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翌朝、クロエは鏡の前で、自分の指先をじっと見つめていた。昨夜、ジュリアンに掴まれた手首に、まだ微かな熱が残っているような錯覚に陥る。
これまでも、多くの男たちが彼女に近づいてきた。甘い言葉を囁く遊び人も、資産を自慢する実業家もいた。だが、彼らの瞳に映っていたのは「美しいバリスタ」という記号に過ぎなかった。彼らは彼女のコーヒーを「口説くための小道具」としてしか扱わず、クロエはその底の浅さを見透かしては、静かに心を閉ざしてきた。
(……なぜ、あの人だけは違うの?)
ジュリアン・ヴァンス。彼は傲慢で、強引で、支配的だ。けれど、彼は昨夜、確かに言った。君のコーヒーがなければ一歩も前に進めないと。それは、クロエが誰よりも大切にし、孤独の中で磨き上げてきた「職人としての誇り」に対する、この上なく純粋な跪きだった。自分の魂が、世界で最も不遜な男に「見出されてしまった」。その悦びが、恐怖を上回る熱となって、彼女の頑なな防壁を内側から溶かしていく。
開店して一時間後。いつもの咆哮と共に、ブルーのベントレーが到着した。だが、今日のジュリアンは一人ではなかった。高級スーツに身を包んだ部下たちが、大きな木箱を幾つも運び込んでくる。
「……ジュリアンさん、これは一体何事ですか?」
思わず名前で呼んだクロエに、ジュリアンは満足げにネイビーの瞳を細めた。
「昨日、パナマの農園を丸ごと買い取った。これはそこから直送させた、今年最高の出来と言われる『ゲイシャ』の生豆だ。……それと、君が以前から興味を持っていたはずの、ヴィンテージの焙煎機も手配した」
クロエは絶句した。彼が差し出したのは、宝石でもドレスでもない。クロエが「もっと高みへ行きたい」と密かに願っていた、バリスタとしての夢そのものだった。
「……こんなもの、受け取れません。あまりに高価すぎます」
「高価なものか。君の淹れる一杯が、私の数十億ポンドの判断を支えているんだ。投資としては安すぎるくらいだ」
ジュリアンはカウンター越しに身を乗り出し、部下たちを下がらせると、二人きりの空間で彼女を閉じ込めた。ダークブラウンの髪から香る、都会的なコロンと、彼の情熱的な体温がクロエの理性を麻痺させる。
「君の誠実さを愛している、クロエ。君が淹れるコーヒーに、私は嘘をつけない自分を見つけた。……だから、君のその才能を、私という男を使ってどこまでも羽ばたかせてほしい。……君を甘やかすのは、世界で私一人だけでいい」
「……っ」
ジュリアンの大きな手が、彼女の頬を優しく、だが逃がさないという確信を持って包み込む。クロエは震えた。彼に認められることが、これほどまでに自分を「一人の女」として強く意識させるとは。
「君を、ロンドンで一番幸せなバリスタにする。……今夜は店を早めに閉めろ。私のプライベート・シアターで、最高の豆を試飲しながら、誰にも邪魔されない時間を過ごそう」
強引な誘い。だが、その声は甘い蜜のようにクロエの鼓動を狂わせる。ほだされていく自分を、もはや拒むことはできなかった。職人としての矜持を尊ばれ、女としての本能を揺さぶられる。ジュリアンの圧倒的な溺愛という檻に、クロエは心地よく囚われ始めていた。




