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ロンドンの夜は、深い藍色のヴェールで街を包み込んでいた。『エメラルド・ビーン』の入り口に掲げた「CLOSED」の札が、外灯の光を受けて微かに揺れている。クロエは静まり返った店内で、今日使った器具を丁寧に磨き上げていた。
ふと、雨音に混じって重厚なドアを叩く音が響いた。時計は既に午後九時を回っている。訝しげに顔を上げたクロエの視線の先には、ガラス越しに立つジュリアンの姿があった。
コートも羽織らず、シャツの襟を少し崩した彼は、数時間前までの冷徹な不動産王の面影をどこかに置き忘れてきたかのようだった。
「……ヴァンス様?もう閉店いたしました。お忘れ物ですか?」
クロエが鍵を開けると、ジュリアンは強引に中へ入り込み、そのままカウンターに手をついた。乱れたダークブラウンの髪が額にかかり、ネイビーの瞳はひどく疲弊しているように見える。
「……淹れてくれ。一杯でいい」
「ですが、火も落としてしまいましたし……」
「頼む、クロエ。……これがないと、私は今夜、一歩も前に進めそうにないんだ」
その掠れた声に含まれた切実さに、クロエの胸が小さく跳ねた。彼は今日、あの数十億ポンドのプロジェクトを完遂させたはずだ。勝利を手にしたはずの男が、なぜこれほどまでに渇いているのか。
クロエは何も言わず、再びグラインダーに豆を投入した。静寂の中に響く、豆を挽く乾いた音。やがて、夜の空気を震わせるように、芳醇な香りが立ち上る。
「……お待たせいたしました」
差し出された琥珀色の液体を、ジュリアンは両手で包み込むようにして口にした。熱い蒸気が彼の顔を覆い、強張っていた表情が、見る間に解けていく。
「……これだ。この味だ」
ジュリアンは深く息を吐き、陶酔したように目を細めた。
「今日、私は数千人の雇用と天文学的な数字の利益を確定させた。……だが、そんな成功の喜びなど、君が淹れるこの一杯の温もりには到底及ばない」
ジュリアンはカップを置くと、カウンター越しにクロエの、少し荒れた指先をじっと見つめた。
「君のコーヒーなしには、もう生きられない体になったようだ。……この誠実な苦みが、私の汚れた神経を洗い流してくれる。君という女性そのもののように、気高く、混じり気がない」
その言葉は、クロエの心の最も深い場所に届いた。父を亡くし、たった一人でこのカウンターを守り続けてきた日々。誰に媚びることなく、ただ最高の味を追求してきた自分の歩みが、世界を動かす男の魂を救っている。
「……嬉しい。そんな風に言っていただけるなんて」
クロエの灰色の瞳が、熱を帯びて潤んだ。これまで孤独に耐えてきた彼女にとって、プロとしての矜持を認められることは、どんな愛の言葉よりも甘美な報酬だった。
ジュリアンはその隙を見逃さなかった。彼は長い手を伸ばし、カウンター越しにクロエの細い手首を掴んだ。
「……クロエ。私は生まれて初めて、自分でも制御できない欲望に苛まれている。……君が淹れるコーヒーを、私以外には誰にも飲ませたくない。君のその瞳も、その指先も……すべてを、私だけのものにしたいんだ」
あまりに強引で、独占欲に満ちた告白。これまでのプレイボーイとしての駆け引きなど、そこには微塵もなかった。ただ、一人の男として、自分にとって不可欠な存在を繋ぎ止めようとする、切実な情熱。
「……ヴァンス様……」
「ジュリアン、と呼べ。……私の名前を、その綺麗な声で、コーヒーを淹れる時のように誠実に呼んでくれ」
引き寄せられた距離。クロエの鼻先を、微かなコーヒーの残香と、ジュリアンの体温がくすぐる。ほだされていく自分を止めることができない。孤独なバリスタとして生きてきた彼女の檻は、今、強引な愛という光によって、音を立てて砕け散ろうとしていた。




