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昨夜の、あの指先が絡み合った熱が、まだ肌に焼き付いている。クロエは開店前の店内で、自分の震える手を抑えるようにして、真っ白なエプロンの紐をきつく結んだ。これまで、誰かに自分の聖域を侵されることをあんなにも拒んできたはずなのに。ジュリアンに触れられた場所から、自分という存在が書き換えられていくような、甘い恐怖が消えない。
そこへ、予告なしにサファイア・ブルーのベントレーが滑り込んできた。降り立ったジュリアンの手には、銀色の箔押しが施された、重厚なミッドナイトブルーの箱があった。
「……おはよう、クロエ。昨夜はよく眠れたか?」
カウンター越しに覗き込むジュリアンのネイビーの瞳は、獲物を追い詰めた肉食獣のような、獰猛で熱い輝きを湛えている。
「いいえ。……あなたのせいで、豆を挽く夢ばかり見ていました」
クロエが精一杯の皮肉で返すと、ジュリアンは低く愉しげに笑い、箱をカウンターに置いた。
「今週の土曜日だ。ロンドン最大の社交イベント『クリスタル・ガラ』が開かれる。……君を、私の公式なパートナーとして連れて行く」
「……お断りします。私はドレスも持っていませんし、そんな華やかな場所は、この店よりもずっと私に似合いません」
「ドレスなら、その箱の中に用意させた。君の灰色の瞳によく映えるはずだ」
ジュリアンは強引に箱を開けた。中には、溜息が出るほど美しい、深い紺青色のシルクドレスが収められていた。
「……どうして、ここまで私に固執するのですか?あなたなら、もっと貴婦人やモデルを連れて行くことだって容易なはずです」
クロエの震える問いに、ジュリアンの表情から余裕が消えた。彼はカウンターを乗り出し、彼女の顔を両手で挟み込むようにして、至近距離でその瞳を射抜いた。
「……なぜか、だと?」
彼の声は、低く、切実な響きを帯びていた。
「私はこれまで、ロンドンの半分を買い取り、残りの半分を支配してきた。周りにいるのは、私の資産を計算し、私を利用しようとする『偽物』ばかりだ。……だが、君だけは違った」
ジュリアンは、彼女の柔らかな肌を慈しむように親指でなぞる。
「君が淹れるコーヒーには、一滴の嘘もない。君は私の名前も、地位も関係なく、ただ一人の渇いた人間に、命を吹き込むような一杯をくれた。……君の誠実さに触れた瞬間、私は自分が、どれほど空虚な城に住んでいたかを思い知らされたんだ」
ジュリアンの熱い吐息が、クロエの唇をかすめる。
「君のその高潔な魂も、私を拒絶するその唇も、すべて私だけのものにしたい。……君を全ロンドンの男から隠しておきたいが、同時に、私が心底惚れ込んだ唯一の女性であることを、全世界に見せつけたいんだ。……この矛盾に、私が一番苛立っている」
あまりに剥き出しの、傲慢で切ない独占欲。これまでのプレイボーイとしての仮面を自ら粉砕し、一人の男として降伏を宣言するような告白だった。
「……ジュリアンさん……」
「君を連れて行く。拒否権はない。……そのドレスを纏い、私の腕の中で、君がいかに私の心を支配しているかを証明してくれ」
ジュリアンは、クロエの額に誓いを立てるように深く接吻した。孤高のバリスタとして自分を律してきたクロエは、今、皇帝の圧倒的な熱量に巻き込まれ、逃げ場のない溺愛の渦へと、自ら足を踏み出そうとしていた。




