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ロンドンの夜景を地上二百メートルから見下ろす、ジュリアンのプライベート・オフィス。壁一面のガラス越しに見えるシティの灯りは、まるで漆黒のベルベットに散りばめられたダイヤモンドのようだった。だが、この贅を尽くした空間に、場違いなほど優しく、どこか切ないコーヒーの香りが満ちていく。
クロエは、ジュリアンが用意させた最高級の抽出器具を前に、いつになく指先を震わせていた。隣には、完璧なタキシード姿のまま、彼女の所作を一つも漏らすまいと凝視するジュリアンがいる。
「……そんなに見つめられては、最高の味は保証できません」
クロエが静かに、だが乱れた呼吸を隠すように言った。
「無理だな。君が私のために神経を研ぎ澄ませている姿から、片時も目を離したくない」
ジュリアンはそう囁くと、さらに一歩、彼女の背後から距離を詰めた。クロエの背中に、彼の厚い胸板から伝わる確かな熱が、そして耳元に、低く掠れた吐息が触れる。
クロエがドリップケトルを傾けようとした、その時だった。
「……火傷をするぞ。少し、注ぎ口がぶれている」
ジュリアンが背後から彼女を包み込むようにして、大きな手を伸ばした。彼の掌が、ケトルを握るクロエの細い手を、上からゆっくりと覆う。
「っ……」
心臓が跳ねた。熱い。ケトルの熱などよりも、彼女の手を包み込むジュリアンの皮膚の熱が、電気のような衝撃となって全身を駆け巡る。ジュリアンは、彼女の指の間に自分の指を滑り込ませ、まるで一つの生命体のように、二人でゆっくりと湯を注ぎ始めた。
絡まる指先。ジュリアンの指は長く、節くれ立って、不動産王として世界を動かしてきた男の力強さに満ちていた。その指が、クロエの柔らかな肌を、愛しむように、そして所有を誇示するように強く圧す。
「……私の前では、孤高のバリスタである必要はない、クロエ」
ジュリアンは彼女の耳たぶをかすめるように、熱い告白を零した。
「君のその震えも、乱れた呼吸も、すべて私が見つけ出したものだ。……私だけが、君のこの熱を知っていればいい」
クロエはもう、湯の落ちる音さえ聞こえなかった。目の前で膨らむ琥珀色のドームも、窓の外の絶景も、すべてが白く霞んでいく。意識のすべてが、自分の指に絡みつく彼の指の感触と、首筋に感じる彼の熱い唇の気配に支配されていた。
湯を注ぎ終えても、ジュリアンは手を離さなかった。それどころか、彼はケトルを静かに置き、空いた方の手でクロエの腰を抱き寄せ、自分の方へとゆっくりと振り向かせた。
至近距離でぶつかり合う、ネイビーの瞳と灰色の瞳。ジュリアンの瞳には、独占欲という名の深い情熱が、渦を巻いて燃え盛っている。クロエの唇が、期待と、拒絶できない本能に震えた。ジュリアンの顔がゆっくりと降りてくる。あと数ミリ――。
だが、ジュリアンはその寸前で動きを止め、彼女の頬を親指でそっと撫でるにとどめた。焦らすような、あまりに甘美な刑罰。
「……今夜は、この香りに免じて君を離してやろう。……だが、明日の朝、店を開ける時には、君の唇には私の残香が刻まれているはずだ」
ジュリアンはそう言うと、彼女の額にだけ、熱く、重い口づけを残した。クロエは、足元が崩れ落ちそうな感覚に陥りながら、ただ彼の胸を掴んで耐えるしかなかった。
孤高を貫いてきたはずのバリスタは、今、皇帝の私室で、その圧倒的な愛の重力に、一歩も動けず囚われていた。




