してくれる同僚達はすぐに、自分のパソコンへと顔を向けてしまう。
それでも一人じゃないという安心感に、足が軽くなった気がした。
良かった。いつも通りで。
思わず心でそう呟くと、肩にかけた鞄を机に降ろして席に座る。
鞄の中から仕事に必要な物を取り出していると、視界の端に少しだけ空いた引き出しが見えた。
――まただ。
自然と手が止まり、意識が無理やり少し空いた引き出しへと吸い寄せられる。
体が乗っ取られたように動かすことができず、隙間の奥底を覗き込もうと、瞳が勝手に開かれた。
少しずつ顔が近づいて、僅かにできた細長い闇の向こうを見ようとすると、その奥に腰の曲がった老婆の姿が見えた気がした。
覗いちゃだめ……早く、顔を逸らさなきゃ。
そう思うが体は言うことを聞いてくれない。
「あ……」
こっちに振り向こうとしている。
老婆の頭が少しずつ、動いていた。
――やばい。
本能がすぐに離れろと警告する。
心臓の鼓動が小刻みに何度も大きく跳ねると、骨を揺らして鼓膜を震わせた。
唇が震えてるのが分かる。
半開きとなった口の奥底で、乾いた喉が貼り付くようにピリつく。
老婆の顔の半分が見えた頃、不意に横から声をかけられた。
「かーなっ! おっはよ! 今日は早いね」
その陽気な声に、体を拘束していた闇が弾け飛び、瞳に色が戻る。
「由奈……おはよ」
「およ? どうしたの? 元気ないね」
「うん……ちょっと夢見が悪くてさ」
「なになに? 話してごらんよ」
同期の由奈はいつも通りのテンションで、ぐいぐいと私に迫ってきた。
愛嬌のある笑顔で誰にでも明るく接する彼女は、職場でも人気である。
そう言う私も彼女とはよく遊んだり、くだらない話をする仲で、会社で1番心を開いていた。
「ん〜……それがさ――」
素直に私は彼女に話すことにした。
――――
「――はは〜ん。隙間に老婆ね。分かった! 私が覗いてみる!」
「ええ! 危ないから辞めなよ!」
私は由奈にそう言うが、手をひらひらとさせて軽く流されてしまう。
「それじゃ、今日家に帰ったらじっと見つめてみるからさ。何か分かったら教えるね」
由奈がそう言うと、自分の席へと行ってしまった。
少しだけ不安だけど、きっと大丈夫。
そう言い聞かせて自分も仕事を始めた。
――――
「連絡こないな」
仕事が終わり、由奈からの連絡を待っているが一行に来ない。
時間は23時……遅い。
もしかしたら寝ちゃったのかも。
そう思い、明日会社で話を聞くことにする。
――目を閉じればすぐに朝になるくらい、体は疲れ切っていたらしく、先日と同じようにアラームに叩き起こされる。
スマホに手を伸ばしアラームを切ろうと画面を見ると、由奈から通知が入っていた。
急いでそれを開く。
「……どう言う……こと?」
そこには"隙間"と一言だけ書いてあった。
悪戯かな?
そう思いたかったが、腹の奥がざわざわと騒がしくなる。
――――
会社に到着すると、彼女の姿があった。
「由奈……おはよう。昨日は大丈夫だった?」
そう声をかけると、由奈がこっちに振り向く。
「――ひっ」
その顔を見た瞬間に、思わず小さい声が漏れる。
目が大きくくぼみ、黒い字のような隈ができていた。
血走った瞳が私を捉えると、紫色の無数のヒビが入った唇がゆっくりと動く。
「おは……よう」
喉が潰されて押し出されたような彼女の声は、地の底から響いてくるようで、背筋に怖気が走る。
それを聞いて咄嗟に自分の席へと戻るが、激しくなった脈はどんどん強くなるばかりだった。
下を向いて彼女をみないようにすると、机の上に影が伸びる。
そして、耳元に吐息がかかると体が固まったように動かなくなった。
「――待ってるから」
そう囁くように声がして、影が消えると体が自由になった。
少しだけ由奈の方へと視線を向けると、よろけながら歩く彼女の姿がかすかに見えた。
その異変に気づいた他の同僚達が、由奈へと集まると、医務室へと連れて行かれる。
――それから、彼女を見ることはなかった。
「由奈……どこに行ったの? 私がこの話をしたから」
目の前の隙間に語りかけるように言葉を口にしたが、返答はない。
由奈が消えてからずっと隙間が気になってしかたない。
今もこうして、何十分も覗いている。
すると隙間の向こうの闇がかすかに揺れ動いた。
ああ……やっときた。
老婆の後ろ姿が見えると、どうしてか心が安心するように感じる。
今回は何があっても逃げない。
ゆっくり動く頭に合わせて体もこっちに向うと動き出す。
そして、完全に顔が見えた時、自分の行動を後悔した。
「ああ……おばあちゃ……ん。なんで?」
見知った顔。
それは私の祖母だった。
白目を向いて口をあんぐりと開けて、こっち向かってゆっくりと歩いてくる。
だらしなく涎を撒き散らし、言葉にできない唸り声を上げていた。
逃げ出そうとするが、指先ひとつ動かせない。
「嘘……家にいるはずだよね。あなたは――誰」
そう言った瞬間に、祖母と思しき老婆が勢いよく向かってくると、隙間からこっちを覗いた。
「――聞いちゃった? 聞いちゃった? 聞いちゃった?」
祖母の声でそいつが言う。
「――変わろ、変わろ。体、変わろ」
その瞬間、視界が暗転する。
――――
「――っう! ゆ……め?」
飛び上がるように起き上がると、自分の部屋の床で寝ていた。
特に体も変わった様子はなく、さっきのできごとが夢に思えてしまう。
ただ、夢にしては鮮明で……
「なんで……私が……」
いるの?
隙間の向こう側には私が座っていた。
なにをするでもなく、佇むようにその場から動かない。
すると、顔がぐるりと回転してこっちを見る。
ぐいっと近寄ってくると、窪んだ瞳が私を捉えた。
「変われたね、変われたね」




